第12話 病院

 智也はその日も機嫌がよく、「仕事へ行くなら念の為に病院で診てもらえ」と言ってくれたため、翌日もパートを休むことができた。


 EMA522[旦那さん優しいじゃん。うちの旦那ならそんなこと絶対に言わないわ]

 サカ☆カササギ[いや、うちも珍しいよ。最近不気味なほど機嫌がいいからだと思う]

 EMA522[機嫌がいいのはいいことじゃん。うちなんて、私の前で機嫌のよいところ見せないのに義姉の前ではいつもご機嫌だからね]

 

 EMA522とメールをし始めて以来、タブレットを利用するときは、SNSを巡回するのと彼女とのやりとりに終始している。ツイキャスもしばらくしていない。

 彼女も早苗と同様に義家族に不満を感じていて、そこにも共通点を見出し、二人で愚痴を言い合っている。早苗は主に義母と義妹で、彼女の場合は義姉らしい。自分たちは仮面夫婦なのに、夫と義姉はいつも側にいて、そちらのほうがよっぽど夫婦らしいと不満を溜めているようだ。


 サカ☆カササギ[愛されている実感があれば喜ぶところだけど、旦那からは全然。それよりも最近職場の人が……]

 誰かに言いたくてたまらず、生田のことをEMA522に打ち明けてしまった。いかに魅力的な人物で、その彼がなぜか気にかけてくれること、それが嬉しくも恥ずかしく、また背徳的だが心ときめいてしまうという思いの丈をメールした。

 EMA522[そっかそっか。日々の生活に張り合いが出てきたことはいいことだ! お見舞いに来てくれるなんて優しい人なんだね。サカさんの旦那さんは厳しい方だから、同僚の方の優しさが思った以上に響いたのかな? 心の中で密かに推す感じで楽しんじゃお]

 サカ☆カササギ[ありがとう。ギャップといえば、彼は優しいんだけど、強引さもあるんだよね。本心は嬉しいんだけど体裁的に断らざるを得ない場合に発揮してくれる。それがなんか少女漫画のヒーローみたいで、独身だったらクラクラ来ちゃうかも]

 EMA522[べた褒めじゃん! 推しどころか惚れかかってるんじゃないの? 旦那さんとは最近どう? いなくなるとホッとするってのは、私もそうだから気持ちはわかるけど、やっぱり旦那さんが一番じゃん。外にばかり目を向けていると、大事な宝石を見失っちゃうよ]

 サカ☆カササギ[旦那は日によって別人みたいに態度が変わるから最近怖いんだよね。機嫌が悪いとわざわざ粗探しして怒鳴り散らすのに、機嫌が良い日はあれこれ話しかけてきたり、不気味なくらい近寄ってくる。機嫌の悪さは前よりも酷くなってて、この間なんて怒鳴った挙げ句に突き飛ばされたんだよ。パートを休んだのも実はそれで、足首を捻挫しちゃったんだ。私の転び方が悪かったせいなんだけど、そんなこと初めてだったから怖かった]

 送信した直後に何を送ったのかようやく気づいて、同時に後悔した。

 生田のことを打ち明けていたはずが、思わず愚痴ついでに怪我の要因を話してしまった。これまでも、大した事ないのにオーバーにも愚痴っていたから、その癖が出てしまったようだ。

 

 しかし返信は予想外のものだった。

 EMA522[大丈夫? 今回だけでなく、これまでサカさんからのメールを読んで少し気になっていたことがあるんだ。人様の旦那様だから言いづらかったんだけど、さすがに行き過ぎなんじゃないかって気になってしまって。旦那さん、もしかしてモラハラ気味なんじゃないかな。それにDVもあるんじゃないかとも思った。突き飛ばすなんて普通じゃないし、転び方がどうとか以前の問題だよ。エスカレートしないといいんだけどって心配です]


 早苗は二度繰り返し読んだ。

 DVってたまにSNSなんかで見かけるドメスティック・バイオレンスってやつのことだろうか?

 何を言っているんだろう。突き飛ばされたけど、それは自分が悪いから言い聞かせるためだっただけで、当然の仕打ちだ。暴力なんて大げさなものではない。

 何をバカなと一笑し、返信をしようとしたときにふとスマホの時計を見ると、病院の予約時間が迫っていることに気がついた。

 ああ、行かねばと気持ちを切り替えて、タブレットをクローゼットの奥に戻して家を出た。


 捻挫の受診なのだからタクシーなり車で向かいたいところだが、そんな金銭的な余裕はなく、智也もそこまでは許してくれない。バスで行かざるを得ず、早めに出なければならなかった。


