第10話 見舞い

 その日はパートを休んで二日目だった。

 三日前の夜に、右の足首を捻ってしまっていたからだ。翌日は仕事へ行ったものの、立ち仕事なので痛みが堪えきれず、これでは無理だと思って、帰宅した智也に病院へ行かせて欲しいと頼み込んだ。散々に嫌味を言われながらも、パートを休んで病院へ行く許可をもらえた。

「軽い捻挫だから2、3日は安静にしていれば治る」と医師に言われたため、帰宅した智也に礼とともにそれを伝えた。すると昨夜は機嫌が良く、「それなら大事をとって明日も休んだら良い」と言ってくれて、今日も休むことができたのだ。


 突き飛ばされたのは初めてだった。それまでは怒鳴ったり、ネチネチと不満を言ったりして言葉で叱責されることはあったものの、手を出されたことはなかった。

 怒りに我を忘れたか、妻があまりにも至らなかったからか。どちらにせよ、口で言っても効かないから手を出してしまったに違いない。怪我をしたのは転び方が悪かったせいなのだから、つまり事故と言える。それなのにパートを休ませてくれて、食事も外で済ませてくるからと、家事も休んでいいとまで言ってくれた。

 早苗は自責しながらも、智也の温情に感謝をして、のんびりと過ごさせてもらっていた。


 午前10時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。宅配便か何かだろう。大変だが、智也のものを再配達にするわけにはいかない。足に負担をかけないように玄関へ向かった。


「えっ……」

 覗き穴を見て驚いた。

 まったく予期していない人物で、3秒ほど静止してしまった。

 しかしそれではいけないと我に返り、手を震わせながらドアを開けた。

「どうなされたんですか?」

 そこにいたのは生田で、いつもは穏やかに微笑をたたえているはずの顔には、心配げな表情が浮かんでいた。

「いきなりすみません。今日もお休みすると伺って、心配になってお見舞いに来てしまいました」

 まさかのことで感激してしまう。

「わざわざありがとうございます。ですが全然、大したことないんです。大事をとって休んだだけで……」

「それは良かった」生田は安堵の声で言った。「二日もお休みすると聞いて、よっぽどのことだと考えもなしに飛び出してきてしまいました。何かお力になれることがあるかと思ったのですが、大したことがないと聞いて安心致しました」

 ここまで心配してくれるなんて。なせそこまで気にかけてくれているのだろう。心配だったとしても、わざわざ来る必要はないのに。

「大したものは出せませんが、是非上がってください。せっかく来ていただいたのですから……」

 しかしだからこそ、来てくれたのならば招き入れねばと考えた。

 生田は一歩後ずさりながら、「いえいえ」と言った。

「事前に連絡もせず訪ねてしまったことだけでも失礼なことでしたが、ご主人のいない時にお邪魔をするのは、さすがに……」

 生田はさらに一歩後ろへ下がり、「それでは、失礼します」と頭を下げ、階段の方へ足を踏み出した。


「生田さん!」

 声をかけたのは、反射的にだった。

「少しだけでも寄っていただけませんか? コーヒー1杯だけでも、お付き合いいただけるとありがたいです。と言うか、あの……助かります」

 深く考えて言ったことではなかった。

 せっかく来てくれたのに、玄関先で立ち去らせるわけにはいかない。それは常識的なことで、すべきことだ。

 そう思い浮かんだからだが、実のところ去って欲しくなかった。せっかく会えたのだから、もう少し話をしたい。まさかのことだが、この機会をすぐに終わらせたくなかったからだった。


 早苗の言葉に足を止めた生田は、再びこちらへ振り返った。

「僕でお力になれるのであれば……」

 早苗はホッとして、ドアをさらに開けた。

「散らかっておりますが、どうぞ」

 冷静だったらこんな大胆な真似はできなかっただろう。動揺し、必死だったからできたことだ。


 早苗はリビングへと向かいながら、生活感のある物体が落ちていたり、汚れはないかを素早くチェックして歩いた。焦るほどの散らかりようはなく、むしろ整頓されているとも言える状態で、普段から掃除をしていたかいがあったと、内心で自分を褒めた。


