第26話 わからない
乗り込んですぐにお祝いの言葉を伝えた。店で声をかけたときの場所から、会話が聞こえていたはずであることは気づかれている。素知らぬ振りはしないほうがいい。
「ご懐妊おめでとうございます」
「え……あ、はい。ありがとうございます」
しかし、健一は店内で見せたときから変わらず表情は暗いままで、嬉しげな顔ひとつせずに答えた。
「結婚のお祝いは、そういった関係のものがよろしいでしょうか?」
「さあ……どうでしょう」
「やはり清香さんの好みがありますか?」
「……おそらくは」
「では、マタニティ関係がいいでしょうか?」
「わかりません」
「妊娠するとカフェインは避けるべきと耳にしたことがありますが、ノンカフェインの茶葉などはいかがですか?」
「……ええ」
歯切れが悪く、何を聞いても要領を得ない。
「今日は病院へ行って来られたとおっしゃっておりましたが、赤ちゃんは何週目に入られたんですか?」
「……わかりません」
父親になるのだから、嬉しくないはずはないだろうと思っていた。しかし、逆に妻が盗られたと赤ちゃんに嫉妬してしまう人や、覚悟のないままに父親になると知り、憂鬱になってしまうマタニティブルーの男性版もあると聞く。健一のこの気落ちした様子は、そういった理由からなのかもしれない。
「お二人で行かれたのではないのですか?」
「……行きましたが、そういったことは何も」
興味もないという様子だ。やはりそうなのかもしれない。しかし、だとしてなんと声をかけてあげればいいのだろう。男性の気持ちなんてわからないし、こんな場合ならなおのことだ。
考えていると、健一は再び口を開いた。
「清澄さんなら何でも把握していらっしゃると思います」
なぜここで清澄がと思ったが、あんな様子を見せつけられたら無理もないかもしれない。気にならざるを得ないほどの仲なのだから。
「業務上のパートナーだからでしょうか?」
絵麻が聞くと、健一は「いいえ」と答えた。
二人は担当する部署は離れているのに、いつも一緒で、直属の部下であるはずの自分よりも、清澄のほうがよほど長い時間そばにいると言う。
「結婚する前も、二回程度しか二人で食事をしていないのですが、結婚したあとは隔週に一度あるかどうかです。新居も越して以来一度も帰ってきません。妊娠していて不安だからと実家から出ようとしないのです」
「妊娠は……その、結婚されたあとではないのですか?」
絵麻は既婚の身でありながら、夫婦の営みがないせいもあり、妊娠出産の知識はゼロだった。いつどうやって妊娠に気づくのかも考えたことはない。検査薬を試して、エコーを診てもらうのだろうかと朧げなレベルである。
「ええ。一応はさずかり婚という扱いです。時期を濁すために、前回の結婚報告では話題に出さなかったのです」
「では、私も聞かなかったことにしたほうがよろしいですね」
「わかりません。もう少ししたら妊娠報告の機会を設けるのだと思いますが──」言いながら健一は両手で頭を抱えた。「何もわからないんです。僕は必要最低限のことを聞くだけで、こちらから連絡をしても返ってこないですし、質問しても答えてもらえません。僕の子であるはずなのに、何ヶ月なのか、順調なのかすらも知りません。今日もベビー用品を買うというのでついてきたら、清澄さんがいらっしゃるまでの場繋ぎでしかありませんでした」
「それは……」
絵麻はますますかける言葉に迷った。
まるで自分たちのようだとしても、妊娠するだけの絆はあるはずだから、その点は違う。そう思っていたのに、健一の子を宿しながらも同じ状況だとは思わなかった。いくら姉弟の仲が良いと言っても、さすがに度が過ぎているのではないだろうか。
「申し訳ありません、このような話をしてしまって」
取り乱した自分が恥ずかしくなったのか、健一は会話を打ち切りたい様子を見せた。
「いえ」
その後は、天気やニュースなどの当たり障りのない話題になり、言葉少なに会話をし、少しして健一のマンションに到着した。
「送っていただきまして、ありがとうこまざいました」
沈んだ顔のまま健一は降りていった。
健一と清香は夫婦というにはぎこちなく、未だ上司と部下に見えてしまう。それは出会ったばかりですぐに結婚したから、まだ名残があるせいだと思っていた。これから夫婦らしく見えていくのだと。
