第8話 緊張、羞恥、不安
それから、智也の帰りが遅い日が続くようになり、夕飯を食べる量が減り、翌日に残ってしまうようになった。それを弁当に回したり、早苗の分の夕飯にしたりしていると、出費も抑えられ、節約のために頭を悩ませることが少なくなった。
パートから急いで帰宅してもどうせ帰りが遅いのだからと余裕も生まれ、家事ものんびりできるようになり、浮気そのものは不愉快に変わりないが、生活にはゆとりが生まれたと言っていい。
パートも、相変わらず義母の小言はうるさいものの、仕事自体には慣れてきたし、生田と初めて会話をした日から毎日挨拶をするようになり、それがささやかながら日々の癒しになっている。あんなに朝が憂鬱でたまらなかったのに、浮き浮きとした目覚めに変わり始めていた。
そんなある日、忙しくてしばらく行けていなかった『カフェ・モンパルナス』へ寄り道してみることにした。それくらいの時間とお金の余裕はあると判断できたからだ。
ドアを開けて鳴るベルの音、そしてふわりと鼻腔を刺激するコーヒーの芳香に、ここでしか得られない安らぎを感じながら、店の中へと足を踏み入れた。
「あ……」と声がして、思わず視線を向ける。
するとそこには見覚えのある顔があった。
「え……あ、桐谷さん?」
桐谷は必要もないのに立ち上がり、焦ったようにお辞儀を返した。
なぜなのかわからず、戸惑っているところに、オーナーの優しげな声がした。
「柏木さん、久しぶりだね。パートが忙しいのかな?」
小首をかしげながら、オーナーの笑顔を見た安堵感から、テーブル席に腰を下ろした。空いていればいつも座る席である。
「パート始めたって言いましたっけ?」
「えっ? 聞いたよ、この間来たときに」
以前来たのはパートを始める前だったような気もするが、ならばオーナーは知るはずがないのだから、自分の記憶違いなのだろう。
早苗が考えていると、テーブルにコーヒーカップが置かれた。
「これはパートを頑張っている柏木さんへのほんのプレゼント」
「そんな、申し訳ないです」
いいのいいの、と声と身振りで言って、オーナーはカウンターの中へ戻っていった。
常連と言っても月に一度か二度来るだけで、しかも通い始めてまだ二年にも満たない。それなのにこんな気遣いをしてもらうとは思わず、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
カップを口元に運び、不必要な五感を閉じ、まずは香りを楽しんで、それから口をつけた。
この一口で、日頃のストレスも疲れも全て吹き飛ぶ。
ふうと、ため息を漏らしてふと目を開けると、目の前に桐谷の笑顔があった。
別のテーブル席に座っているが、対面する形になっていたようだ。
恥ずかしくなり、すぐに視線をそらした。
「あの、柏木さん」
おずおずとした声に、また目を向けると、首まで赤くした姿があった。
「はい……」
「パートは大変ですか?」
「はい」
なぜ話しかけてくるのだろう。スマホを取り違えて少し会話しただけなのに。
しかしガチガチに緊張しながら、話しかけようと努めている姿は、不愉快どころか、まるで自分を見ているようでむしろ親しみを感じた。
「……ですが、少しずつ慣れてきました」
だから相槌のような返答だけでなく言い添えた。
すると桐谷は「そうですか、それはよかった」と答えながら、逡巡した様子を見せ、やがて不安げな表情で聞いてきた。
「何かご病気に臥せっていらしたりとかは……」
そんなふうに見えたのだろうか。まったく意外である。
「全然……しばらく風邪もひいていません」
「それはよかった」
今度は心底ホッとしたように笑顔になった。
考えがすぐに表に出る様子はまるで純朴な少年のようだ。高級そうなスーツを身にまといながら、可愛らしいともいえる整った顔立ち。そのちぐはぐさもおかしくて、思わず吹き出した。
桐谷は「えっ?」と言って、慌てた様子で身だしなみを点検し始めた。ゴミでもつけているのかと探している感じだ。
「すみません、違うんです」
それがまたおかしくなり、申し訳ないと思いつつもクスクスとしてしまう。
桐谷はきょとんとして、また首すじまで赤くした。
さすがに失礼だと思い、口元を押さえながら話題を探す。
「あの、桐谷さんはこの店によく来られるんですか?」
「ええ」顔を赤くしたまま答えた。「まだ
「そんなに?」
「はい。職場は離れているのですが、毎日この時間帯になると、この近くに来る用件があるんです」
目を丸くしていると、「最初は」と桐谷は続けた。
「時間をつぶすために来ていたのですが、今や1日の楽しみになっています」
「わかります。ここへ来るとホッとしますよね」
「そうなんです」桐谷はパッと嬉しげな顔になる。「こんなに美味いコーヒーはなかなか味わえません」
「桐谷さん、わかっていらっしゃいますね」
「はい。落ち着いた雰囲気もいいですし、お気に入りの店です」
自分と通じるものを感じて、考えもなしに気安い口を効いてしまったが、桐谷はさらににこにことして答えてくれた。
それから10分ほど会話をすると、彼のスマホが鳴り、慌てた様子で挨拶をして店を出ていった。
最初こそ緊張していたものの、驚くほどリラックスして応対できた。
生田と挨拶を交わすようになり、同年代の異性に慣れてきたのだろうか。
いや、おそらく彼の人柄ゆえだろう。
表に現れる態度から、その内面がよく理解できた。
緊張、羞恥、不安。それらは、自分も他人を前にして感じるものばかりだった。
ほぼ初対面という間柄で、こんなふうに気安い印象を覚えたのは、初めてとも言えることだった。
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