 そして生田をソファに誘導し、コーヒーを淹れるためにキッチンへと向かった。

 コーヒーメーカーをセットしたあと戸棚を見渡すと、お茶菓子を見つけたので皿に盛りつけ、先に持っていくことにした。

 テーブルに置き、生田の対面にあたるクッションの上に腰を下ろす。

 キョロキョロと部屋を眺めていた生田は、腰を落ち着けた早苗を見て笑顔になった。


 なんて大胆なことをしてしまったのだろう。

 リビングのソファに座っている生田を見たら、自分のしたことを改めて実感し、遅れて焦りだした。

 結婚をしている身で、独身の男性と二人きり。

 しかも自宅に上がるように、自分から誘っているのである。変なふうに捉えられていなければいいのだが。

 早苗は不安に駆られながらも、でも生田のほうからお見舞いに来てくれたのだからと言い聞かせ、彼は優しく紳士的で、誤解するような人ではないと考えて、開き直る以外になかった。


「体調はいかがですか?」

 自分の考えに没頭していた早苗は、生田の声にハッとした。

「あ、はい、あの、足首を捻挫しただけで、病院へも行きましたし、安静にしていればすぐに治るとのことでした」

「そうでしたか。捻挫でしたか。それは良かった。いや、良くはないですが、後に残る症状ではないようで安心しました。二日もお休みになられて、その……体調ではなく精神的なものかもしれないとも考えたり、心配になってしまって……」

 精神的なものというのは、ひょっとして義母との関係を言っているのだろうか。まさかとは思うが、気にかけてくれているらしい。


 そのときキッチンのほうからカチッと音がして、コーヒーが沸いたことを知らせた。

 早苗はキッチンへ向かい、カップに淹れて戻ってきた。テーブルに置いたとき、同時に生田が腰をあげた。

「早苗さんこちらに座ってください。足を捻挫されてるんですよね、床に座るよりこちらの方が楽ですよ」

「いえいえ、本当に大した怪我じゃないんです。床に座っていても痛くないし」

 二人はテーブルを挟んで立っている。

「そうかもしれませんが、僕が来たことで負担をかけていたら来た意味がないじゃないですか。こちらに座ってください」

 生田はソファに手をかざしながら、早苗のいるほうへテーブルを回り込んだ。

「いえ、お客様を床に座らせるわけにはいきませんから」

 早苗も頑としてソファに近づかないため、生田が早苗の側に近づく形になる。

「思ったより頑固な人ですね」

 生田は眉を下げ、参ったとでも言うような表情になり、早苗の背後に回って、両肩にそっと手を触れた。

 早苗は触れられたことで驚き、肩をかすかに震わせた。

 優しい手つきでそっと押され、ソファの方へ促され、生田の成すがままソファの方へ足を動かした。

 生田はソファの前まで連れてくると、早苗の身体を反転させ、今度は肩を上から押され、結局は座らされてしまった。

 生田はそのまま対面には移動せず、少し間を空けてソファの上に腰を下ろした。

「これなら文句はないでしょう」

 口の端を上に上げたまま、早苗の顔を覗き込むように見た。

 

 心臓はこれ以上速度を上げられないというほどに早鐘を打っている。

 生田の笑顔をこんなに間近で見て、動揺を静めるなんて無理だ。

 肩には生田に触れられた感触が未だに残っている。

「いただきます」

 そう言って、生田はカップを取るために手を伸ばした。

 ふわりと香水の香りがして、車で送ってもらったときのことを思い出し、その生田と二人きりになっているのだと、急激に意識した。

 しかも車と部屋とでは、同じ密閉された空間と言えども大きな隔たりがある。窓に目を向ければ人の目がある車内と、窓には空しか映っていないアパートの部屋ではまるで違う。

 ただ同僚がお見舞いに来ただけ。

 そう断じられるような心臓の音ではなかった。

 生田のことを異性として意識してしまっている。

 この状況もすでにそうであるが、そんな感情を抱くなど、さらに不謹慎なことだ。それは承知している。

 しかし智也との恋愛経験しかなく、似た状況に陥ったこともない。

 自身の感情をどう処理すればいいのか、こういった場でどう対処すればいいのかも、早苗はわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る