第二章

第21話 後任の執事

 進藤しんどう絵麻えまは、二週間ほど夫に会っていなかった。

 珍しいことではない。月に二度も会えばいい方だろう。同じベッドで眠ったことすらない夫だ。新婚初夜もベッドは別々で、朝になる頃は部屋にすらいなかった。


 目覚めてすぐに夫のことを思い出すなんて、悪い夢でも見たのだろうかと不愉快な気分になる。

 すぐに気分を変えてしまおうと、執事を呼び出すボタンを押して、目覚めたことを報せた。

 すると、父の代から仕え、婚家までともについてきてくれた執事の影谷かげたにが、紅茶を持ってきてくれる。

 彼の紅茶でなければならないのだ。他の者が淹れたものは同じ茶葉を使って、同じ淹れ方をしてもまるで味が違う。


「失礼します」

 寝間着にガウンをひっかけただけの姿だが、影谷は赤ん坊の頃から仕えている父のような存在なのだから、はばかることはない。

 はずが、トレーを手に現れたのは若い男性だった。しかも見知らぬ人物ではない。

 驚きまじまじと見て、思い出した。

「影谷……レオ?」

「はい。おはようございます」

 レオはベッドの脇にあるサイドテーブルにトレーを置いた。

 やはりそうだった。目が隠れるほど伸ばした黒い髪、その前髪の隙間からじっとこちらを見る三白眼。ほっそりとした顎はまだ少年のようで、背丈も絵麻と変わらない。この目つきの悪さ、陰鬱な雰囲気、そして一時も目を離さないというように、こちらを見つめる眼差しは強烈に印象に残っていた。

「何年ぶり?」

 絵麻は聞いた。中学にあがった頃に一度会った気がするから10数年ぶりだろう。影谷は幼い息子をたまに連れてきていたが、それが最期だったように思う。

「13年と117日ぶりでございます」

「なに? その細かさは」

 絵麻はゾッとした。

「絵麻様が私を認識した日という意味で申し上げれば13年と117日ぶりですが、一方的にという意味で申し上げれば3日と16時間32分ぶりです」

 なにこいつ。キモい。

「どういう意味よそれ」

「絵麻様が事故に遭われぬように、見守らせていただいておりましたので」

 ああそう言えば、と思い出す。一年前にあと一歩で車に轢かれる寸前だということがあった。そのとき父に護衛をつけると言われて、断固として拒否したのだった。見守っていたと言うならおそらくそれが理由だ。

「じゃあなんで今ここにいるのよ」

 同じ影谷でも、紅茶を持ってくるのは父のほうの影谷の仕事である。

「父に教わって習得いたしましたので、お試しください」

「つまり、これは影谷が淹れたものじゃないの?」

 そんなものを持ってくるなんてと暗に含んだ物言いをしたが、レオは平然と答えた。

「はい。どうぞ」

 仕方なく、絵麻は紅茶に口をつけた。

「ん……」

 意外で、思わず声が出た。

 レオは「ええ、父に比類しているでしょう」と言わんばかりに片側の口角を上げた。

「もう用はないわ。着替えるから出ていきなさい」

 むっとした絵麻は、感想を述べずに素気なく言った。

 しかし、既に感想はいただきましたとばかりにうやうやしく頭を下げて、レオは部屋を出ていった。


 あのキモさと目つき、そして片側だけでニヤリとしたあの顔。

 一気に記憶が蘇った。

 確か3つくらい年下だった気がする。小学生のころ、たびた自邸へ来ていた。夫の清澄きよずみも、義姉の清香さやかもいるときで、仲の良い姉弟の輪に入れず、一人で遊んでいるときに、レオは戸惑いがちに相手をしてくれたのだった。

 相手をしてくれたというのは違うな、と振り払う。

 絵麻が寂しいから声をかけて、遊びに誘い、無理やり付き合わせたのだ。弟が欲しかったから、サッカーやバスケットをしたり、ゲームの相手をさせた。レオはそのすべてが弱く、必ず勝てるので満足感が得られ、何度も遊びに誘った。まったく喋らないし笑いもしない。陰気で、じっとこちらを伺うように見ている。上目遣いだから睨みつけているように見えるが、たまに褒めるとニヤリと笑う。不気味だか不快感はなく、彼なりに楽しんでいる様子が伺えた。

