第9話 帰り道

 生田は桐谷とは違い、対面すると緊張して声は出ず、目もろくに合わせられない。そんな自分が情けなく、気恥ずかしさを超えて居た堪れない気持ちにすらなる。

 生田は掃き溜めに鶴とまでは言わないが……言ってもいいかもしれないと思うほど、中年ばかりの職員たちの中で、その若さと端正な顔立ちは目立ち、眩しいほどの笑顔は、女性だけでなく男性さえも魅了していた。

 

 それほどの美貌なので、一度でも見ていたら記憶に残っているはずだ。だから、初めて会ったあの日以前は、見かける機会すらなかったということだ。

 それなのに、あの日の翌日から毎日のように見かけるようになった。見かけるというよりも、生田が義母のもとへ訪れるのである。用事を言いつけたり、質問をしにきたりする。休憩時間も被っているのか、休憩室へ行くと生田が既にいることが多く、義母が声をかけられて同席することも少なくない。

 会話らしい会話をすることはないものの、ちらりと顔を見ると必ず目が合う。毎日挨拶を交わし、廊下の反対側にいたときにわざわざ声をかけに来てくれたりもする。

 そんな日々を過ごしていくうちに、先輩に夢中になる学生のような、行きつけの店の店員に心を寄せてしまうような、淡い恋心に似たときめきを感じるようになってしまっていた。


 その日仕事を終えてバスを待っていると、「柏木さん」と後ろから声がした。その声からしてまさかと思ったが、そのまさかで、振り返ると生田がいた。

 義母と別れたばかりだったので、近くにいないかと辺りを見回すと、その意図に気づいたのか、「お義母さんは、もうバスに乗られましたよ」と言われ、生田は左折しようとしているバスを指で差した。

 早苗はきょろきょろとした自分が恥ずかしくなり、俯いて答えた。

「すみません。あの、義母に見られると何を言われるかと……すみません」

「ええ、そうですよね。お気持ちお察しします」

 なぜ声をかけてきたんだろう。ただでさえ目も合わせられず緊張するというのに、義母抜きで、しかも社外で顔を合わせるなんて、どう対応すればいいのかわからない。

「柏木さん」

「はい」 

「失礼でなければ、お送りしますよ」

 思わぬことを言われてぽかんとしてしまった。

 信じられず、今一度言われたことを頭の中で繰り返したが、やっぱり信じられない。

 生田は笑みのまま、じっと反応を待っている。

 それを見て、まぬけ面をさらしていたことに気がつき、慌てて答えた。

「そんなことをしていただくわけにはいきません」

 信じがたいことだが、現実だとしても、既婚女性が独身の男性に送ってもらうわけにはいかない。 

 どう断れば角が立たないか言葉を探していると、生田は優しげな声で言った。

「帰っても誰が待っているわけでもないので、仕事が終わると暇を持て余しているのです。少しだけでもお付き合いいただけると嬉しいのですが」

 そう言って、「すぐそこですから」と歩道の先を差し示して歩き出した。

 断るにも別れの挨拶をしなければならないと考えた早苗は、思わず生田の後に続いた。

「あの、結構です。遠いですし、遠回りになるかもしれませんし、面倒ですし」

 生田は、うんうんと笑顔で頷きながらも歩き続け、「ここです」と青空駐車場へ入っていく。

 そして車のキーを鳴らして、助手席のドアを開けた。

「結構です……」

 乗れと言わんばかりの状況に対して、力なく抵抗を示した。しかし断りの言葉を並べながらも、結局はついてきてしまったのだから説得力はない。

 生田は微笑を浮かべたまま、早苗が乗り込むまで閉めないとばかりにドアにもたれかかっている。

「送るだけですよ。どこかに連れて行くことはしませんから」

 そうは言われても、既婚者が独身の男性に送ってもらうわけにはいかない……と何度も頭で繰り返し、しかしどうしようもなく心が揺れていた。淡い憧れを抱いていた生田に誘われて嬉しくないはずがなく、いつもは壁のように立ちはだかる義母の存在もない。最初に対面したとき以来である。

 目を合わせることもできず、緊張して声が出ないと言っても、自分一人で生田を独占できるという時間はたまらなく魅力的だった。

 

