第7話 パート

 パートを始めて半月が経った。覚悟はしていたものの、予想を上回る辛さにノイローゼになりかけていた。


 義実家へは月に一度は訪問して、その度に一泊しているので、義母とはわりに長い時間を過ごしてきたと思っていたのだが、毎日顔を合わせるというのは想像以上のストレスだった。

 義母はパートのボスたる自分の立場を利用して早苗の教育係となり、一日中側から離れず指図をし続けている。仕事先はお菓子製品の工場なので、覚えてしまえば機会的な作業をこなすだけなのだが、常にミスはないか見張られていて気を抜くことができず、業務を覚える以前にプレッシャーで参ってしまいそうだった。休憩を挟んで6時間の労働とは言え、帰る頃になるとフルマラソンでもしてきたかのように疲弊していた。


 休憩中も側にいて、義母から愚痴や噂話をのべつ幕なしに話しかけられる。最初こそ愛想笑いを浮かべ、相槌を打っていたものの、もはやそんな余裕もない。

 その日もいつものように、義母の弾丸トークをBGMに二人きりの休憩室で昼食をとっていた。すると社員が顔を出し、急な業務の変更があったと言って、義母だけが呼び出されて出ていった。

 トイレを除いて初めて一人になった瞬間かもしれないと思い、早苗は大きな溜息をついた。


 そのとき突然、後ろから吹き出す声が聞こえた。


 他に誰もいないと思っていたので驚いた。

 振り返り声の主を探すと、テーブルに肘をつき俯いていた男性が、悪戯が見つかった子のように顔を上げた。

「失礼しました。毎日大変ですね。お疲れ様です」

 驚く程端正な顔立ちの若い男性で、そんな眩しいものを見慣れていない早苗は、慌てて目を逸らした。

「あ、すみません。私一人だと思いこんでしまったもので」

「柏木さんですよね?」男性は優しげな声で聞いてきた。「あの柏木さんと同じ苗字ということは、親戚同士ですか?」

「はい。義母です。私は嫁で、柏木早苗と申します」

「あ~、なるほど。力関係に納得がいきました。僕は生田いくた雅紀まさきと申します。入社して2年目です」

 丁寧ながらも崩した物言いは、社員特有のパートを舐めているそれとは違い、とても好感を持てるものだった。

「まだ入社して半月ですが、よろしくお願いいたします」

 緊張のせいだろうと思いつつも、ドキマギしてしまう。それを悟られないようにと深く頭を下げた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 そう言った生田の表情を盗み見ると、目も合わせていなかったのに、にこやかな笑顔を向けてくれていた。

 整った顔立ちが、丁寧にセットされた濃い茶色の髪に映え、その爽やかな笑顔は、まるで清涼飲料水のコマーシャルに出ているアイドルのようだ。ほっそりとしながらも引き締まった体躯が、工員の制服からも伺い知れる。


 じろじろと観察をしてしまった自分に気がつき、顔を赤らめた。

 夫以外の男性とまともに会話をしたのは何年ぶりだろう。既婚者である身で、相手を異性として意識してしまうとは恥ずかしい。

 しかしそのとき、そう言えばと、スマホを取り違えた桐谷の顔がふと浮かび、彼も一応夫以外の男性だったことを思い出した。

「その力関係で、職場では教えを請う立場というのは相当気を使われるでしょう」

 声を聞き、再び生田に目を向けた。

 生田はゴミをまとめたあと立ち上がり、ゴミ箱に捨て、早苗の方へ歩み寄ってきた。

「柏木さん、生きるために仕事をしているんです。仕事のために生きているんじゃありません。親戚でも誰でも、自分以外は他人なんですから、ご自身を大切にしてください」

 真剣にしかし優しい声音で言い終えると、口元に微笑を浮かべ、休憩室から出ていった。


 早苗は反応を返すことができず、立ち去る姿をレーダーのように目で追い、ドアが閉まり切るまで見つめ続けていた。

 なぜ初対面の私にあんな言葉をかけてくれたのだろう。しかも気遣うような言葉を。

 不思議がりながらも、その言葉と生田の表情は、早苗の心に印象深く残った。



 義母が戻ってきて、弁当の残りを食べながら、業務の急変をいかに対処できたか、自分はどれほど信頼されているかをまくし立て始めた。しかし早苗は相槌を打ちながらも、義母の声は耳に入っていなかった。



