第36話 見舞い

 早苗のアパートの部屋の前に立ち、絵麻は深呼吸をした。

 インターホンを鳴らし、ピンポーンという飾り気のない音が響く。


「はい」

 ドアが開き、レストランで見かけた女性の気恥ずかしげな笑顔が現れた。

「サカさん?」

 間違いないのに問うてしまう。

「EMAさん」

 彼女は嬉しげに笑みを大きくした。

 ようやく会えた。

 その喜びとともに、痛々しい怪我のあとを見て、涙が出そうになった。

「どうぞ入って」

 緊張した声の早苗に促され、靴を脱いで部屋へ上がる。

 外観から察する築年数のわりに、清潔でこざっぱりとした部屋だった。掃除は隅々まで行き届き、不必要なものは一切見当たらず、大きさの割には広く見える。早苗の几帳面さと家事能力の高さが垣間見えた。


 ソファに座るように言われ、待っていたら、カップを二つと茶菓子をトレーに乗せた早苗がやってきた。

「コーヒーでよかったかな?」

「ありがとう」

 早速手に取り、一口すする。

「美味しい!」

 店で飲んできたものよりも美味しくて、思わず驚きの声をあげた。

「よかった。いただいた豆だよ。挽きたての淹れたて」

「一杯飲んできたけど、それよりも美味しい」

 早苗は嬉しげに笑った。なんとも愛らしい笑みで、絵麻も顔をほころばせた。


 互いにまだ緊張していて、メールのときのような気安い態度をすぐには取れなかった。しばらくは「まさかだったね」や、「ネットの人と実際に会うなんて」など、挨拶の延長のような会話だった。


 しかし、少しずつメールでやり取りした内容を口にし始めると、相手は間違いなくネットの向こうにいた友人なのだと実感し、徐々に気安い雰囲気になってきた。30分もしないうちに口調も砕け、過ぎる頃には普段のように打ち解けていた。

 サカに会ってみたいとの念願がようやく叶ったばかりか、期待した以上に楽しく、目的を忘れかけるほどだった。

 目的とは、早苗の洗脳を自覚させることだ。楽しいだけで終わればいいが、それではこの楽しさも仮初でしかない。


 絵麻は意を決して、居住まいを正した。

 まずはこちらの悩みを打ち明けて、早苗が本心を口にしやすい空気を作るべく、「実は話してなかったんだけど」と口火を切った。

 そして夫と義姉との関係に疑念を抱いていることを話した。義実家でスマホを探しているときに耳にした会話と、健一から聞いた話だ。姉弟にしては仲が良すぎると愚痴ってはいたものの、それ以上のことはまだ打ち明けていなかった。


「えっ? つまりどういうこと?」

 聞き終えて、早苗は両手で口元を押さえながら言った。

「だから、もしかしたら近親相姦なのかなって」

「それ妻が言っちゃう?」

「妻だけでなく執事すら疑ってたことだからね」

 早苗は、うわー、とドン引きしたような声を出して、「でもさ」と続けた。

「絵麻さんなんでそんなに冷静なの」

「え? これでもかなりキモがってるけど」

「いやいや、キモがってる場合じゃないでしょ。つまり不倫されてるわけだし」

 確かに尊厳を傷つけられた怒りはあるが、清澄からの愛など待ちぼうけのしすぎで諦めている。嫌悪感はあっても失望感は薄い。

「そりゃムカつくよ。近親相姦なんてあり得ないし」

 早苗はうんうんと頷く。

「だよね。離婚するべきだよね」

 当然言われることだと思ったが、今日は絵麻の相談をしに来たわけではない。

「離婚なんてしたら会社も大変だし、世間体的によくないから……」

 だから濁すだけにした。

「え」早苗はぎょっとした。「そんなことされて離婚しないの?」

「え……うん」

 今はまだその段階ではないとの考えで一応は肯定したものの、答えるのに躊躇いはある。

「なんで? 家にも帰らずほとんど会話もしないんでしょ? そんなの結婚生活なんて言えないじゃん」

「それは政略結婚だから仕方ないことだし」

「だとしても、不倫までは許されないでしょ? しかも妊娠までさせるなんてあり得ない」

「それはそうだけど……」

 わかっている。当然のことながら全て自覚している。しかし改めて他人の口から言われると、なぜ離婚にもたついているのかと思わされる。

 とは言え、それを突き詰めるのは後回しだ。早苗のために訪れたのだから。

 もう切り出すのに十分だとして、さっそく話題を振ることにした。 

「それを言うなら早苗さんもじゃん。意識を失うほどのDVとモラハラだよ? 再構築じゃなくて離婚すべきことじゃない」

「いやいや離婚なんて大げさだよ。確かに怪我まで負ったけど、それは私のせいだし。旦那とは高校からの付き合いだから、本来はあんなことする奴じゃないってわかってる。あれは私が至らないせいで、嫌々したことなんだよ」

 自分のことは棚に上げるとはこのことだ。何を言っているのかと困惑した。

「嫌々って何? 完全なDVだよ。それにモラハラもあるし。ぶっちゃけ、DVはわからなかったけど、モラハラにはすぐ気づいたよ。金銭的な抑圧を与えることも、交友関係を縛ることも、連絡を制限することも、妻がすべきことじゃなくてモラハラなんだよ。早苗さんは旦那さんの都合の良いように洗脳されてるから、モラハラを受けている自覚がないだけなんだよ」

 そしてスマホを操作して、早苗にいつか送ってやろうとブックマークしておいたリンクを開いた。

 「ほら」と言って、その画面を見せた。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 □配偶者の人格を否定する

