第15話 当然の仕打ち
居酒屋を出たあと、早苗の足取りはふらふらしていた。グラスの残りを一気に飲んでしまったせいだった。あれ以上は無理だと思っていたのに飲んでしまったのは、生田への欲望をアルコールで忘れてしまおうと考えたからだった。
触れないように配慮してくれているのか、早苗が千鳥足をふらつかせていても生田は支えようとせず、危険があれば声をかけながら見送ってくれている。ありがたい心遣いだ。触れられたら抱きついてしまいそうだった。それくらい、今の早苗は冷静さを欠いていた。
早苗の自宅近くのコンビニに通りかかると、生田は「水を買ってきます」と言って店内へ消えていった。
それをぼうっとした頭で眺めていた早苗は、立っているのもふらふらで、膝をつきそうだった。
生田は戻ってきて、買ってきたのかミネラルウォーターを差し出してくれた。キャップに手をかけると、先に少し開けてくれていた。こんなところにも気遣いを見せてくれるなんて、と何度目かにきゅんとなった。
水をごくごくと飲むと、飲むごとに霧が晴れていくかのように爽快な気分になってきた。
「美味しい! 水って世界一美味しいですね」
そう言ってまた飲み始め、半分ほど一気に飲んだ。すると急激にトイレへ行きたくなり、今度は早苗が店内へと向かった。
戻ってくると、生田は驚いた顔のあとおかしげに吹き出した。
「気持ち悪くなってきました」
水を一気に飲んだせいで胃に負荷がかかったらしい。背を丸めていないと吐きそうだ。頭から血の気が引いている気もする。
「大丈夫ですか? ちょっと座りますか?」
心配げな声が聞こえたが、「いえ、すぐそこですから」と答え、大丈夫だと身振りでも示して歩き出した。
「いやいや、その様子では無理ですって」
歩いている横を、生田は着いてくる。
すると肩に触れられ、驚いた拍子に足を止めた。
「こちらで少し休んでいきましょう」と言われ、コンビニの真隣にある青空駐車場のほうへ誘導された。
断る気力もなく、のろのろとついていく。本来ならば、振り払ってでも自宅へと向かうべき状況だ。しかし早苗の頭は無意識にもそれを否定し、生田の言うがままにするべきだと感じていた。
車に到着し、生田は助手席のドアを開けた。
それを見て、招かれたのなら受けねば失礼だとしか考えず、ぼんやりとした頭で乗り込んだ。
運転席に生田が座る。ミネラルウォーターを差し出され、軽く口をつけたあと背もたれに身体を倒した。
「気持ちいいんですけど、気持ち悪い」
早苗の言葉に、ははっ!と、おかしげに生田は笑う。
「山を超えたあたりですね。最高点は過ぎてしまって下り始めたみたいな」
「久々の居酒屋でテンションが上がり過ぎてしまいました。パートすること自体不安だったのに、飲み会にまで出れるなんてビックリです。生田さんのおかげですね」
早苗は、どこというわけでもない空間を眺めながらしみじみと言った。
「大丈夫ですか? シート、少し倒しますか?」
「あ、どうしよう。大丈夫、と言いたいところですが、ちょっと倒したいかも」
左右をキョロキョロとして、レバーを探す。
生田は手伝ってくれようとして、早苗の左側へ右手を回してきた。早苗の上に覆いかぶさるような形になるも、配慮してくれているようで、身体には触れていない。
しかし生田の身体がいきなり間近に迫り、早苗は驚きで酔いが覚め、忘れかけていた欲望が蘇った。
彼の香水の香りがふわりと漂い、体温すら感じるほど近い。手を伸ばせば数センチで触れてしまう距離だ。
生田はレバーに手をかけ、それを引いた。早苗が背もたれに体重をかけていたせいで、レバーを引いたときにガクンと後ろへ傾いた。反動で生田もバランスを崩し、早苗の身体にのしかかってしまった。
早苗は驚きつつも、生田に触れたいという欲求がいきなり成就したことで、理性がどこかへ消え失せた。
生田の体温が直に感じられて心臓はバクバクとし、温かな圧力で身体は硬直した。
とにかく抱きしめて欲しい。抱きしめたい。それしか頭になかった。
すると、こんな時間にこんな場所でこんなことになったのなら当然するであろう、そんな自然な動きで生田から抱きしめられた。
ようやく念願叶ったとばかりに、早苗も生田の背中に手を回した。
しばらくして生田の手の力は弱まり、身体が少し離れた。すると顔が見えてきて、至近距離で視線が重なった。
見つめ合ったまま、今度は少しずつ近づいてくる。
あと少しで次の願いが叶う。早苗の頭にはその願いしかなかった。他のこと、既婚の身であることや、生田はただの同僚であることも頭になかった。ただ、彼へ高ぶらせた欲望を叶えたい。それだけだった。
しかし、唇が重なるまであと1センチ、というところで、生田は早苗の頬に唇を寄せ、触れた。
思わず吐息を漏らす。唇ではなく頬だったことがさらに早苗を掻き立てた。なぜ一度で叶えてくれないのだろう。ここまで来たら、しないほうがおかしい。
そう思うほど、身体が熱を帯びた。
しかし生田は再び早苗を抱き寄せ、今度は耳元と目元にキスをされた。
むしろまた滾る。なぜだと悶える。
もう自分からしてしまおう。
そう決意した瞬間、生田はパッと身を引いた。
「酔っ払ってしまったみたいです。すみません。大変失礼いたしました」
そう言った生田は、いつもの陽気な声で、いつもの爽やかな笑顔だった。
なぜ? なぜ途中で離れてしまったの?
