第32話 怒りと困惑

 無事に女性を救急搬送することができた。

 夫からの暴行だと警官に説明をしたものの、当の本人は夫だからということで、女性に付き添って行ってしまっていた。

 残された黒のセダンの男性は、後日詳しい事情を伺うため、今日のところは帰宅しても構わないと告げられたようだった。

 絵麻とレオも同様で、その場ではすぐにお役御免となった。

 次々と警官が現れ、狭い駐車場はごった返してきたので、おとなしく帰ることにした。


「こんなもんなの?」

 車に戻りながらレオに愚痴る。

「とりあえず現場確認と証拠集めですから。証言は明日以降でしょう」

「じゃあ、レコーダーもそのときに渡すべき?」

「あ、今渡して参りましょう。改ざんしたと思われたくないですし」

 よくわからないが、借りていたレコーダーをレオに渡すと、彼は警官の元へ駆けていった。

 

 呆気なさに肩透かしを食らいながら、絵麻は先に車へと向かった。

「すみません」

 車に乗り込もうとした時に背後から声がして、振り返る。呼び止めたのは黒のセダンの男性だった。

「なんですか?」

 声に苛立ちが含んでしまう。

「早苗さんのお知り合いの方ですか?」

 何用かと思えば、絵麻の正体を確認したいらしい。

 救急車はまだしも警察沙汰にした人間にわざわざ声を掛けるとは、狼狽えていたくせに意外と肝が据わっている。

 答えずじっと睨みつけていると、男性は質問を続けた。

「智也先輩はあなたをご存知なかったようでしたので」

「ええ、初めてお目にかかりました」

「訪問するにしても遅い時間ですし、どういった事情でいらっしゃったのかなと……」

 女性受けしそうな端正な顔立ちで、一目で好感を与える表情と物腰。だからどうと言うわけではないが、紳士的な態度と合わせれば、不信感は多少減る。

「ご推察の通り、用件があったわけではなく通りすがりです。あんな大声で話されていたら、私以外にも通報した方は少なくないでしょう」

 絵麻も幾分か冷静さを取り戻して答えた。

「確かにおっしゃる通りです。迅速に救急要請していただいてありがとうございました」

 穏やかな表情で言って、彼は軽く頭を下げた。

「するべき義務をしたまでです」

「はい。ありがとうございます。それでは失礼いたしました」

 彼は再び頭を垂れたあと、くるりと向き直り、自分の車の方へと歩き出した。


「どういったご要件でしょうか」

 しかし、いつの間にやら近くへ来ていたレオが、その彼の腕を掴み、歩みを止めさせた。

「レオ!」

 絵麻は駆け寄った。

「絵麻様、何かされませんでしたか?」

「されるわけないでしょ? 放しなさいよ」

 レオを引き剥がそうとするも、まるで効かない。

「お怪我はありませんか?」

「あるわけないでしょ」

 脱力し、見てみろというように両手を広げてみせた。

 彼は「おやおや」とでも言う笑顔を浮かべ、掴まれていない手を降参するように上げた。

「かっこいいですね。映画のヒーローみたいだ」

「私がお側にいないときに、不審人物に近づかないでください」

「向こうから話しかけてきたのよ」

「でしたら全速力で逃げてください」

「どこへよ」

 何を言っているのだろう。こんな夜分に一人で駆け出すほうが危険だ。

「車の中とか」

 ああ、と思うも、解決にはならないだろう。

「車に乗り込むところで声をかけられたのよ」

「ですから無視をして、さっさと乗り込んでください」

「はあ? 声をかけられて無視するの?」

「当然です」


 そこで、耐えられないというように彼は笑い出した。

「すみません。……おかしくて」

 謝りながらもまだ笑っている。

「よく笑っていられるな」

 レオは睨みを返して、彼に凄んだ。

「ええ、確かにそうです。そんな場合ではありません」彼は笑いを抑え、真剣な顔つきになった。「失礼致しました」

 そう言って、また車のほうへ向かい出した。


 最後に見た彼の表情に、自責の念を感じ取った。笑ってしまったことに対してではなく、おそらくは怪我を負った女性に対してだろう。車へと向き直るときに、彼女が倒れていたほうへ視線を向けて、ふと憂いた顔をしたのだ。

 それに気づいた瞬間、考える間もなく口からついて出た。

「すみません」

 彼は驚いたように足を止め、「はい」と言って振り返った。

 絵麻は遅れて自分のしたことに驚き、取り繕うためにと思わぬことを続けて言った。

「どこかでコーヒーでもいかがですか?」

「絵麻様!」

 レオの驚愕の声を聞き、自分も同時に驚いた。しかし、彼はもっと驚いたようだった。微笑を浮かべていた顔がハッとして、目が丸くなった。

 なぜこんなことを口走ってしまったのだろう。

 考えるも、わからない。

 ただ、彼は紳士的で、冷静な態度を保っていて、話が通じるように思えた。実際に殴ったのは夫のほうで、彼はおろおろとして、救急車を呼ぼうとしていたし、誤魔化そうとする夫を止めようともしていた。自責の念を感じたことも、彼が女性に対して深い詫びの気持ちを持っているからだと感じた。だから、話を聞いてみたくなったのかもしれない。


 もし女性がサカだったとして、なぜ彼女にあんな真似をしたのか知りたくなった。自責できるのなら傷つけるとわかっていたはずだ。それなのになぜしたのか気になった。

「もし、よろしければですが」

 彼は黙ったままだったが、まだその場にいたので、絵麻はさらに言った。

 すると彼は微笑を浮かべ、今度はすぐに答えた。

「ええ、構いませんよ」

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