 □配偶者の考えや意思決定を否定する

 □配偶者の家族や友人を悪く言う

 □特に理由もないのに無視をする

 □優しく気遣うときもある

 □些細なミスでも大袈裟に責める

 □自分の間違いは認めず、逆に配偶者に責任転嫁する

 □不都合なことは全て配偶者のせいにする

 □束縛・監視する (スマホをチェックする、外出を制限する)

 □収入に関係なく生活費を渡さない、もしくは制限する

 □外面が良い


 ーーーーーーーーーーーーーー


「なにこれ……」

 早苗は画面を見て呆れた声を出した。

「モラハラのチェックリストだよ。当てはまるものは全部モラハラ」

「え?」いやいやと首を振る。「こんなの揚げ足取りだよ」

「何言ってるの?」

 だから、と早苗はこちらを見た。

「妻は夫のためにいるんだから、夫のことを第一に考えるべきで、夫に尽くすことが義務なんだよ。だからここに書いてあることは、義務から逃げるための言い訳みたいなものでしょ? わざと悪く捉えられるように書かれてる」

「それはマインドコントロールってやつだよ」

「……マインドコントロール?」

 早苗は眉根を寄せ、よく理解できないという顔をした。

「その考え自体が洗脳されてるってこと」

「洗脳ってなに?」

 

 絵麻はここに来て躊躇した。

 もし洗脳されていなかったらと逡巡したからだった。絵麻が思い込んでいるだけだったら?との不安が頭をもたげたのだ。

 彼女は再構築を選んで満足している様子だ。それをぶち壊していいのだろうか。傍目には不幸に見えても、本人は幸福だと感じている。それをわざわざ刺激するようなことをして、幸福を不幸に変える必要があるのだろうか。

 しかし、現に生田に好意を抱いたように、夫への愛情は薄らいでいる。SNSで愚痴っていたのもその証拠だ。

 今は以前よりも優しくしてもらえているようだが、それは再構築のためなだけで、モラハラやDVをする人物はいつまた豹変するかわからない。そのときにもし命に関わるような暴力を受けたり、他の男性と不倫してしまったら手遅れだ。


 そうだ。躊躇などしてはいけない。ぶち壊そうが、そんなものは本物の幸福ではないはずだ。洗脳されているかどうかは専門家じゃないからわからない。しかし、様々な視点の意見を聞かせることは悪影響ではないはずだ。

 絵麻は考えを新たに、今一度覚悟を決めた。


「私もまともな夫婦関係を築けているとは思わないけど、そんな主人と奴隷みたいな関係はおかしいと思う。夫婦って家族でしょう? 互いに支え合って生活を共にしてるんだから、夫婦は対等なんだよ。片一方が偉いなんてことはない。専業主婦だとしても、夫が稼いだお金はその支えで得たお金なんだから共有財産なんだよ。もし離婚することになれば、結婚してからの貯金は半分にするってくらいなんだから」

 一息に言うと、早苗は呆けたようになったため、絵麻は畳み掛けるように質問を投げかけた。

「結婚する前はどうだった?」

 早苗は放心した様子でどこか宙を見つめていた。

「結婚する前?」

 しかし、ゆっくりと視線を絵麻に戻した。

「……智也と結婚する前は」そしてぽつりと話し始めた。「デートも割り勘だったし、バイトの給料も半分貯金は貯金して、残りは好きに使ってた。智也に取られるなんてことなかった……」

 絵麻は頷いて、先を促す。

「それで?」

「……智也と付き合い始めたのは高校のときだから、そのときは……」

 早苗は思い出したように語りだした。


 付き合い始めたころの智也は、出かける先も何をするかも、早苗の意見を逐一聞いてくれていたそうだ。デートに誘われたときに、友人と出かける約束があったり、両親と過ごすと言って断っても、「楽しんで」と言うだけで怒ったりはしなかったという。

 喧嘩をしても、殴ることはおろか、怒鳴ったことは一度としてなかった。

 そう言って、早苗は気がついたような顔をした。

「でもそれは結婚式を挙げるまでだった。新婚旅行から帰ってきて、あのアパートに暮らし始めてから、義務だからって通帳をすべて渡すように言われて、スマホも取り上げられて、毎日のチェックが始まった」

「突然だったんだ?」

 絵麻は聞いた。

「そう、突然。結婚したからには当然だって言って、家事はもちろん私で、出かけるときは智也が決めるって……」

 言いながら、押し黙ってしまった。


 おそらく智也はもともとの性質を隠していたのだろう。付き合っている段階ではまだ他人だから、早苗に対しても、モラハラの要素の一つである外面の良さが発揮されていたのだ。結婚したからにはその限りではないと、途端に本性が表れ出てきたのだ。


 結婚するまではわからない。してみないと見えてこないことは少なからずある。

 絵麻もそうだった。

 自分はまだ清澄の家族ではないから、姉に敵わないのはそのせいだと思っていた。妻になれば、姉よりも身近になり、ようやく彼の気がこちらに向くのだと信じていた。

 たかが紙切れ一枚の契約で、変化があると思っていたのだ。


 考えていると、早苗が言った。

「一日の中で、旦那が寝た後が一番ホッとするのね。家事も全部終わって自由になれたと思うからなんだけど……それって幸せなのかな?」


 幸せとは何だろう。

 結婚とは幸せになることだというから、みなそれを求めて契約をする。

 早苗はそれを求めたのだ。だから、結婚してそれを得たはずの現状が、幸せなのかどうかと疑問に感じている。

 しかし絵麻は違う。 

 清澄と結婚したのは、親同士が決めたからだ。

 絵麻の意思ではない。

 幸せになると思ったからでも、家族になりたかったわけでもない。だから実際に家族になった気もしないし、幸せでもない。

 

 幸せとは何だろう。

 考えたことも、求めたこともなかったと、絵麻はふと気がついた。

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