第46話 恋の発露
早苗が退院して数日したのち、絵麻と早苗は弁護士事務所へ赴き、二人ともその場で契約を取り交わした。
早苗は弁護士に、一刻も早く離婚ができるなら、慰謝料も刑罰も最小限で構わないと依頼した。
しかし、診断書や警察の調書だけでなく、レオが調査した証拠など、既に十分過ぎるほどの材料が揃っていたため、求め以上の成果は出せるはずだと請け合ってくれた。
帰る段になり、往路は別々だったが、帰路は送ることにした。レオがアパートでよろしいでしょうか?と聞くと、早苗は少し離れた住所を口にした。
「実家なの。退院してから戻って、アパートへは荷物を取りに行ったくらい。親から車を借りて、平日に少しずつ運んでるんだ」
結婚してからまったく実家へは帰っていないと愚痴をこぼしていたから、遠方なのだと思っていたら電車で二駅の距離だったらしい。
「そんなに近かったんだ?」
「そう。智也とは高校で出会ったからね」
「あ、そう言ってたね」
「スマホも買ったし、内容証明が届いたら智也のスマホも送りつけてやる」
早苗は意気込んでいる様子だ。こうと覚悟を決めてからは、別人のように生き生きとし始めている。
二週間ほどして、弁護士から智也の会社と智也の不倫相手の自宅に、内容証明が送付された。
仕事のため自宅では受けとれないだろうというのは表向きの配慮で、実のところは、内容証明が届いたことで少なからず噂の種になるだろうと見越したものだった。
不倫相手は実家に住んでいるようなので、仕事で不在の時間帯を狙って、敢えて両親の目に留まるように仕向けたのだ。
智也の不倫は堂々としたものだったらしく、会社の近くで2人が度々目撃されていたことが、一部では既に噂になっていたらしい。それに加えて、カッとなるとデスクを叩いたり、物を投げる性質を職場でも見せていたり、パワハラやモラハラ発言も多く、後輩だけでなく同僚からも反感を買ったことが少なくなかったそうだ。
わざわざ内容証明なる書類が送られてくるということは、何やら許され難い所業があったゆえではないかと噂になり、狙い通り会社での評価が失墜したようだ。
そういった噂はすべて、後輩である生田の情報網から仕入れることができた。生田は友人たちに智也の実態を事細かに話したらしく、会社だけでなく交友関係の場でも居場所をなくしたはずだと言っていた。
同時に刑事告訴も無事に受理された。捜査が始まった段階だからまだ逮捕されるかどうか不確定ではあるものの、被害届以上の打撃は与えられるだろう。
「ありがとう。まさかここまで上手くいくとは思わなかった」
早苗はテーブルにコーヒーを置きながら言った。
絵麻はレオとともに早苗の実家に招かれ、リビングのソファに並んで座っていた。
「いい香り! いただきます」
早速とばかりに飛びつく。早苗の淹れてくれるコーヒーは無二なのだ。
「ありがとうございます」
レオもすぐさまカップを口に運んだ。横目で見ると、さも嬉しげで、レオも早苗のコーヒーが好きらしい。
早苗の実家は一戸建てで、建て替えと同時に大掛かりな断捨離もしたのだと言って、物が少ないため広々としている。リビングにも大きなソファが二つもあり、ゆったりとしていて居心地がよい。
「そうだ、ケーキも焼いたんだけど、食べる?」
「本当? 是非いただくわ。いいの?」
「うん、桐谷さんが食べてみたいって言ってたから二種類作ってみたの。たくさんあるから……ちょっと待ってて」
早苗は立ち上がり、再びキッチンへと消えた。
今日の招きは、早苗からの誘いだった。
怪我を負ってうやむやになってしまった桐谷との約束を果たすために、二人きりではまずいからというのが理由だ。つまり例の会がとうとう開かれることになったのである。そのため、約束通りレオは休暇という扱いになり、普段なら車で待機しているはずが、この場にいるのである。
「桐谷さんが食べてみたいって何?」
絵麻はつぶやいた。レオに聞いたわけではなく、心の声が口から出た感じだ。
「桐谷さんは料理に凝っていらっしゃるんです。おそらくその流れでケーキの話題になり、柏木さんが振る舞うことにされたのではないでしょうか」
しかしレオは自分が聞かれたと思ったようで、知りたくもないけど答えてくれた。