 夏場で薄着になるとあちこちに怪我の跡が見えて、子供心に苛められているのではないかと案じて、優しくしてやろうと気遣ってやった気もする。


 合計しても10回会ったかどうかという頻度だったため、うろ覚えだった。しかし、裕福な家庭の子どもたちに囲まれていた絵麻にとって、レオは珍しい存在で、熱っぽく見つめるあの目つきは、深く印象に残っていた。


 そんなレオがまさか執事になるとは。

 驚いたうえに影谷が来なかったことに不満を覚えたが、あの紅茶の味からは相当な努力が伺われ、まあいいかと気を散らした。

 それよりもと、着替えのためにクローゼットへ向かう。

 今日は外出したい気分だった。

 ならば買い物とランチをしようかなと思いつき、服を選ぶ。

 

 鏡に映る自分を見て、その人目を惹く美貌をまじまじと観察した。

 レオの眼差しは見慣れたものだった。異性だけでなく同性からも向けられる。

 美への陶酔と羨望。

 スウェーデン出身の母によく似て、肌も髪も色素が薄い。背中まで伸ばした薄茶色のその髪は、アイロンを使わなくてもカールしている。青味がかかった目はぱっちりとして、鼻筋は通り、唇はふっくらとしている。父の要素は少なく異国の顔立ちだ。

 義姉の清香も美人だが、まったく違うタイプだ。清澄はそちらがタイプなのだろう。姉弟のくせに、気持ち悪い。

 またも夫のことを思い出し、慌てて振り払う。


 気を取り直そうと、朝食のためにダイニングルームへ向かった。

 テーブルのうえには既に用意がされていた。焼き立てのパンにオムレツ、フルーツの乗ったヨーグルトにシンプルなサラダ、オレンジジュースとコーヒーだ。

 端に各種取り揃えられた新聞が置かれている。夫のために毎朝きれいに並べられているが、手にしたことはないだろう。この家になどほとんど寄り付かないのだから。

 食事を終え、スマホを取り出してメールを確認した。

 サカ☆カササギからの返信はない。コーヒーを飲みながら、何通かのメールを読み、必要な分だけ返信をした。


「絵麻様、車は何時ごろにご用意いたしましょうか?」

 近づいてきたのは影谷だ。

「いつの間にレオを執事にしたの?」

 不満を含ませた声に、影谷はうやうやしく頭をさげてからゆっくりと答えた。

「本日からでございます」

 毎度のことながらもったいぶる男である。

「なんで相談もなく私の専属にしたのよ?」

「申し訳ございません。奥様が私めに戻ってきて欲しいとおっしゃられているそうで、旦那様から申し付けられました」

 奥様は絵麻の母で、旦那様は清澄ではなく絵麻の父である。もともと絵麻の実家に仕える執事なので、本来の職場は西条家なのだ。

「レオは厳しく教育し、引き継ぎも済ませましたので、私めに言いつけるように扱っていただければと存じます」

 父母の命令ならば絵麻が口を挟める問題ではない。ここは進藤家で、主人の清澄に無理を言って影谷を置かせてもらっていたのだから。

「……わかったわ。車は、今すぐに」

「かしこまりました。既にロータリーにつけております」

 絵麻の行動を先読みし、準備を整えてくれる。こんな真似ができるのは影谷しかいない。レオにできるのだろうか。


 玄関を出ると、車の後部座席のドアを開けて待機しているレオがいた。

「どちらへ行かれますか?」

「買い物よ」

「かしこまりました」

 影谷ならこれで通じる。レオを試したのだったが、ちゃんと行きつけのブランド店へ向かってくれた。

 仕事をこなしてくれるのなら文句はない。

 しかし、影谷はこの居心地の悪い進藤家の中で、唯一心を開ける存在だったのだ。

 結婚して二年、仕事もさせてもらえず、家事などもする必要がない。金銭的制限もなく、夫とともに食事会なりに赴く以外は全て自由。毎日が休日のようだが、だからこそ無気力になり、鬱々とするのだ。

 ほとんど顔を合わせない夫の金で生活し、帰らない家に居続ける。

 仮初めの日々のような気がして落ち着かない。自分の人生を生きている気がしないのだ。

 その中で、影谷だけは自分を理解してくれて、頼れる存在だった。

 レオがそのような存在になってくれるのだろうか?

 不安しかない中で、また一つ自身の望みを諦めたのだった。

 

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