 仕事を終えバスに乗り込み、自宅近くの停留所の一つ手前で降りた。スーパーへ寄るためだ。

 そのスーパーには三面を囲うようにして広めの駐車場がある。車を避けながら進んでいくと、入り口のすぐ前に見慣れた車種を見つけた。

 あっと思った早苗は反射的に別の車の影に隠れた。スーパーの出入り口から出てきた女性がその車のほうへ近づいていたからだ。

 そのまま目で追っていると、女性はその車に乗り込んだようだった。それが助手席側だったので、運転席に座る人物を確認しようとするが、早苗の位置からは見えない。

 車が動き出したとき、何気ない素振りで顔を上げてみると、予想通り、運転席には夫の姿があった。


 早苗の頭に最初に浮かんだのは「ああ、やっぱり」と納得できた安堵で、次に「私が至らないせいだ」という自責の念だった。

 義実家に泊まった夜にサンルーム越しに見えた影は、あの女性だったのかもしれない。

 浮気だと断定はできないが、最近の智也の変化を合わせて考えれば、限りなく黒に近いと言える。

 夜毎出かけていく智也に不信の念を感じながらも、ホッとして、浮き浮きと自分の時間を過ごし、浮気していてくれたほうがありがたいなどと、冗談ながらに考えていた。しかし実際に相手の女性を目にすると、イメージでしかなかったものが現実味を帯び、急に生々しく感じられてきて、浮気された妻という己の立場が憐れに思えた。


 しかしそのときふと、生田の言葉が思い浮かんだ。

『親戚でも誰でも、自分以外は他人なんですから、ご自身を大切にしてください』


 誰でもということは夫も他人なのだろうか。

 自分を大切にするとは、どういうことなのだろうか。

 夫のために、言われるがままに努力をしてきたが、正直のところストレスを感じている。いないほうが気が楽だなどと不遜な感情すら芽生えている。浮気されたショック以上に、安堵のほうが大きい。それはなぜだろう。


 何度も浮かぶその疑問に対する答えが出ぬままに、買い物を終えて帰宅し、夕食作りをした。軽く掃除をしてシャワーも浴びた。一番風呂は夫と決まっているが、湯船に入らないのなら先にシャワーを浴びてもいいだろう。そう考えたのは、これまでの早苗からは出てこない発想だった。

 しかし、慣れないことをしたためか落ち着かなくなり、シャワーを浴びたことがバレないようにと、急いでドライヤーをかけ、バスタオルを干した。智也の帰宅するはずの時間ぎりぎりだった。


 動揺を静めながら待機していたものの、智也は帰って来ず、いつの間にか一時間も過ぎていた。仕事帰りに飲み会になったときでも連絡はしてくれるのに、今のところなにもない。タブレットを見たい欲求に駆られたが、いつ帰宅するかわからないため自重するしかなく、そわそわとして落ち着かない。


 先ほどスーパーで見た光景から推測すれば、女性と一緒にいるのだろうと思うが、浮気だろうが何だろうが連絡くらいはして欲しい。お腹も減ったし、先に食べたい。どうせ女性と一緒に食事をしているんだろうから、私も食べてしまいたい。

 いつ帰るのかわからないのは不自由で、無為な時間が過ぎていくことに不満を感じ始めた。


 妻が夫に怒りを向けるなんてあり得ない。夫のために妻は存在しているのだから、夫が何をしていても妻が不満を持つ道理はない。そう考えて、気を鎮めようとしていても、空腹とタブレットへの渇望で苛々として、不満は募るばかりだった。



 しばらくして帰宅するドアの音が聞こえたため、ようやくかとため息をついて、急いで玄関へ行き夫を出迎えた。

「やー、まさかだったわ。退社するときに部長に捕まってさ。新しいプロジェクトのことで説明を受けていたら思ったよりも長くなっちまったみたいで。スマホは充電切れちまって連絡できないし、早苗に悪いと思って焦ってたんだ」


 まさかのことに不満は一気に吹き飛んだ。連絡をせずに帰りが遅くなることはこれまでにも何度かあったが、言い訳や謝罪をするなんて一度としてなかった。驚くどころではない。


 智也のスーツを片付けていると微かに香水の匂いがした。さもありなん。早苗の想像したストーリーを裏付けするような証拠が出てきて、思わぬ笑みがこみ上げた。

 そう、早苗は自責していたはずが、募らせた不満と怒りで、いつの間にか他人事のように感じ始めていた。

 というのも、生田の言葉が何度も頭の中で反響し、夫の不在で安堵する自分を責め立てることをやめたからだった。

 義務さえ怠らなければ感情までも責める必要はない。至らない点は直せばいいものの、浮気されたことで自責する必要はない。

 そう考えた。なぜなら、何度考えても本心ではホッとしていたからだった。


 夕食をテーブルに並べたが、いつもよりも4割ほど減らしてみた。仕事で遅くなった場合なら3割増しにするべきところだが、推測が正しければ食べ切れないだろうと考えたからだ。

 その気遣いは正解だったようで、智也は苦しそうな様子で無理やり詰め込んでいた。それを見て留飲が下がり、再び笑いが込み上げたが、表にはでないように慌てて噛み殺した。 

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