 医師の見立てでは、あと数日ほど湿布を張り替えて、無理をしなければ完治するとのことだった。

 まあ、そうだろうなと思った。バス停への道も以前ほどの痛みはなく、足をひきずる必要もなかったからだ。


 会計を待ちながら待合室のテレビをぼうっと見ていると、「あれ、柏木さん?」と声をかけられた。

「えっ? 桐谷さん? 奇遇ですね」

 驚くことに桐谷が隣に座っていた。

「こんなところでお会いするとは」桐谷も目を丸くしている。「……どうなされたのですか?」

 桐谷の心底心配そうな顔を見て、大したことないと示すために笑顔をつくる。

「ただの捻挫ですよ」

 しかし彼は、捻挫なんて大変だとでもいう顔をした。

「えっ? 大丈夫ですか?」

「もうほとんど完治しています。今日は確認のために受診しただけですから。桐谷さんはどうなされたのですか?」

 桐谷はホッとしたようだった。コロコロと表情が変わるところは相変わらず少年のようだ。生田と対面するときは緊張する早苗も、桐谷の前だとリラックスできる。

「私はただの付き添いです。仕事先の上司が突き指をされて……」

 何やら濁す物言いだ。それ以上聞かないほうがいいらしいと思い、他の話題を探す。

「……そう言えばモンパルナスへは最近行ってらっしゃいますか?」

「ええ」桐谷はホッとした顔になるも、すぐにまた心配げな顔になる。「柏木さんは最近いらっしゃらないですね」

「私は月に一二回程度の常連なので、珍しくはないです」

 彼はああ、という顔で、「確かに」と言った。そして「ツイキャ……」と言って自分の言葉に驚いたようにして言い淀んだ。

「なんですか?」

「いえ、あの」また以前のようにしどろもどろになる。「捻挫されてるなら料理は大変ですね」

「ええ、でも夫が今だけなら冷凍食品や出来合いでも構わないと言ってくれたので助かってます」

「ああ……それは、よい旦那さんで……」

 言いながらなぜかみるみる悲しげに顔が歪んでいく。

 なぜかはわからないが、悲しげな顔を見て場を取りなさねばと感じて、話題を拾った。

「桐谷さんは料理をされますか?」

「え? あ、はい。私は一人暮らしで、その、外食ばかりでは悪いと思って最近料理を始めました」

「どんなものを?」

「ええ、まだ不慣れですから、カレーとか鍋とか」

「凄いじゃないですか」

「でも一人なので余ってしまいます。柏木さんもおっしゃっていましたが、少ない分量を作るのは意外と面倒なんですね」

 まるで以前会話をしたような物言いである。しかしそんな覚えはない。

 モンパルナスで見かけていたと、以前彼は話していたから、オーナーとの会話を聞いていたのかもしれない。

「一人分だと材料が半端ですからね。まとめて作る方が楽ですよね」

「そうなんですよ」桐谷はうんうんと頷く。「この間はハンバーグに挑戦しました。オーブンは持っていないので、できませんでしたが、柏木さんがおっしゃっていたように、パン粉ではなく食パンを牛乳で浸してみたら、ふわふわになって美味しかったです」

 言い終えたときに「桐谷くん」と声がして、跳ねたように彼は立ち上がり、こちらに頭をさげて声のするほうへと向かった。そして恰幅のよい年配の男性に歩み寄り、ともに別室へと消えていった。


 確かにスマホを落とした日は、オーブン焼きのハンバーグに挑戦していた。それをモンパルナスのオーナーにも話していた。

 しかし、食パンを牛乳に浸すなんて、そんな細かい工程までは話していないはずだった。


 それを話したのは──

 早苗は考えて、桐谷が言い淀んだ言葉を思い出した。

「ツイキャ……」とまで言ったのなら、「ツイキャス」しかないだろう。つまり、桐谷は食パンの話をツイキャスで聞いたのだ。

 本名ではなくサカ☆カササギというアカウント名で、顔も出していないのに、なぜ柏木早苗と結びつけたのだろう。

 その答えはひとつしかない。

 早苗はスマホにロックをかけておらず、桐谷はそれを指摘したうえで謝罪していた。

 つまり、彼はアプリを見たに違いない。普段はタブレットでしか使用していないが、確かにあの日、タブレットの調子が悪かったため、スマホにインストールしていた。智也にバレないようすぐに削除したものの、スマホのほうにサカ☆カササギの形跡を入れていたのはあの日しかなかった。


 あんな人の良さそうな青年が、わざわざSNSのアカウント名をチェックしていたとは。近しいものを感じて親しみすら覚えていたのに。

 桐谷の印象と行動が結びつかず、誤作動して目に入ってしまっただけだと擁護をしたくもなるが、そうだとしてもこっそり視聴するなど、ストーカー紛いの行動と言える。


 しかし、自分がストーカーの対象になるなんて信じられない。

 地味でおどおどとして、智也に声をかけられなければ、結婚など一生できないものだと思っていた。智也の他に好意を寄せられた経験もなく、一目惚れなんてあり得ない。

 だから興味本位以外に考えられないが、それにしても不思議だった。興味を惹かれる要素などどこにもないというのに。


 そうなのだ。

 生田からも興味を抱かれているようだが、その要素がまったく思い当たらない。嬉しいものの、不思議でたまらない。

 生涯を誓いあったはずの夫から浮気されるほどの女なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る