第11話 好意
早苗は必死に落ち着こうとした。冷静になるために、この状況を喜んでいる自分を律するための言葉を探した。
自分は既婚者で、彼は同僚で、彼にとっては大したことではないはずで、と様々に言葉を並べ立てた。
「部屋に二人きりって、緊張しますね」
自分の思考を読まれたのかと思い、それまで緊張してそむけていた顔を生田の方へ向けた。すると目の前に眩しいほどの笑顔が現れ、さらに心臓が跳ねてしまった。
車内よりも近い。こんな距離で生田の顔を見たのは初めてだ。若々しい肌の艶、綺麗な瞳、長いまつ毛、薄い唇。なんて素敵なんだろう。
生田が不思議そうに小首を傾げた。
それを見て、じっと見つめていたことを自覚して、顔を熱くしながら再び視線を逸らした。
「確かにそうですね。夫以外の男性と二人きりになるなんて初めてです。あっ、もちろん親とかは別ですけど」
「僕もですよ。早苗さんと二人きりなんて、夢のようです」
なんてことを言うのだろう?
ただでさえ緊張して死にそうなのに。
これはお世辞だ。本気で言っているわけではない。
でもなぜ見舞いに来てそんなお世辞を言う必要があるのだろう?
いやいや、怪我で落ち込んでいる自分を元気づけようとしたからだ。
でもなぜ既婚者を相手にそれで元気が出ると考えるのだろう?
それは自分が生田に対して少なくない好意を持っていると気づいているからだ。
違う! そんなこと気づかれてたまるもんですか!
早苗は一人、心の中で問答を繰り広げ、最後に驚きの声をあげた。
「わ、私も夢のようです」
だからか、思わず変な相槌を返してしまった。
「それは嬉しいですね」しかし生田は穏やかな声で言った。「憧れていた早苗さんにそうおっしゃっていただけるとは」
何を言っているのだろう。憧れていた? 家事も仕事も中途半端にしかできない出来損ないで、年上だし、好意を持つような要素は何もない。彼には素敵な恋人がいるはずで、今のは単なる聞き間違いだ。
早苗はそう結論付け、混乱した頭で再びおかしな返答をした。
「生田さんのお付き合いしている方は、とても素敵な方なんでしょう」
生田は「え?」と言ってから吹き出した。
「笑ってすみません。突然どうしたんですか?」
しばし笑い声をあげた生田は、目の端を指で拭いながら言葉を続けた。
「すみません、彼女なんていませんよ。仕事と家の往復だけの毎日です。退屈な日々の中で早苗さんに少しでもお会いすることが、僕の唯一の楽しみなんです」
「あの、私は、結婚していますから」
生田の返答にも、自分がいきなり突拍子もないことを言ったことにも恥ずかしくなり、俯いて答えた。
「もちろんですよ。そういう意味ではなくて、早苗さんは僕の癒やしみたいな、会えると嬉しくなるし、話していると楽しい。それだけです」
早苗は自分も同じだと思った。生田の存在は癒やしだ。恋愛をしたいとか、もっと近づきたいとかそういったことではなく、会えると嬉しい。一緒にいると楽しいと思える。
「私もです。一緒にいると楽しい。生田さんといる時間が好きです」
同じ考えであると知って嬉しくなり、口をついて出た。
「それは嬉しいです」
生田は笑みのまま答えた。早苗のほうも自然と穏やかな笑みになり、二人とも似たような表情で、5秒ほど視線を重ねた。
しかし生田の瞳にふっと真剣な輝きが帯びるのを見て、早苗はドキリとし、目を逸らした。
生田はふとテーブルの上のカップに手を伸ばした。
早苗も、間をもたせるためにそれに倣い、コーヒーをすすった。
会話が止み、すると部屋の静けさが急に際立ってきた。窓の外からは車の走行音や、犬の鳴き声などが聞こえている。
1分ほどだろうか、そのままゆったりとした空気が流れ、生田がカップを置くかすかな音で、場の静けさが破られた。
「そろそろ、お暇しますね」生田は機敏に立ち上がる。「実は取引先に行くって言って出てきただけなので、そろそろ戻らないといけないんです」
いつもの爽やかな笑顔だ。
早苗もテーブルにカップを置いて、見送ろうと腰を浮かせた。
「それは、お引き止めしてすみませんでした」
「あ、そのまま座っていてください。ここで大丈夫です」
立ち上がろうとした早苗に向かって、制止するように手を出した。
「でも……」
早苗は中腰のまま戸惑いの顔を見せた。
「ごちそうさまでした。お元気そうな姿を見れて安心しました。何かご用命があればいつでも声をかけてください。癒やしの早苗さんのためならいつでも参りますから」
生田はおどけたような言い方をしたため、早苗もそれに合わせようと笑顔を向けた。
「ありがとうございました。お話できてとても楽しかったです。明日は仕事に行きますので、またよろしくお願いします」
「それは良かった。では、また明日お会いできますね」
生田は笑顔のままそう言うと、玄関の方へ歩き出そうとした。ここで構わないと言われたから、早苗はその言葉に甘えて、別れの挨拶が済んだのだと考えた。
しかし足が前に出る、というところで生田は動きを止め、早苗の方へ振り向いた。
手が伸びてきて、左耳から頬にかけて手で包むように撫でられた。
早苗は驚いて生田を見る。
すると彼は悩ましげな目を向けていた。
それはまるで、これは始まりだとでも言うかのようだった。二人きりになり、隣で親しげに会話をし、肌に触れたことは、最初で最後のことではなく、また繰り返されることで、今度はもっと距離が縮むのだと言うような、そんな期待を感じさせるものだった。
生田はふと視線を逸らしたと思うと、手を離し、足早に玄関の方へ消えていった。
ドアの閉まる音が聞こえたが、早苗は何も考えられず、バクバクと脈打つ心臓の音だけを耳にしながら、しばらくの間動けなかった。
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