第29話 執事ではなく幼馴染として
疑念が増すような会話を立ち聞きして以来、清澄と清香に顔を合わせる機会はまだ訪れていなかった。このまま二度と会いたくないほどだが、そういうわけには行かない。無視できる問題でもなく、かと言ってどうすればいいのかもわからず、思い悩んで憂うつな日々を送っていた。
その日はレストランへと車を走らせながら、ドライブで憂さを晴らそうとしていた。
「主人の運転でディナーへ行けるなんて、執事としてこれ以上ない喜びでしょう?」
「せめて二ヶ月ほどした後でしたら……おっしゃるとおりでした……っ」
今宵は、運転席に収まっているはずのレオを助手席に置き、後部座席でふんぞり返っているはずの絵麻の運転で走行していた。
最近絵麻は車の運転に凝り始めていた。これまで一人で移動する機会は散歩くらいのものだったが、その範囲を広げてみたくなった。いわゆるペーパードライバーだったため、レオに頼んで自宅の敷地内でレッスンをしてもらったのだ。
「なによそれ。どういう意味?」
「……スピードの出しすぎという意味です」
レオは座席にしがみつくように乗っている。信用ならないのかと睨みつけると、「お願いですから前を向いてください」と懇願された。
向かっていたのは、ネットで調べて予約していたレストランだ。街中から30分ほど離れた山の麓にあり、観光地と宿泊施設で成り立っている郊外の、さらに奥へと進んだ場所にある。
建物の周りは良く手入れされた英国式庭園が広がっていて、ヨーロッパ風の石造りの外観は重厚で豪奢な雰囲気をまとっている。高すぎず、チープでもなく、カップルが気軽に楽しめる金額設定のフレンチだ。
外観から想像する以上に広い空間に、10組程度の若いカップルと、2組の年配の夫婦が食事を楽しんでいる。
今日は運転を教えてくれたレオに対する礼という名目だったが、カップルで来るような店に一人で来にくいからというのが実のところだった。
帰路も運転するつもりだったためドリンクはジンジャーエールにして、レオにはアルコールを勧めた。固辞されたが、せっかくなんだからと言って無理に注文した。主人の命令に背く癖は慣れさせてはいけない。
食事は評判通りで、フレンチを食べ慣れている絵麻にとっては無難だが、値段相応の満足は得られそうだ。
「美味しい?」
「はい」
黙々として喋らず、出てくるそばからがっついている。
それまで一人で疑念を抱えていた絵麻は、あの日のレオの反応を見て、相談してみようかという気になっていた。彼なら清澄たちの人柄も知っているし、絵麻の味方にもなってくれるはずだとの想いもあったからだ。しかし食べてばかりで口火を切るきっかけがない。執事とはいえまともな食事を与えているはずなのだが、何日もひもじい思いをしていたかの食べっぷりである。
「意外と飲めるのね」
グラスが空になっていたので、ワインを注いでやる。
「ありがとうございます」
「ねえ、この間の話なんだけど」
「はい」
メインディッシュも落ち着いた頃なので、相手をしてくれる気になったらしい。
「もし清澄と清香さんがその……黒だったらどうしたらいいと思う?」
「わかりません」
即答された。
「いや、あのさ」
「私の意見など無意味です。事実だとして婚姻を継続される場合もあるのですから」
その通りだが身も蓋もない。
「離婚って面倒くさくないかしら?」
「それは……」レオはそこまで言って言葉を止め、間を空けてから続けた。「面倒というのが離婚されない理由なのですか?」
「そうよ。父同士が親友で、会社も絡んでる。離婚なんて考えるだけで面倒くさいわ」
「面倒でなければ離婚されるのですか?」
またもや身も蓋もない。
しかし、レオは見たことがないほど真剣な顔をしている。
「そもそも結婚自体したくなかったから……」
その表情に気圧されて、不用意にもそんなことを口にしてしまった。
「それならなぜ結婚されたのですか?」
「え……」
なぜもなにも、拒否なんてそもそもできない話だ。生まれる前から決まっていたことなのだから。
確かに結婚などしたくはなかったが、したあとは清澄を愛するつもりでいたし、愛してもらえるものだとも思っていた。
