第6話 寝耳に水の戦慄
朝食を終えた8時頃、散歩から帰宅した義父のために朝食を用意しているときに智也が帰宅した。
ご機嫌でさっぱりとした表情は、シャワーでも浴びてきたかのように晴れ晴れとしている。車内で酔いを冷ましてきたようには見えない。
着替えを済ませた智也は、朝食を食べている義父の向かい側に座った。にこにことして、妹に冗談を言ったり、空を抱っこしてあやしたりもし始めた。
早苗が智也の前に朝食を置き始めると、「コンビニで買って食ったから」と言って、コーヒーにだけ口をつけた。
「あらあら、二日酔いなの?」
心配げな義母の声に、大丈夫だよと手であしらうようにしてから、「そういえば」と気がついた声を上げた。
「母さんの職場ってパートとか募集してる?」
「万年人手不足よ」義母はコーヒーカップを手に、息子の隣に腰を下ろした。「なに? 誰かいい人でもいる? 募集で入ってくる子なんて使えなくて、すぐに辞めちゃうし困ってるの」
智也は、いやいやと言って続ける。
「早苗にパートでもしてもらおうと思ってさ。母さんのところはどうかなって。母さんが一緒なら早苗も気が楽だろうし、母さんのほうも早苗なら気を使わず厳しくできるだろ?」
義母は驚いたように「あら」と言った。
「早苗さんは主婦業でお忙しいんじゃないの? 私のように働きながら立派に主婦業もこなせる体力なんてあるかしら?」
「二人家族の家事なんて大したことないって。それなのに大変だとか言って働いてくれないんだ。母さんのようになってもらいたいのに」
「なんて嫁かしら! やることやらずにだらけているなんて! 養ってくれてる夫の身になって欲しいわね!」
憤慨した様子の義母に、智也は「だからね」と身を乗り出した。
「母さんが段取りしてくれれば、怠け者の早苗でもさすがにやる気になってくれるだろうって思ってさ」
「確かに私のパート先なら直接鍛えてあげられるし、根性も直してあげられるわ」
智也は、そうそうと答えて、言うべきことは言ったとばかりにスマホをいじり始めた。
早苗は寝耳に水だった。
結婚後も共働きするつもりだった早苗を叱責して、専業主婦にさせたのは智也のほうだった。自宅のことを完璧にして欲しい、やりくりするなら稼ぐよりも節約しろ、と言って許してもらえなかった。
働かせてもらえるのは歓迎すべきことだけど、義母の下でというのは歓迎できない。昼は義母、夜は智也と一日中休まる時がない。同居と比較しても劣らないほどの展開だ。
「お給料をもらう仕事なんだから、片手間に考えちゃいけません。社会経験がないから最初は戸惑うかもしれないけど、私がちゃんと教えてあげますからね。一生懸命やるのよ。でも、主婦業もおろそかにしちゃ駄目よ」
「パートだから4時くらいには帰れるだろう? 家事もちゃんとするんだぞ」
早苗が口を挟む隙もなく、否、口を挟む必要もなく、話は進んだ。
義母が言えば採用は間違いないから、月曜に話をすれば、火曜には面接に来れる。制服は支給されるから、履歴書と一緒に、スニーカーなどの必要なものを月曜のうちに用意しておくようにと言われた。
帰宅することになっても智也は上機嫌で、帰りにスーパーへ寄ってくれたばかりか、荷物まで持ってくれた。しかもスーパーの横にあった靴屋で、仕事用にとスニーカーを買ってくれまでした。自分の革靴も新調していたので、そのついでだろうとはいえ、早苗に衣類を買い与えるのは一年ぶりのことだった。
帰宅してからも機嫌は変わらず、テレビを見ながら珍しく話しかけてきて、一緒に風呂に入ろうとまで言ってきた。
早苗は家事が進んでいない焦りと、丸2日も見ていないタブレットが気がかりで、歓迎できないばかりか、パートへの不安や、昨夜の出来事と智也の機嫌の良さが繋がっているような不信感もあり、まったく喜べなかった。
智也は反応の悪さにもお構い無しで、自分の欲望を満たすだけの行為を終え、スッキリとした表情で風呂場から出て行った。
早苗の行動は全て智也に支配されている。休日の過ごし方も、パート先の選択すらも、意見など求められない。
このように扱れ続けているうちに、智也が機嫌よくしていても嬉しくなれないし、快感を得る行為も楽しめなくなった。
喜怒哀楽などの感情表現さえ、智也を伺って表に出しているにすぎないのだから。
細々とした部分までコントロールされていると、自分の意志や感情というものがわからなくなる。
まるで智也のために働いているロボットのようで、愛しているから側にいるという基本的な感情すら忘れてしまう。
風呂場を出て、急いで家事の残りを片付けていると、智也は「ちょっとコンビニに行ってくる」とご機嫌な様子で出て行った。
部屋着ではなくきちんとした外出着で、例の高い腕時計もつけ、ヘアセットもしていた。ちょっとそこまで、という格好ではない。
「疲れたなら、寝ててもいいから」という去り際の言葉も、気遣いを見せたというよりも、違和を感じさせるものだった。
智也が出ていった後、窓からアパートの駐車場を見ると、予想通り車で出ていったようだった。コンビニは駐車場もあるが、近いため歩いた方が早い。
昨夜の光景を思い出し、異様な機嫌の良さとも繋げて考えてしまう。
しかし正直なところ、もし女性に会いに行ったのだとしたら、長い時間帰ってこないことが予想され、そうなると嫉妬するよりも解放された喜びの方が大きい。
妻としては枕を濡らすべきだろうけど、夜に思わぬ自由時間ができたことを考えると、涙など流している場合ではない。
素早く家事を終わらせタブレットを用意し、冷えたビールとつまみ菓子も携えて、浮き浮きとリビングのソファに腰を落ち着けた。
ビールの缶を開け、2口3口とゴクゴクと飲むと、アルコールが脳内に浸透し、鬱々とした気持ちが、雨上がりの青空のような晴れやかな気持ちに変わっていった。
こんな爽快な気持ちになれるなら、浮気くらいしてくれてもいい。
久しぶりに触れ合った直後だというのに、いやむしろその行為が驚くほど不愉快だったこともあってか、そばにいずに済んでホッとしていた。
タブレットを操作してメール画面を開くと、EMA522から2通も届いていた。
嬉しくなり、思わず顔がほころぶ。
EMA522[洋服なんて溢れるほど買ったって着るのは一度なんだし、何年も大事に着てるなんてエコでいいじゃん。SDGsだよ]
EMA522[休日は旦那さんへのサービスデーなのかな? 忙しいなら返事は無理しないでね。こっちはゆるゆるとネット巡回して楽しんでるから]
スマホをリセットされてからというもの、夫以外の誰かと日を跨いでのメールのやりとりなど久しくないことだった。タブレットを開いたときに、メールの通知を見て期待に胸を膨らませ、返事をどうしようかと考える、この懐かしい喜びは、智也の不在や酒の効果に匹敵するほど、沈んだ気持ちを晴れ晴れとさせるものだった。
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