第43話 誰のため
自動ドアが閉まった途端に、レオはくるりとこちらへ振り返った。
「絵麻様、あのような行動はお控え願います」
そうは言われても耐えられなかった。しかし、確かに自ら怒りを買うような真似は、頭が良い行動とは言えない。
それにレオの一貫した冷静な態度で、絵麻も頭が冷えてきた。
「悪かったわよ」
「進藤さんのお気持ちはわかります。さすがにあれは僕も腹が立ちました」
生田は立ち上がり、紙コップをゴミ箱に捨てた。そして、智也がまだそこにいるかのように自動ドアを睨みつけた。
「よくあんな男と仲良くしてられるわね」
「いえ、今回ので愛想は尽きました」
「遅いくらいよ」
「はい、反省しております」
どうやら本気で怒りを感じているようだ。最低なやつだと色眼鏡で見ていたが、多少はまともな感性を持っているらしい。それとも演技なのだろうか。
「雅紀、柏木さんのことを騙していたのか?」
それまで黙り込んでいた桐谷が、厳しい声音で口を開いた。
生田は声のするほうへ振り返り、ハッとした顔になった。
「……本気で申し訳ないと思っている」
「つまり事実なのか?」
「謝罪はするつもりだ」
桐谷からの射るような視線に耐えきれなくなったかのように、生田は顔をそむけた。
「時間はあっただろう?」
「それは連絡先を知らなかったから……」そう答えたあと、また視線を戻した。「いや、それは言い訳だな。自分のしたことを恥じて、忘れてしまいたかった。早苗さんと顔を合わせなければ、残酷な行動をとった自分を直視せずに済むと思った」
「気持ちはわからなくはないけど、そんな雅紀は嫌いだな」
「うん、ありがとう。僕も嫌いだ」
そう言って生田は笑った。自嘲するでも、嫌味を含んでいるのでもなく、つきものでも落ちたかのように、さっぱりとした笑みだった。
「じゃあ、口だけでなく態度でも見せろ」
桐谷の言葉に、生田は「そうだな」と答えて頷いた。
気心が知しれた相手だからか、ファミレスでは聞き出せなかった生田の本音が聞けた。裏で繋がっていたことは間違いなかったようだが、そのとき見せていた鷹揚な態度の裏には、反省の念があったらしい。
生田は「そうと決まれば」と言って、場を見渡した。
「僕と早苗さんは、二人でドライブや食事をしましたけど、それだけです。そして、それに関しての証拠は何も残っていません」
「証拠って何?」
絵麻は口を挟んだ。
「智也先輩は、僕に早苗さんを誘惑させて、不倫の証拠を偽造しようとしていました」
「うそでしょ?」
驚きのあまり、声が上ずった。
「離婚を優位に進めるためです。つまり先輩は、先ほどおっしゃっていた浮気相手の神埼由香里と再婚するつもりで、早苗さんとは離婚したかったそうなのです。ですが、ご自身の有責ではしたくない。というか慰謝料を払いたくないんですね」
「思っていた以上に最低な男ね」
絵麻は吐き捨てた。
「そんなことして雅紀になんのメリットがあるんだよ?」
桐谷が戸惑いの声で聞いた。
「実際に早苗さんとお会いして、すぐに後悔しました」
生田は力のない笑みになり、肩を落としながら答えた。
「じゃあ、その時点でやめればよかったじゃない」絵麻はカッとして言った。
「はい。早苗さんじゃなければやめてました」
「どういう意味だよ」
桐谷の声に怒気が孕んだ。
「やめるとはつまり、早苗さんに会えなくなるわけだから……」
生田の答えに桐谷はハッとして、次に顔を曇らせた。
「ですので」生田は絵麻に顔を向ける。「早苗さんのお力になれることなら協力は惜しみません」
「協力ってなによ?」
「浮気の証拠や先輩の交友関係などの情報ならいくらでも、ご提供することができます」
そのとき自動ドアが開き、中年の女性と、その娘らしい二十歳前後の女性が沈んだ顔で入ってきた。
早苗の手術は済んでいるのに、家族でもない人間が四人も留まっているわけにはいかない。
「行きましょう」
生田の声にみな続き、待合室を出た。
病院を出て、駐車場のほうへ進んでいる途中で生田は足を止めた。
「僕はこっちですから」
「あ、じゃあ送ってくれ」
桐谷が近づいた。
「いいよ」
生田が答えて、桐谷は「では失礼します」と言って二人で去って行った。
「強敵は本気だったみたいですね」
二人を見送りながらレオがつぶやいた。
なぜすぐに立ち去らないのだろうと思っていたら、去りゆく様子を伺っているらしい。
「二人とも早苗さんに本気なの?」
「おそらくは」
「早苗さんは既婚者なのに?」
「ですから、お二方ともあのように怒っていらっしゃったのですよ。お慕いしている方のご主人が、幸せにするどころか進んで不幸な目に遭わせているのですから」
確かに、桐谷はもともと既婚でも構わず好意を抱いているようだった。
生田のほうも、桐谷に詰め寄られて好意があるようなことを言っていた。元は頼まれて騙すために近づいたようだが、あとから本気になったのかもしれない。本音かどうかはわからないが、レオが言うなら事実な気もする。
「私も怒ってるわ。誰よりも心配しているし」
「存じております」そう言ってレオは歩き出した。
後を追いながらレオに聞く。
「旦那さんが離婚するために生田さんに頼んだってことは、再構築は見せかけだったってこと?」
