第42話 待合室
絵麻が家族用の待合室に座っていると、レオたちよりも先に智也が現れた。
ちらりとこちらに目をくれたが、見覚えがあるという素振りもなく離れたソファに腰を下ろした。以前対面したときは薄暗く、距離も取っていたから顔を忘れてしまったのかも知れない。それともこんな場所で再会するとは思ってもみないせいか。
あの怪我はこの男の仕業なのだろうか。しかし転倒したにしては頬に生々しい傷や腫れがあったし、状況として不自然だ。
もし夫からの暴力による結果なのだとしたら、病院へ連れていくことも救急車を呼ぶこともせずに部屋を出たということになる。神経を疑う行為だ。
絵麻は考えるほどに怒りに震え、今にも怒鳴りつけたい衝動に駆られていた。
しかし、相手は女性を失神するまで殴りつける男だ。腹立たしいとはいえ、絵麻一人しかいないこの状況では、声をかけることすらも危険と言える。同じ空間にいるというだけで身の毛がよだつほど不快だが、おとなしくしているしかない。
そのとき待合室の自動ドアが開き、桐谷の姿が現れた。
「いかがでしたか?」
「レオは?」
「駐車場に車を停めに行きました。先に降りさせていただいて」
桐谷は絵麻の隣に腰を下ろした。
「世間は狭いって、おっしゃるとおりですね。雅紀は──」
桐谷は言いかけて途中で止めた。視線は自動ドアのほうへ向いている。そしてドアの開く音がした。
振り返ると、生田が入ってきたところだった。いつもの落ち着きはどこへやら、駐車場で見たときのように不安げに息をきらせている。透明なガラスドアだから、桐谷からは姿が見えていたらしい。
「おまえなんでアパートにいたんだよ」
智也がぱっと立ち上がり、生田のもとへ向かう。
「早苗さんの容態はいかがですか?」
「知るかよ。手術中だとしか聞いていない。ここで待ってろって言われて来たばかりだ」
「頭を強く打ち付けているそうですが、出血は外部に多く出ていて内部には溜まっていないだろうとの見立てでした」絵麻は生田に向けて言った。「そこまで危険な状態ではないだろうと」
隣から桐谷の安堵のため息が聞こえた。
「つまり命に別状はないということですか?」
生田が応じたからか、智也もこちらに目を向けた。
「なに? 知り合い?」
「進藤さんです。えっと……早苗さんのご友人の」
「ご友人?」智也は目つきを変えた。「あいつに友人なんていねーぞ」
「今日、早苗さんとお会いする約束をしていたのです。早苗さんとは3か月ほどメールでやり取りをしています」
絵麻は怒りを抑えながら答えた。
「メール?」
智也は考えるように眉根を寄せ、絵麻の全身を舐めるように見た。そしてハッとした顔になり、続けて言った。
「まさか今日会う約束してた相手って」
絵麻もハッとする。
なぜそれを知っているのだろう。
早苗は絵麻とのメールをタブレットでしかやっていないと言っていた。スマホは毎日チェックされるから勝手な真似はできないからだと。
つまり、約束のことを知るには早苗に聞く以外にない。そんなことをするだろうか? 離婚だのなんだのとやり取りとしているあんなメールを見られたら、それこそ殴られるだけでは済まないだろう。
そこまで考えてゾッとした。
「まさかタブレットを見たんじゃないでしょうね?」
絵麻は憎悪をたぎらせた目で智也を睨みつけた。
「やっぱりあんたか。ほとんど削除されてたけど、今日ファミレスで午後一時とかいう約束だけは見つけた。どこぞの男とこそこそ会ってるのかと思ったが、女だったとはな」
「それで早苗さんを殴りつけたの?」
智也はおいおい、というように肩をすくめた。
「人聞きの悪い。勝手に転んだんだろ。俺は仕事中だった」
なあ雅紀、と言って生田に顔を向けたが、生田も智也を睨みつけている。
「なんだよ」智也はその目つきが不服だとばかりに眉根を寄せた。「つーかなんで俺ん家にいたんだよ。まさかまだ早苗と繋がってるんじゃねーよな?」
「そこにいる桐谷からの電話を受けて、先輩に連絡して欲しいと言われただけで、ご自宅へはお邪魔していません」
生田も怒りに満ちた声で答えた。
「きりたにって誰だよ。なんで知らねーやつが二人もいるんだよ」
「柏木さんとは……」桐谷が威勢よく言い出した。「スマホを取り違えた仲です」が、最後には語気が弱くなった。
「は? てことは定年間近のおっさんか?」
智也は言いながら何がおかしいのか笑い始めた。
その姿はまるでちんぴらのようだ。なんでこんな男と結婚したのだろう。姉との仲に疑念のある男と結婚した自分も人のことは言えないが、それにしても不快な男だ。
そのとき手術が終わったからと看護師が来て、智也が執刀医に呼ばれて出て行った。
「転んじゃったんですかね」生田が呟いた。
「どうでしょう」
絵麻はそう答える以外になかった。可能性の高いほうは口にしたくなかったからだ。
「どれくらい経っていたんでしょうか」桐谷が聞く。
「わかりません。メールは昨夜したっきりですし、今日は一度もなかった」
絵麻が返すと、生田がおずおずとしながら言った。
「先輩のせいだったら、さすがにその場で救急車を呼ぶんじゃないでしょうか」
