第45話 愛
なんとも言いづらいが、何かしらは説明したほうがいいだろう。生田が智也と繋がっていたことは濁しつつ、話したことは事実なのだからと、絵麻はなんとか捻り出した。
「じゃあ、絵麻さんだけじゃなくて生田さんもあのとき助けてくれたんだ」
「そうなの。私が救急車を呼ばなかったら、生田さんが呼んでたと思う」
早苗に話したのは、アパートの駐車場で倒れていたときに、生田もやってきたということだけだ。二人の会話は耳にしていないということにした。その件は、告訴も被害届も出さず示談になっているから、今のところあの音声は聞いていないはずだ。
嘘を付くことになるが、まだ傷の癒えていないこの状況で話すには気が引ける。必要に迫られたら説明をすればいいと判断した。
「なんで生田さんは来たのかな?」
「えっと……心配だったからじゃない? コンビニから駐車場見てたけど、旦那さん怒ってる感じだったし」
早苗は、ああそうか、という顔をしていたため、納得してくれたようだ。
「生田さんは心配してくれたんだ……」
ぽつりと言った早苗の声は、喜んでいるようにも、何やら感慨深げにも聞こえた。
「さっき、旦那さん来てた?」
絵麻は話題をそらすことにした。これ以上突っ込まれたらボロを出しそうだ。
「えっ? ……うん、毎日来る」
「それはやっぱり謝罪に?」
「そう。昼休みをつぶしてわざわざ来てくれてます」
早苗は苦笑いを浮かべて言った。
「再構築……するの?」
メールでは、まだ浮気は続いているようだとも言っていたし、再構築を選ぶとは思えなかったが、確認のために聞いてみた。
「まさか」
早苗は驚いた顔で答えた。しかし、それ以上は何も言わずに押し黙ってしまった。
絵麻も言葉を継げず、部屋はしんとなってしまう。
「こちらは、淹れてもよろしいでしょうか?」
レオが場の沈黙を破った。片手にコーヒーメーカーのポットを持っている。
「あ、はい。ありがとうございます」
ハッとした早苗が答えた。
レオはカップに注ぎ、それぞれに手渡す。
「いただきます」
絵麻はカフェインで気力取り戻そうと、さっそく口につけた。
早苗がカップをサイドテーブルに置いたのを見て、よしとばかりに聞いてみることにした。
「再構築しないなら、つまり離婚するつもりってことよね?」
しかし、早苗はきょとんとしただけだった。絵麻は返答を待つも、答える様子はないので続けることにする。
「義兄の姉から、弁護士紹介してもらえたから……その……」
早苗の表情がみるみる曇っていくのを見て、取り戻したはずの威勢が削がれてしまった。
「うん。そうだね……」
ようやく答えたものの、口重い様子で乗り気ではないようだ。というか、考えたくないように見える。
「お見舞いに来てこんな話してごめんね」
絵麻は申し訳なくなり、本心から言った。
「ううん」早苗は微笑した。「むしろありがたい。……弁護士なんて、まったく考えてなかったから……」
この後ろ向きな姿勢は、まだ怪我をしたばかりだからだろうか。
「今回のと合わせて、前回の件についても被害届を出せますし、告訴もできます」
レオが遠慮がちに割って入った。
早苗は顔をあげてレオに目を合わせたが、痛みで顔をしかめたようにすぐに逸らした。それは傷のせいか、心の痛みなのかは判別できない。
「離婚しかないよねえ。他人事ならすぐにでも別れるべきことだと思う」
そのとおりだ。一刻も早く離婚をして欲しい。今日も退院を待たずに、見舞いに来させてもらったはそのためなのだから。
証拠の内容はわからずとも、早苗から聞いた話や、実際に対面して得た智也の印象、二度も入院させるほどの暴力を振るったことからも、離婚以外にないと思う。
しかし、それは他人が外側から見ただけのことだ。なぜこんな男と結婚したのだろうと不思議でも、当事者には別の景色が見えている。現状が酷いだけで、以前は優しかったとか、生涯を添い遂げたいと思う魅力があったはずなのだから。それを振り払うのは容易ではないだろう。
「早苗さん」
絵麻は、早苗の本音が知りたかった。
「なに?」
「旦那さんのこと、愛してる?」
こちらの感情や思い込みが含まないように、何気なく聞こえるように努めて聞いた。
「えー? 何言ってんの……」
早苗は絵麻が冗談で聞いたと思ったようで、笑い飛ばそうとでもするかのような顔になった。
しかし、絵麻の表情からそうではないと気づいたのか、笑みはすぐに消え、視線を逸らして、考え込むように壁のほうへ向けた。
絵麻はそんな早苗を見て、本音を知りたかったわけではないことに気づいた。早苗に自分自身の本音を見定めて欲しいと思っていたのだ。
幸せになるために結婚したのなら、愛はあったはずだ。政略結婚が理由か、何か目当てがない限りは普通そうだろうと思う。
そして、一度願ったことは、簡単には諦めきれない。彼となら幸せになれると思えたから結婚を決めたのだ。その願いも同様に、諦められないだろう。
絵麻ですら同じ想いを持っている。幸せなど感じたこともなければ、求めたこともないものの、清澄との結婚で何かしら切り拓けるものだと信じていたのだから。
離婚とはつまり、その願いを断ち切るということだ。どんなに最低な結婚生活でも、自分の願いや希望を断ち切って、まったく別の未来を選択するというのは勇気が要るものだ。