 結局、早苗はおずおずと乗り込んだ。

「すみません。ありがとうございます」

「いえいえ、こちらがお礼を言うべきです。強引にお誘いしたにも関わらず、お付き合いしてくださってありがとうございます」

 生田は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。

「柏木さんとお会いして、色々とお話してみたいと思っていたんです」そう言ってゆっくりと発進させた。「もちろん下心はありませんよ。ですがお義母さんの方の柏木さんがいらっしゃるから、お一人になられるタイミングがないようですし、それならばと強硬手段にでてしまいました」

 生田は無邪気な笑顔を見せると、駐車場を出て、早苗の待っていたバス停の進行方向へと車を走らせた。

 まさかの理由を聞いて唖然としてしまう。あの生田からそんなふうに思われていたなんて。聞き間違いかと思うほどだ。


「お住いはどの辺ですか?」

 呆けて生田を見ていたら、運転しながらこちらに目を向け、視線がぶつかった。瞬間沸騰したように顔が熱くなり、ドクドクと鼓動が早くなる。

「あ、えっと、花園の方です。4丁目」

 見ていられず目をそらした。

 話すだけでも緊張するのに、車内で二人きり。自らの意思で誘いを受けたとは言え、なんて大胆なことをしてしまったのだろう。

「承知しました」言いながらウィンカーを出し、車は左折した。「お義母さんの方の柏木さん、うーん、これ、面倒ですね、早苗さんとお呼びしてもいいですか?」

「えっ?」思わず飛び上がりそうになる。

「あの、はい、構いません。確かに同じ苗字ですから、紛らわしいですよね」

 またもや信じられないことを言われ、心臓は悲鳴をあげそうなほど早鐘を打っている。

「お子さんはいらっしゃいますか? 保育園のお迎えとか、もしもあるなら向かいます」

「いえ、全然! 子供はいません。全然。」

 顔の前で何度も手を振って否定の仕草をする。

「このまま真っ直ぐ帰宅なさいますか? お買い物とか大丈夫ですか?」

「買い物……、いえ、買い物はありません」

 もはやしどろもどろで、日本語を学び始めたばかりかのような返答になってしまう。

「そうですか、それは残念。ドライブはすぐに終わってしまいますね」

 言葉同様に声も残念そうで、思わず「え、あ、買い物、します!」と返してしまった。

 すると生田は吹き出し、「笑ってしまってすみません。早苗さん、可愛いですね」と笑いを噛み殺しながら言った。

「えっ」

 思わぬことを言われ、きょとんとしてしまった。赤信号で停車していたため目が合い、生田は笑いだした。

「すみません、冗談です」言いながらもまだおかしげに笑っている。「必要がないのに、無理やり連れ回したりは致しません。真っ直ぐご自宅へお送りします」

 青信号になり車は再び発進し、前に向き直りながら生田は言った。

「ですが、必要があれば、いつでもお連れします」

 つまり、この機会はこれで終わりではなく、また声をかけるということなのだろうか。

 なぜそんなことをするのだろう。

 自分は既婚者で、年も一つ上だ。職場には自分よりも若く可愛らしい女性が何人もいる。それなのに、わざわざ自分を誘い出す理由がわからない。

 

 自宅の近くに来たので、道案内をしてアパートの近くのコンビニの駐車場に停めてもらった。

「本当にありがとうございました」

 シートベルトを外しながら礼を言い、頭を下げてから降りようとドアに手をかけた。

「早苗さん」

 生田の声に振り向くと、手が伸びてきて、前髪にそっと触れた。そのとき手首から爽やかな香りがほのかに漂い、ドキリとして、顔中が熱くなった。

「すみません、髪についていたもので」

 ほら、とばかりに指に挟んだ綿のようなもの見せられ、生田はにっこりと微笑んだ。

 こんなのを髪につけていたなんて。

 その気恥ずかしさでさらに顔が赤くなる。

 目を合わせることができず慌てて降車し、何度もお礼を言ってアパートの方へ走った。


 


