第37話 帰路

 その後、押し黙ってしまった互いに気を使い、他愛もない話題に切り替えた。

 二時間ほどが過ぎ、そろそろ夫が帰るかもと早苗が口にしたため、帰り支度をした。

 去り側に絵麻は、そう言えばと桐谷の名をだした。

「桐谷さん?」

「そう。モンパルナスで偶然会って、お見舞いに行きたいって言われたんだけど、断ったんだ」

「なんで……」

 驚いたようだが、確かにスマホを取り違えたことがあり、何度か話したことはあるらしく、彼の妄想ではないことが裏付けられた。

「キモいよね」

「キモいっていうか、なんでだろう」

 その疑問の答えは簡単だ。好意があるから。彼の話ぶりからすぐに悟れたことだが、早苗は気づいていない様子なので、さすがにそんな野暮なこと口にするわけにはいかない。

「わかんないけど、気にかけてはいるみたいだったよ。早苗さんが嫌じゃなければメールとかしてみれば?」

「メールって? 電話番号しか知らないよ」

 絵麻はSHINE_Pが桐谷であることも伝えていない。本人が打ち明けてはいない様子だったからだが、そのためXのDMで送ればいいとも言えない。なので番号で送受信できるメールがあるではないかと提案した。

「へえ。そんなのあるんだ」

 機器に疎いのか、人と連絡を取り合わないせいか、初めて知ったようだった。

 じゃあまた会おうね、と口々に言って、絵麻は辞去した。


 駐車場へ着き、待機していた車の運転席側へ回り込んだ。自分が運転するからとレオに伝えて、助手席側に移ってもらった。

 後部座席で一人だと、スマホを見ていても考えが頭に浮かんできてしまう。運転に集中していれば考えごとをせずに済むと思ったからだった。

 

 早苗の洗脳はどれだけ解けただろう。考え得る限りの指摘はできたはずだし、ある程度自分の頭で考えてもらえるように誘導はできたと思う。

 そう考えて、絵麻は満足した。はずだったのだが、本音を引き出すために自身の結婚生活について打ち明けたことが、想定外にも絵麻に影を落としていた。

 離婚すべきことなのに、なぜ未だに行動を起こそうとしていないのか。

 それは面倒だからという理由で、逃げているからだ。

 結婚の何倍も離婚は大変だと聞くから及び腰になっている。両親が会社がと言い訳をしながらも、実のところは億劫なだけだ。耐えていれば済むと思っている。

 それを突きつけられてしまった。レオとの会話で芽吹いたものが、早苗との会話でさらに膨らみ始めてしまった。


 はあ、とため息をつく。考えないために運転することにしたのに、慣れてきたのか、道が単調だからか結局は考えごとをしている。

 もうダメだと思い、レオに話しかけて気を紛らわせることに決めた。


「ねえ、聞いてよ。早苗さんがね、水出しコーヒーのやり方を教えてくれたの。今度レオも挑戦してみてよ」

「はい。……え? 水出し? 紅茶ですか?」

「違うわよ。コーヒーよ」

「紅茶はコーヒーと違って水出しにすると台無しになります。旨味成分であるタンニンが抽出されませんので」

「は?」

 会話が噛み合っていない。というか話を聞いていない。

 赤信号で停車したときに助手席のほうを見ると、レオはスマホを操作していた。

 主人が運転していて、しかも話しかけてるのに。

「なにしてるのよ!」

 カッとして絵麻は怒鳴った。

「えっ?」まったく抑揚のない反応が返ってくる。「スマホを見ています」

「あんたね、私が話しかけてるのにスマホなんて見てんじゃないわよ」

「申し訳ありません。桐谷さんからの返信でつい……」

「え?」青信号になったため発進させた。

「絵麻様!」

 しかし、返ってきた言い分に驚き、踏み間違えそうになった。

「わかってるわよ。あんたが驚かせるからよ」

「事実を申し上げたまでです。あ、そこは右です」

「早く言ってよ」急いで右折レーンに入る。「で、なんだって? 桐谷?」

「はい。俊介さんです」

「なんで……連絡先を交換したの?」

 いつの間に。というかなぜそんな必要があるのだろう。

「はい。柏木さんからメールが来たと言って喜んでおられます」

「ああ……」

 早速メールを送ったらしい。思わぬ形で自分のアドバイス通りに事が運んだことを知る。

 自分がメールを送るよう勧めて、送信手段を教えたのだと嬉々として話した。

「さようですか」

 しかし返ってきたのはまったく気のない反応だった。

「なによ。てかなんで桐谷さんと連絡取り合ってるのよ」

 盛り上げろとまでは言わないが、もう少しマシな反応を返せないものか。

「桐谷さんに聞かれたからです。おそらく柏木さんの様子を伺うためでしょう」

「なんで? 私にDM送ればいいのに」

「それは不可能なことだと存じます」

 不可能とはなんだ。女性を相手に気が引けるというよりも、怖気づいて無理だとでも言うようだ。

「それで? なんだって?」

「プライベートなことは申し上げられません」

「は? 私が協力してやったのに……」

 レオのこの態度や物言いは何とかならないものか。主人に対する執事のそれではない。苛つきが怒りに変わりそうになる。

「今度柏木さんとお会いしたいそうなのですが、二人きりにはなれないので、絵麻様と私にも来ていただきたいとおっしゃっています」

「え……」

 驚きが勝り、怒りが引っ込んだ。

「それ、どういう会よ」

 そんなメンバーで何を話すというのだろう。早苗と再び会えるのは嬉しいが、桐谷とレオもいる場など想像できない。

「その日はお休みをいただけますでしょうか?」

 レオが休暇を求めるのは初めてのことだった。影谷は週に二日の休日を設けていたが、レオは休みなど不必要ですと言って毎日勤務している。

「いいけど」

 態度に不満はあるものの、職務熱心なうえにミスもない。期待以上の働きを見せるレオの希望は聞き入れるべきことだ。

「ありがとうございます。では、日程が決まりましたらお伝えいたします。送迎も含めて絵麻様に関することは、職務中同様にさせていただきますのでご安心ください」

「休みなんだから自由に過ごしてもいいのよ」

「どちらにせよ、同行する形になりますので」

「同行って、どこへよ」

「……絵麻様もいらっしゃらないと、桐谷さんは柏木さんに会うことはできないんですよ?」

 許可はしたが、それは休暇の話であって、その会に対してではないのだが。

「そんなの私に関係ないわ」

「柏木さんもお喜びになると存じますが」

 またこれだ。なぜレオがそれをわかるというのか。

 まったくゾッとしない話だと独りごち、青信号になったため再びアクセルを踏んだ。

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