だから式を挙げ、婚姻届に捺印し、進藤の籍に入った。しかし、それ以外は何も変わらず、未だに姉弟の仲の良さを見せつけられているだけだ。そんな夫を愛することなどできず、愛されているとも思えず、いつかくるその日を待ち続けて今に至っている。
「大変失礼致しました」
絵麻が返答に詰まっていたからか、レオは視線を逸らして言った。
「別にいいわよ。今日は執事というより……そうね、幼馴染みたいな気持ちで食事に誘ったんだから」
「幼馴染……」
レオはわずかに見開いた目を、再びこちらに向けた。
「つまり、奇譚のない意見を聞きたいのよ」
主人に向かって難しいこととは思うが、一応の気遣いとして言った。
「私は普段から率直に意見を述べさせていただいております」
すると、そんな気遣いは不要だったらしい言葉が返ってきた。
「そう? じゃあ、清澄のことはどう思ってる?」
「清澄様は絵麻様に不釣り合いです」
それならばと答えにくいであろうことを聞いたのに、即答されたばかりか、期待以上の率直さにおかしくなり、笑ってしまった。
「不釣り合いとは言うわね。あんたは清澄のことが気に入らないのね」
「はい」
これまた笑う。
「なにが気に入らないの?」
「絵麻様を
「あはは!」
おかしすぎて涙が出てきた。レオの物言いは意外にも面白い。これまで身近で共感し合える相手がいなかったから、とてつもなく愉快だった。
「ですが、絵麻様がお選びになられた方ですので、態度には出さずに仕えております」
「態度に出てるわよ」
あの苛立ちの含んだ目つきにはこんな想いがあったのかと知り、ますますおかしくなった。
絵麻は笑うばかりで会話が進まず、次の料理が届いたため、レオは再び皿のほうへ意識を奪われたようだった。
絵麻もそれに倣おうとフォークを手にしたとき、斜め前のテーブルにいるカップルの、女性の声がふと耳に届いた。
「私だけワインをいただいてしまって、すみません。ワインもほとんど飲んだことがないのでよくわかりませんが、とても美味しいです」
「それは良かった。味が分かる必要はありませんよ。美味しいと感じてもらえれば、それに越したことはありません」
その真向かいに座っている男性は、美人を見慣れた絵麻の目も惹くほどの美貌だった。
「一人だけ味わっているのは申し訳ないです。生田さんも楽しんでもらえたらいいのですが」
「そう思っていただくだけで光栄ですよ。早苗さんと食事をできるだけで、この上なく楽しんでおりますから」
赤らめた顔を隠そうとしたのか、女性は会話を止めて食事を再開していた。
年代的には絵麻と同じくらいに見えるが、初心というか、場馴れしていない様子が見て取れる。男性から口説かれていて、女性も満更ではないという感じもする。
女性が黙ったからか、男性が気遣いを見せて話題を変えたようだ。共通の知人に起きた出来事や、上司の理不尽な要求を面白おかしく話して場を和ませようとしている。
聞くともなしに耳に入り、カップルの方へ意識が向いてしまう。盗み聞きをしていても面白くもなんともないのに、絵麻は意識を逸らすことができない。
なぜか女性の声に聞き覚えがあり、どこで聞いたのかが気になったからだった。
間の取り方や単語の選択、発音の癖など、どれを取っても聞き馴染みがあった。顔を見ても記憶にはないものの、声と話し方に引っかかる。
思い出そうと考え込んでいると、突然稲妻のようにひらめいた。
サカ☆カササギだ。
ツイキャスで聞いていた、あの声ではないだろうか?
サカはメールのやり取りをするようになった頃からツイキャスをしなくなり、一方的に聞いていた頃のサカの印象が薄まってしまっていた。だから声や話し方を聞いてもすぐに結びつかなかったのだ。
絵麻は思い至った瞬間、目を見張った。
似ているだけだ。そんな偶然があるわけがない。
そう考えながらも、間違いないとも思えて戸惑った。
ただ、サカ本人だったとしても声をかけることはできない。ネットで出会った人と現実で対面するなど想像したこともないし、しかも相手は夫ではなく、例の同僚らしいと見える。そんな状況ではますます無理な話だ。
しかし、だからと言って耳をふさぐことも意識を逸らすこともできず、申し訳ないとは思いつつも二人の会話に耳を澄ませていた。
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