「それ以外にないと存じますが」
「てことは、早苗さんは騙されたまま、あいつの言うなりに離婚することになるかもしれないのよね」
「それがご主人の思惑だと存じます」
車にまでたどり着き、レオは乗り込みながら答えた。
「生田さんは協力を惜しまないって言ってたけど、それって離婚のためって意味よね?」
絵麻も釣られて、話しながら後部座席ではなく助手席に乗りこむ。
「そうおっしゃっていたと存じますが」
「離婚するなら弁護士が要るわよね」
口にしたと同時に朋子の顔が思い浮かび、今日早苗に相談しようとしていたことも思い出した。
「明日、探偵事務所へ行ってみましょう」
「探偵事務所?」レオが飛び上がるような声を出した。「なんのためにですか?」
「決まってるじゃない。向こうは離婚のために証拠を偽造しようとまでしているのよ? こちらにも動かぬ証拠が必要だわ」
レオは数秒ほど黙って運転していた。
「それは柏木さんのためですか?」
そしておもむろに問われた言葉で、絵麻は考えを逸らされた。
今の話の流れでは、当然早苗のために決まっている。しかしレオは驚いて、次に念を押すかのように聞いてきた。
それは、離婚は離婚でも早苗のことではなく、絵麻のことが浮かんだからではないか。この状況では突飛だが、レオは以前『必要があれば、私は全力でお力になります』と言ってくれていた。もしかしたら彼は、常にそのことが頭にあったのかもしれない。
それを思い出し、なぜか背中を押された気分になった。
「私と、早苗さんのためによ」
だからそう答えた。
面倒だからと考えないように逃げていたが、逃げ続けていても何も始まらない。早苗のために行動するなら、自分のことも同時にするべきだ。親や会社が困るからと言い訳をし続けていた自分を、奮い立たせるべき時がきたのだ。
早苗は夫から散々な目に遭いながらも耐え続けていたのに、その末に有責で離婚され、慰謝料まで請求されることになるかもしれない。手術が必要なほどの怪我を負わせられたのにも関わらずだ。智也がやったという証拠はないが、浮気相手を自宅に引き込むなどと豪語し、責任逃れをするだけでも余程の仕打ちと言える。
あまりにも不憫で憐れな早苗を見て、離婚するべきなのにと外側から感じて、それを言うなら自分はどうなのだと顧みた。
今のまま不快なだけの仮面夫婦を続けて、いつか清澄から離婚して欲しいなどと言われた場合にどうなるのだろうか。いや、離婚するだけならまだいい。しないままでただ老いていく未来を想像して、ゾッとしたのだ。
早苗の分も、証拠を集めるくらいはいいだろう。むしろ背中を押すきっかけになるかもしれない。
そうと決めたのなら早いほうがいい。
「なぜ明日なんですか?」
考えにふけっていたらレオに聞かれた。
「今はもう7時を過ぎているわ」
予約もしていないし、事務所が開いているかもわからない。朋子から信頼のおける先だと紹介されていたものの、まだ一度も連絡をしていないのだ。
「おそらくですが、絵麻様の依頼は受諾されても、柏木さんに関しては受けていただけないと存じます」
「なんで?」
「ご本人からの依頼でなければなりません」
個人情報だから当然かもしれない。とはいえ、早苗の意思を確認するなど、いつになるかわからない。
「でも、手遅れになっちゃう」
「ええ。ですから私にお任せください」
いきなりのことで驚いた、レオに何ができるというのか。
返答に詰まっていると、レオは続けて言った。
「まだ本日は休暇をいただいておりますので、今夜少し準備をしてまいります」
「なんの?」
「法に触れることは致しません」
いったい何だというのか。考えてみるも、探偵の浮気調査と言えば尾行や盗聴などしか思い浮かばない。盗聴ってどの範囲で法に触れるのだろうか?
「法律の知識は頭に入っておりますので、ご安心ください」
返答をせずにいたことで不安が表に出たのか、少し和らげた語気でレオは言った。
「本当に大丈夫なの?」
「法学部を出ております」
大卒とは聞いていたが、どこの大学で何学部かは知らなかった。似つかわしくないような、それっぽいような。
「意外ね。どこの大学?」
「東京大学です」
絵麻は絶句した。ふと話の流れで聞いただけなのに、まさかのことを聞いて驚かざるを得ない。
「なんでこんなことしてるの?」
だから思わず聞いた。
「こんなこととは、何を指していらっしゃるのでしょうか?」
「執事の仕事よ。なんで東大出てるのに執事なんてしてるのよ」
「ご質問の意図は理解致しましたが、逆なのです。父に後継の許可をいただくために、東大を出たのです」
「どういうことよ?」
意味がわからなかったが、次に聞いた言葉はさらに不可解だった。
「絵麻様にお仕えするために、どんなことでもすると父に宣言したところ、ならば最高学府を出ろと申し付けられたので、それをしたまでです」
どこにそれを実行する人間がいるというのか。影谷の本心は計り兼ねるが、おそらく無茶難題をぶつけて諦めさせようとしたのだろう。
絵麻は再び絶句してしまい、それ以降何も話しかけることができなかった。
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