高ぶった欲望が収まらず、潤んだ目で彼を見つめた。
「眠くなってしまう前に送りますよ。歩けますか?」
しかし、生田は目を逸らし、ギリギリ微笑と言えるくらいに弱まった笑みで、そう言った。
その言葉とその笑みで、早苗は急に冷静になった。
頭が冷えると、今度は恥ずかしさで身体が熱くなった。
何をバカなことを考えていたのだろう。
早苗は慌てて身体を起こした。
「はい、もう、大丈夫です! 行けます! 行きましょう!」
早苗も生田から視線を逸らし、そう言ってバッグを手に持った。
そして二人は車を降りた。
二人とも無言のまま、アパートまでの道を足早に歩いた。
前まで来ると、早苗は深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございました」
それだけ言って、生田の顔を見ないようにアパートの入口へと走った。
「おやすみなさい」
背中に生田の声が聞こえた。
ほんの数分前まで腕の中にいた。その生田との距離が、どんどん開いていく。
本来あるべき距離へと戻っていく。
階段を駆け上がり玄関を閉めると、ドアにもたれかかり深呼吸をした。
なんてことをしてしまったのだろう。
彼に嫌な思いをさせたに違いない。もう顔向けできない。
後悔し、反省した。すると、ドアノブの動く音がした。
サッと血の気が引くのが自分でもわかった。
急いでドアから離れ、靴を脱いでドアに向き直った。
「おかえり──」
「おせぇな」
苛々とした智也の声に、出迎えの声がかき消された。
「おかえりなさい」
震える声で言い直した。
「母さんから大分前に終わったって連絡もらってたけど、何してたの?」靴を脱ぎ、早苗のほうへにじり寄る。「酒くさ! 俺より飲んでんじゃね?」
智也から全身を舐め回すように見られ、最後に睨まれた。
「ごめんなさい」
声だけでなく身体も震える。震えるほど、智也の表情と声に気圧されている。
「男と二人で残ったって聞いたけど、もしかして今まで一緒にいたのか?」
「ごめんなさい。その、飲み過ぎたから、コンビニで水買ってもらって」
はあ?という声とともに、さらに距離が縮まった。
「親切なやつだな! そいつと何してたんだ?」
早苗は後退した。怒号に怯え、本能的に逃げたくなったからだ。
「何もしてないよ。ただ、送ってもらっただけで」
「こんな時間まで男と二人きりなんて許されると思ってるのか?」
迫りくるので、さらに後退する。
「ご、ごめんなさい」
「そいつと何してたんだよ?」
歩みを止めない智也にたじろぎ、廊下を後ずさっていく。
怒りが尋常じゃない。こんなに激昂している姿はどれくらいぶりだろう。いや、今まであっただろうか?
「本当に、ただ送ってもらっただけで」
「そんなわけないだろ!」
さらに大きくなった怒声とともに、両肩を小突れた。
反動で、廊下からリビングへと転びそうになる。
「飲み会を許可した途端にこれだ。夫の目を盗んで男といちゃつくために仕事してたのか?」
その言葉の直後に突然頬に鋭い痛みが走り、星が舞ったかのように目の中がチカチカとした。そこは偶然にも15分前、生田の唇が触れたところだった。
「恥ずかしいとは思わないのか?」
もう一度平手で叩かれた。反動で早苗は後ろへよろめく。頬はじんじんと痛み、バランスを取るどころではない。
「それが妻のやることなのか?」
今度の衝撃は並ではなかった。一瞬意識が飛んだかのようになり、物凄い痛みで死んだのかと思った。
とうとうバランスを崩し、ローテーブルに向かって倒れ、太ももを角にぶつけた。
ぽつっと雨が当たったような感触が手の甲に伝わり、目をやるとそれは赤い液体で、続いて唇に痛みを知覚した。
震える手で頬を押さえると、鋭い痛みが走った。
こちらを見下ろしている智也は、その痛みよりも鋭い視線を向けている。
その右手が拳に握られているのが見えて、それで殴られたのだと気がついた。
また殴られると思って頭をかばおうとしたが、智也はぷいと向きを変え、そのまま歩いていった。
少しして、シャワーを使っている音が聞こえてきた。
ほんの数十分前までは期待と高ぶりで胸を高鳴らせていたのに、今や恐怖と絶望で鼓動を速めている。
しかしこれは自分のせいだ。既婚者で飲み会へ行っただけでなく、男と二人きりになり、果ては夫以外の男性に欲望を抱いてしまったのだから。
自分が悪いのだから殴られるのは当然の仕打ちだ。智也は悪くない。自分が悪い。
頭の中で智也から言われたことを何度も思い返し、自責し続けた。
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