思い描いた理想は幻想だったかもしれないが、だからといってすぐに断ち切れるわけではない。未来などわからないのだから。
「私は弁護士に依頼するわ」
絵麻は言った。
早苗はハッと肩を震わせ、大きく見開いた目をこちらに向けた。
「それって、離婚するってこと?」
「そう……離婚する」
はっきりと答えた。早苗の背中を押すためにも、自分が先に一歩を踏み出さなければならない。
現状から目をそらし、幻想を信じて、未来に希望を求めてはいけない。過去の自分の選択は変えられなくても、今の自分は別の道を選べるのだから。
「私は、旦那のことを愛してない」絵麻は言った。「最初から愛してなかったけど、正直言うといつかは愛し合う日がくるんだろうって思ってた。でもそんな日は来ない。それを認めるのが怖くて、離婚をためらってた」
「……うん」
早苗の声は震えている。
「面倒だったしね。こっちは悪くないのに、弁護士探したり、エネルギー使わなきゃならないじゃない」
「うん」
「不貞に妊娠なんて最低極まりないことされても、生活が変わるわけじゃないしって思って、どこか他人事だった。でも、そんな生活してても楽しくないし、幸せでもない」
「うん」
「だから面倒でも離婚することにした。エネルギー使い果たしてもいい。もう、こんな楽しくもない毎日から抜け出したい。もっと自由に生きたいし、幸せになりたい」
「……うん」
それは、自分のことだけでなく、早苗にも向けた言葉だった。今の地獄のような結婚生活から抜け出して、幸せになって欲しい。幸せを、今の結婚生活に求めるのは諦めてもらいたい。離婚しても幸せになれるかどうかはわからないが、今よりはマシになるはずだと考えて欲しい。
絵麻が覚悟を決めたのは、今のこの瞬間で、それは早苗のためだった。
探偵事務所へ訪れるのはなぜかとレオに問われ、それに答えたときも同様だったが、まだ引き返せるという思いは残っていた。証拠を得るだけなら構うまいという程度でしかなく、二度と振り返らないとまでの覚悟はできていなかった。しかし今はっきりと決意した
「そっか……」
早苗はぽつりと言い、そしてふっと口元を緩めた。
「絵麻さんなら何でもできるし、絶対に幸せになれるよ」
力強く言い、笑みを大きくした早苗を見て、絵麻はさらに気力がみなぎった。
「なれるじゃなくて、なるのよ。そのためにも離婚しないと始まらない」
「うん」
「離婚したあとのこと考えれば、ちょっとやそっとの面倒なんてお釣りがくるわ」
「確かに」
「好き勝手して、妻に舐めた態度を取ってくれてる夫に、報いを受けてもらわないと」
絵麻の言葉に、早苗は一瞬間を空け、遅れて吹き出した。
「いいね、それ」そう言って笑いだした。
「早苗さんも頭にこない?」
「くる。めっちゃムカつく」早苗は目の端をぬぐいながら答える。「離婚するだけじゃ気が済まない。離婚して、告訴もしなきゃ」
「そうよ。私たちの女盛りが犠牲になったんだから報いは必ず受けてもらうわ」
「女盛りってなに?」
「だって来年アラサーじゃない」
「まだでしょ。26だもん」
「だとしても、似たようなものよ」
絵麻が言うと、早苗は再び笑った。
「じゃあ、今気がついてよかったってことだね」
「そう。遅すぎるかもしれないけど」
絵麻もおかしくなり、今度は二人で笑った。
「離婚したら、やりたい仕事をして、食べたいもの料理して、めいいっぱい好きなことしたい。映画も見に行きたいし旅行にも行きたい」
そう言った早苗は、見たことがないくらいに目を輝かせていた。
「いいわね。私も連れてって」
「離婚した女二人旅? めちゃくちゃいいじゃん」
「最高ね」
「お二人だけでの旅行はさせられません」
それまで空気のようだったレオが断固とした声で割って入った。空気だったくせに、その空気を読めない男だ。
「わかってるわよ」
「なんで?」
早苗の問いに、レオが答える。
「危険ですから」
「危険?」
不思議そうに眉根をひそめた早苗だが、「ああ、そっか」と言って、納得した顔になった。
一応絵麻はお嬢様だからだが、早苗はだから合点がいったという感じではない。
ニヤニヤとし、「いいなぁ」とつぶやいた。
「なにがいいの?」
「私も愛されたいわ」
早苗は答えた。
愛されているのは早苗だ。
絵麻が誰かのために行動しようと決意したのは、早苗が初めてだ。今まではそれほどまでに他人を思いやろうとしたことはない。他人に深入りしようとしたこともなく、関係は上辺だけ。他人との付き合いは、日常が円滑に進めばいいという程度でしかなかった。
しかし、早苗のためならばという思いがあったから、二の足を踏んでいた離婚を決意することができた。いつかはしたいと思っていたことだが、早苗の存在がなければいつまでも踏ん切りがつかなかっただろう。
友人同士でも、この感情は愛と言っていいと思う。
それに、彼女は他に二人の男性から愛されている。本人は無自覚のようだから、おそらく知らないのだろうけど。
伝えるのは野暮だし、知ったとして今はどうすることもできない。
「じゃあ、早苗さんも一緒に弁護士事務所へ行きましょう」
まずは、そこからだ。
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