 自宅の玄関に飛び込みドアを閉め、呼吸を整えた。全速力で走ってきたため息が切れていたからだ。

 何度も赤くなったり、言葉が出てこなくなったりして馬鹿みたい。まるでこどものようだ。

 自分は既婚者で大人なんだからと、冷静になろうと努めながらも、生田の笑顔と言葉、そして近づいたときの匂いがまざまざと思い出されてまた顔が熱くなった。

 数分ほどそのように玄関で立ち尽くしていた早苗は、時計を見て5時に近くなっていたことに気づいた。

 瞬間、日常に引き戻され、しなければならない家事が次々と頭に浮かんできた。


 着替えを済ませてから夕食の調理を終わらせ、洗濯物を片付けていると玄関のドアが開く音が聞こえた。時計を見ると6時少し前だった。


「おかえりなさい。今日は早いんだね」

「スマホ見せて」

 近頃機嫌の良かった智也だが、今日は虫の居所が悪いようだ。声も表情も苛々としている。

 早苗は小走りでダイニングテーブルへ取りに行き、廊下を進んできた智也にスマホを手渡した。受け取った智也は1分ほど操作したあと、早苗に押し付け、無言のまま寝室へ向かった。


 早苗はリビングへ戻り、洗濯物の片付けを再開した。あと少しで終わるため、済ませて起きたかったからだ。

 智也の足音がして、直後に椅子の足が床に引きずられる大きな音がした。ギー、ガタンと、わざとたてているような音だった。

「夕飯は?」

 そして怒気をぶつけるような声が続いた。

「ごめん。すぐに出すから」

 早苗は立ち上がり、急いでキッチンへ向かう。

 洗濯物は残り2枚でキリが悪かった。しかしこんな智也を前に、すぐに命令を聞かないなどあり得ない。

「つーかなんで洗濯物の片付けしてんの? 旦那が腹空かせて帰ってくるのわかってるだろ?」

 いつもよりも5割増しの声量で追い打ちをかけられた。

「ごめん」

 焦りから手が震え、手際が悪くなる。智也はその動作をじっと目で追いながら、カツカツと爪の先をテーブルに打ち付けている。その苛立ちを表明するかのようなリズムが、さらに早苗を焦らせた。


 サラダとスープを順番にテーブルに乗せたあと、鍋からよそったカレーライスを智也の前に置く。

「うわ! 今日社食でカレー食ったんだけど! 最悪!」

 置いた拍子にそう言われ、思わず身体がびくっと震えた。

「あ、ごめんなさい」

「旦那に昼と同じもんを食わせるなんて有り得ねー」

 智也は、スプーンやフォークを乱暴に扱い、大きな音を立てながら食べ始めた。

「しかも社食の方が美味いっていうね。疲れて帰ってきて昼より不味いもん食わせられる気持ちわかる?」

「ごめんなさい」

 手や身体だけでなく、声も震えてしまう。

「謝れば何か解決すんの? 不味いもん食わせられてる事実が変わるわけ?」

 食べ終えた智也は、スプーンを勢いよく皿に投げつけた。瀬戸物と金属のぶつかる大きな音が耳をつんざき、早苗は身をすくませた。


「風呂入る。湧いてんだよな?」

 また椅子を乱暴にひき、摩擦の音が大きく響いた。

「あ、ごめん、まだ……」

「は? 飯だけでなく風呂もまだ? ふざけてんの?」

「すぐに沸かすから」

 怯えながらも精一杯声を出し、立ち上がって湯沸かしボタンの方へ駆け寄ろうとした。


 智也の後ろを通って行かなければたどり着けないため、そちらに足を踏み出したのだが、通りかかろうとしたときに智也が立ち上がり、早苗の前に立ちふさがる形になった。

「今から沸かすの?」

 向かってくる早苗の胸を片手で抑えつけ、その反動で早苗は後ろへよろめいた。

「入れるようになるまで何分かかるわけ?」

 睨みつけながら言われ、その目つきに恐怖を感じた早苗は目を逸らし、うつむいた。

「おい! 聞いてんのか?」

 智也は一歩こちらに歩み寄り、再び胸のあたりをどんと押した。一度目よりも力が強く、今度は堪えきれずに尻もちをついてしまった。

 おしりにではなく、足に激痛が走る。痛みで顔をしかめながら確認すると、みるみる赤くなり、腫れてきているようだった。


 ふっと鼻で笑うような音がした。

「よっわ。こんなんでコケんの?」

 次に聞こえた嘲るようなその声に驚き、早苗は顔を上げた。

 すると夫は妻を見下ろしながら、薄気味悪い笑顔を浮かべていた。

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