絵麻は答えられない。生田も言いながら信じていないようだった。
桐谷も同様だったようで、両手で拳を握ったまま項垂れている。
「あれ? ご主人はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
自動ドアの開く音とともにレオの声がした。見ると、器用にも両手で5つの紙コップを持っている。
「ありがとうございます」
桐谷が立ち上がり、両手で一つずつカップを受け取った。
「あ、そこには私が掛けます」
レオが言った。桐谷が生田にコーヒーを渡し終えて、絵麻の隣に戻ろうとしたのを制するかのように近づいてくる。
「どうぞ」
桐谷は真向かいの席へ移った。
「柏木さんのご容態は?」
そして絵麻の隣に腰を下ろしたレオに問われた。
「まだわかんないわよ。ご主人が呼ばれていっただけで」
その後誰もが押し黙り、智也の帰りを待った。
すると15分ほどして「まだいたのか」と言いながら戻って来た。
「どうでしたか?」生田が聞いた。
「別に大したことはない。まだ意識は戻らないけど大丈夫らしい」
智也は座らず、立ったまま答えた。今にも帰りたいという感じだ。
「それは命に別状はないということでしょうか?」
「大丈夫ってことはそうなんだろ。つーか入院代とかいくらかかんの? 家事とかどうすればいいわけ? 代行とか頼むなんて金の無駄だな。母さん呼ぶのも面倒だし」
智也は誰に言うわけでもなく、困惑の声で言った。
「何日ほど入院になるんですか?」
「だから知らねーって。俺が聞きてーよ」
ったくめんどくせー!と、ぼやきながらドアの方へ向き直り、立ち去ろうとした。
「帰られるんですか?」
生田の声に足を止め、もう一度こちらを向いた。「帰るけど、戻って来なきゃなんねー。なんだっけ? 着替えとか保険証とか持ってこなきゃいけないから。まじめんどい」
言いながら再び歩き出した。
「つーか由香里と会うのにホテル使わなくて済むから、早苗の入院費はホテル代ってことにすればいいか。由香里に家事やらせればいいわけだし。高くつくけど新婚気分味わえていいかも」
今の発言はさすがに聞き捨てならない。
それまではどんなに怒りに駆られても堪えていた。従順なまでの妻に暴力を振るう男なのだから、殴りかからずとも怒鳴るだけで何をされるかわからないからと抑えていた。
しかし、ぷつんと糸が切れたかのように堪えていた気持ちが失せ、絵麻はゆらりと立ち上がった。
「なんであんたみたいな男が早苗さんの旦那なのよ」
怒りを声に出し、智也を睨みつけた。
「は?」智也はこちらへ振り向いた。
「信じられないわ。あんたがやったんでしょ?」
声で呪い殺せればいいのにとの想いを込めて言った。
「なにおまえ」
こちらへ一歩踏み出し、「なんなわけ?」と言って、また一歩にじり寄ってきた。
「早苗の態度が反抗的になったのは、おまえからの影響か?」
殴るぞと言わんばかりの目を向けられるも、絵麻は怯むどころかさらに怒りを掻き立てられた。
「自分で殴って、また入院させて、自宅に女性を泊まらせるなんて最低にもほどがあるわ。それなら離婚してから好きにやりなさいよ。早苗さんと婚姻を続けている必要はないでしょ!」
「なんだって? おまえに関係ねーだろ?」
あと一歩で手が届く距離にまできた。
「関係あるわ! 早苗さんを解放しなさいよ!」
絵麻は言いながら自らその距離を詰めようとした。
しかし目の前にレオの背中が現れて、足を踏み出せなかった。
「それ以上近づかないでください」
「なんだ」
智也は戸惑いの声を上げた。
「私は進藤家にお仕えする執事です」
「は?」
「絵麻様に近づかないでください」
智也は一瞬きょとんとした顔をして、次にあははと笑い出した。
「じゃあ、あんたが相手になるって言うのか?」
本当にちんぴらのようで、レオの顔を覗き込むようにして睨みつけた。
「構いません」
へぇ、と智也はにやりとした。
「空手の段持ってるけど」
「そうですか。それでよく前回の怪我を示談で済ませられましたね。もしかして隠されていたのですか?」
智也はそれを聞いてぎょっとしたようだった。
「持ってねーよ。嘘だ」
「なぜ嘘をつく必要があるんですか?」
「そう言えばあんたが引っ込むと思ったから……」
「何をされても引き下がりません」
レオは淡々と受け答えしている。レオは絵麻と背丈は変わらず体格も細身で、智也も背が高いとは言えないが、身体はがっちりとしているため、脅せば引き下がると思ったのだろう。DVをするような男だから、暴力を振るうのに抵抗がないのかもしれない。
「それに私は、剣道と柔道だけですが、段を習得しております」
しかし、穏やかにも言ったレオの言葉には驚いたようで、智也の威勢は急に弱くなった。
「ふん。嫁が入院してるのに暴れるわけねーだろ」
そう言って自動ドアのほうへ向かい始めた。
「それに、先に喧嘩売ってきたのはそっちだろ?」
ドアが開く間際に振り返り、捨て台詞のようにそれだけ言って去って行った。
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