「へえ」
「柏木さんにメールで色々とご相談をされていらっしゃるとお伺いしております」
「それって、どっちが先なのかしら」
料理のほうに興味が先にあり、早苗のツイキャスやポストを見るようになったのか、早苗に好意があったからなのか。
「疑問に感じられるまでもないことだと存じますが」
「どういうことよ」
レオのほうを向くと、訝しむように、本当にわからないのですか?とでも言う顔でこちらを見ていた。
わかるはずがない。人の恋心がどのように生じたのか考えようとしたこともないのだから。
そう言えば、と思いつき、絵麻はまじまじとレオを見た。
レオの自分を見つめる眼差し。再会したときに、見ただけで過去の記憶が呼び戻されたもの。
それは誰もが自分に向けてくる、見慣れたはずの美への陶酔だと思っていたが、どうやら違うらしい。それに最近気づき始めた。
東大をストレートに出た理由が、絵麻の執事になることだと言い、時間と労力だけでなく、能力の全てを注いで満足している。
幼い頃にいじめられていたとして、人嫌いだったけど一緒に遊んでくれたからとか、もっともらしい理由が思い浮かぶものの、ここまでするには足りないように思う。自分のすべてを懸けるに値するとは思えない。
自分は既婚者であり、レオはその夫もろとも仕えているのだから、理由が愛であるはずがないと思っていた。しかし、桐谷の向ける早苗への思いをレオが説明してくれたとき、相手が既婚だろうが恋心を抱く障害にはならないと言ったのを聞いて、レオの価値観にそういう考えがあることを知った。
だから、レオのこの度が過ぎた情熱は、愛が理由なのかもしれないと考え始めた。
人から愛を向けられることには慣れている。これまでにも何人もの人から言い寄られてきた。
だが絵麻には、生まれる前から決められていた婚約者がいる。その清澄と結婚するからと全て断ってきた。
いや、清澄だけが理由でもなく、単に誰にも興味を持てなかった。相手が自分の何を求めているのかが一目瞭然だったからだ。
美と身体と金。
絵麻のことをよく知りもせずに、好きだの愛しているのだと言ってくるのはそれが理由だと思った。
恋の始まりはステータスでも、後から変わっていくのかもしれない。だとしても相手にする気にはなれなかった。そして断ると、相手は興味をなくし、粘ってまで言い寄ろうとする人は誰もいなかった。
それらの中で、レオだけが異質だった。何も求めてこず、ただそばにいて、執事として働けていればいいという愛を向けてくる。
なぜそこまでというほどの。
人の恋心がどのように生じたのか興味のない絵麻も、レオのことだけは別だった。
「どうぞ」
考えにふけっていたとき、早苗が戻ってきた。切り分けたケーキをトレーに乗せている。
「ありがとう」
それを受け取り、「いただきます」と言って一口食べた。
「うま!」
驚くほどの美味しさだった。あちこちの高級レストランで舌が肥えている絵麻ですら、これまで食べたどのケーキよりも美味しいと思った。素朴だが深みがあり、素材の味を個々に感じながらも完璧に調和しているのだ。
「よかった」
「こんなの初心者には再現できないわよ」
桐谷が到達できるレベルだとは思えない。
「そうかな? 大したことしてないんだけど」
「絵麻様」
いつの間にかケーキを平らげていたレオが立ち上がり、こちらに目を向けた。
「なに?」
「ちょっと出てきます」
「なんで?」
「道がわからないそうです」
そう言うと、返答も聞かずにスタスタとリビングルームを出ていった。
「うう、緊張する」
早苗は両手で頬を挟んだ。
「そうよねえ。まさかよね」
「桐谷さんともまだ何度かしか会ってないっていうのに、生田さんを連れてくるなんて……」
今日はレオの言っていた例の会なのだが、目的自体は当初と変わっていた。コーヒーの淹れ方を習うのではなく、生田を連れてくるというのが今回の目的らしい。
「生田さんと連絡はとってるの?」
早苗は驚いたように「とってないよ!」と答えた。
「あの日にレストランで食事した以来だよ」
「なんで来るのかとか理由は聞いた?」
「聞いてないけど……」早苗は顔を曇らせた。しかしそれを振り払うかのように笑顔になった。「二人が幼馴染なんてビックリだよね。しかも桐谷さんのほうが年上なんだよ? 言われれば確かにと思うけど、落ち着きっぷりが全然違う」