しかし、今日の健一の話から、夫婦に変わっていく段階にあるどころか、元の関係から変わっていないようだと知った。夫婦に見えないのではなく、健一本人も夫婦という実感がないようだった。まさに絵麻と清澄と同じだ。
仮初の結婚生活を送る仮面夫婦。
しかし、政略結婚である絵麻たちとは違って、恋愛結婚で、しかも子供までできたというのにおかしな話である。愛が先にあるべき状況なのに、なぜ同じことになるのだろう。
絵麻は帰宅し、夕方になるまで自室で過ごしたあと、夕食のために階下へ降りた。
ダイニングルームへ入ると、清澄が食前酒を飲みながら新聞を読んでいた。
「おかえりなさい」
絵麻は清澄の向かい側に腰を下ろした。
「あ、絵麻」顔を上げた清澄は微笑を向けた。「それで、結婚祝いは何を買った?」
「見つかりませんでしたわ」
「そうか。じゃあやはり何も買わないほうがいい。清香は好みがうるさいから、買っても無駄になるだけだと思うからね」
清澄は新聞をテーブルに戻した。
「絵麻、あのさ……」
「はい」
清澄は上目遣いに、伺うような視線を向けてきた。
「なんていうのかな……僕たちって上手くいってるよね? 仲の良い夫婦だよね?」
何を言い出したのかと驚いた。最近は驚くことばかりである。こんなことを聞かれたのも初めてだった。
「ちゃんと夫婦としてやれてるよね?」
清澄はさらに言葉を継いだ。
なんと答えるべきか。
迷った挙げ句に「……そうですね」とだけ返した。
返した言葉と本音は真逆であったが、こう返す以外にどうしろというのか。「破綻しています、そもそも最初から夫婦とは言えないと思います」などと言えるだろうか。
「食事をお持ちいたしました」
レオがダイニングの入口に現われた。
「ああ、今夜はなにかな?」
清澄は浮き浮きとナフキンを広げて食事の準備を始めた。
「ああ、今日はさっぱりしたいから、スパークリングワインにしようかな。白で」
「かしこまりました」
レオは前菜を置き、一礼して去って行った。
絵麻はその間レオを見ていた。
長い前髪の隙間から覗く目。ちらと清澄を見たときのその目が、またも絵麻の気を引いたからだ。
普段は負の感情をあまり表に出さないレオだが、清澄に対してだけ、何やら苛立ちを含んだ目を向けるときがある。主人として敬わねばならない相手であるのにも関わらず。
執事としては、影谷に比類できるほどの能力があると感心しているのに、まだ年若いからだろうか。おそらく幼少期の頃の名残だと思うが、しかし公私混同はするべきではない。
しかしレオのその気持ちはわかる。清澄に対する苛立ち、不快感、不信感、これまでもだが、今日は特に強く感じたことだった。
義兄を差し置いて、姉とベビー用品を買いまわるなど、いくら気を許せる姉弟とはいえ、神経を疑う行為だ。同性の姉妹ならまだしも、義兄が頼んでもいないのに、差し置くなどあり得ない状況だろう。
姉のことがいくら大事だとしても、そのお腹にいるのは義兄の子だ。姉弟がまるで夫婦のようだと不快に思っていたが、まさか父親のようにまで振る舞い始めるのではないか。そう考えると、不快を通り越して嫌悪の念を抱いてしまう。
子が欲しいのなら、目の前に妻がいるのに。
そうは言っても自分が清澄の子を妊娠するなど、想像もしたくないことだった。夫を愛してすらいないのに、その夫の子を愛せるかわからない。
母はまだしも父のことも愛しているかどうか怪しいほどなのに。
というよりも、これまで自分は他人を愛したことがあるのだろうか。家族に対するような親愛の情を別として、恋愛という意味ではないように思う。
生まれながらに清澄との結婚が決まっていたため、他の男性と恋愛をしようとなど考えたこともなかった。
言い寄られても、心を動かされたこともなく、自分も誰かに惹かれたことは一度としてなかった。
愛がどういうものなのか、人を愛するとどうなるのか、未だに経験したことがない。
どちらにせよ、自分の人生は清澄の妻であると決定づけられているのだから、彼を愛さない限りは、生涯得られない感情であることは間違いない。
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