「確かに」絵麻も笑って答えた。「桐谷さんはまだ学生みたいよね」
「そうそう」
「ねえ早苗さん、離婚したら生田さんと付き合うの?」
ずっと気になっていたことだった。智也との再構築を選んだときに、生田への淡い恋心は振り切ったのだと思っていた。しかし、離婚するとなれば話は変わる。
「えっ?」
「生田さんに惹かれていたみたいだったから」
「あ……」早苗は凍りついたように固まった。
今日生田を連れてくる理由は謝罪のためだろう。それ以外にないと思う。つまり、早苗は騙されていた事実を知ることになる。もしも生田に対して本気なら、残酷な事実を突きつけられることになるのだ。
事前に本心を聞いたところでショックを受けることには変わりないだろうが、それでもアドバイスなりをして、心の準備をさせることはできるかもしれない。
「絵麻さんが前にメールしてくれたじゃん? 『旦那が厳しい人だから、同僚の人の優しさが思った以上に響いたんじゃないかな』って」
「あぁ……」言ったような言ってないような。
「あのときは確かに生田さんに夢中だったけど、それって逃避だったのかなって。智也に優しくして欲しいときに生田さんから優しくしてもらえて、夫から返してもらえない分の穴埋めになっていたのかなって」
絵麻は驚いた。メールで熱を上げていたのが嘘のように冷静に自己分析している。
「実際さ」早苗は続ける。「生田さんと私って、並ぶと違和感凄くない? 見た目もそうだけど、空気感が違う感じ。絵麻さんとなら絵になるけど」
「は? やめてよ」
絵麻は本気で答えた。しかし早苗は謙遜ととったらしく、ふふふと笑った。
「例えば憧れのアイドルとか俳優が目の前にいて、口説かれたらクラクラとするでしょ?」
「……まあ」
しないが、話を合わせるために肯定した。
「生田さんはそういう相手なの。絵麻さんが言ってくれたとおり、まさに推し。だから素敵だとは思うけど、二人で出かけたいとか、何かしたいとか、まったくイメージできない。私のほうが緊張して無理だから。いつまでも素なんて出せないと思う」
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、もし生田さんのほうから本気だって言われたら?」
「あり得ないって」
早苗は笑った。
「あり得るかもよ」
答えると、早苗はびっくりしたように目を丸くした。
「あり得ないって……」
もう一度繰り返したときの表情は、少し赤らめているように見えた。
自分ではとても手が届かないはずだからと、本気にならないように言い聞かせているのだろうか? アイドルや俳優のような別次元の存在だと切り離してしまっているから、ブレーキをかけているのかもしれない。
「影谷さん、遅くない?」
早苗が聞いた。
「あ、そうね」
時計を見ると、レオが出ていってから15分以上は経っている。
「さすがにおかしいよ。事故かな?」
早苗は立ち上がった。
「事故なら連絡がくるはずだわ」
「それとも、私たちを二人きりにするために気を効かせてくれたのかな?」
「そんなやつじゃないって」
絵麻は笑って返したが、事実そうかもしれないとも思った。意外と人の気持ちを読んだり考えたりする面があるやつだ。
そのときインターホンの音がして、「来たかな?」と、早苗は既に立っていたのでそそくさと玄関のほうへ向かった。
やはり浮き浮きとしているように見える。生田に会えることが楽しみらしい。
それもそうかもしれない。端正な顔立ち、朗らかな笑顔、優しい口調、紳士的な態度、女性受けしそうな要素だらけの男だ。
絵麻はむしろそういった余裕たっぷりな冷静さが気に入らない。まるで似ていないが、そこだけは清澄のようなのだ。好かれて当然。この立場にいて当然という余裕に腹が立つのである。
そうこう考えているうちに数分経っている。しかし早苗もレオもやってこない。リビングに絵麻一人取り残されている。
さすがに妙だと感じて、絵麻も玄関のほうへ向かった。
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