第5話 重なる影

 大人五人分の夕食と離乳食を作り終え、テーブルに並べているときに、智也がスマホを見ながら「まじかー」と残念そうな声をあげた。

「智くん、どうしたの?」

 義母の声に、心底心苦しいという表情を智也は向けた。

「同級生の沢田が帰ってきてるみたいで、仲間で集まって飲むことになったらしい。俺に来てもらわないと始まらないんだって」

「あら沢田くん? 北海道に行ってたっていう」

「そう。行きたくはないんだけど……」

 何を言ってるの、と言葉をかぶせて義母は続けた。

「それは行かなくちゃ。友達は大事よ。飲み会なら早苗さんが送迎すればいいんだし」

「いや、俺の車が一番でかいから、みんなを拾っていかなきゃならない。酔いを冷ましてから帰るから、早苗だけ泊まらせて欲しいんだけど」

「あらあら、なんて優しい子なのかしら。早苗さんのことは気にしないで。ちゃんと面倒見ておくから」

 義母は残念そうな表情を浮かべながらも、息子の優しさに誇らしさを感じて、感極まる様子で答えた。

「ありがとう、母さん」

 そう言って、妻には何も言わずに着替えに行った。

 

 小綺麗な格好に着替えて出てきた智也は、髪も普段よりも念入りにセットされていて、無精髭もサッパリと剃られている。就職祝いで両親からプレゼントされたと言って、傷がつくといけないからと仕舞いこんでいた腕時計も付けている。

「じゃ、早苗のことはよろしく」と、ほのかに香水の香りを漂わせ、俊敏な動きで玄関から出ていった。


 義実家にいる場合は、智也がいようがいまいが、早苗の状況に変化はない。あるとすれば料理が余ってしまうことくらいだった。

 夕食の後片付けをしていると、空が甘えてきた。義妹はスマホに夢中で、義母は風呂へ行っているようだ。母親に甘えたい盛りだろうに、あまり義妹に近づかない。早苗が来ると、側から離れなくなる。

 居心地の悪い義実家の中で、空だけが唯一心癒やされる存在だった。

 義実家で家事や世話をいくらしようとも、当然のことだと受け取られるだけで、感謝はおろか笑顔の一つも返ってきたためしはないが、空だけはにっこりと微笑んでくれ、世話を焼くと満足そうに甘えてくれる。自分の行動によって好意的な反応を返してくれるのは、空だけだった。


  義家族が全員風呂に入った後、早苗は空と入浴した。空の着替えを済ませリビングへ連れて行ったあと、洗濯を回しながら風呂場を掃除をする。そして空が寝ぐずりしたら部屋へ連れていき、今度は寝かしつけだ。朝早くからこまごまと動きっぱなしだった早苗は、そのままうとうとと、空と一緒に寝落ちしてしまった。


 空のぐずぐずとした泣き声で、ハッと目を覚ます。抱っこをして寝かしつけ直してやったあと、時計を見ると二時を回っていた。放置していた洗濯物のことを思い出し、慌てて部屋を出た。

 義家族は寝静まっているため、音を立てないように洗濯機のところへ行き、中身をカゴに取り出して、暗闇の中リビングへと向かう。リビングの駐車場に面した部分にサンルームがあるからだ。見咎められるのを恐れて、常夜灯だけをつけて洗濯物を干した。


 干し終えてリビングを出ようとしたときに、サンルームから赤い光が放射された。エンジンの音がするし、赤い光はブレーキランプに見える。駐車場に車が入ってきたのだろうか。しかしエンジンが切られる気配はないままに、玄関ドアの開く音がした。

 リビングの入口に立っていた早苗はドキリとし、急いでソファの影にしゃがみ込んだ。

 廊下を踏みしめる音が聞こえ、洗面所の方へ消えていく。声をひそめて耳をすませていると、一分ほど経って、今度は玄関へ向かう音がして、再びドアが閉まる音が聞こえた。


 早苗のいる場所からはサンルームがよく見える。エンジンがついたままの車に、車内灯のオレンジ色の光が見えた。そのとき、それまでは真っ暗で見えていなかった車内が浮かび上がり、人影がハッキリと見えた。

 運転席にいるのは智也だろう。助手席にも人影がある。飲み会だったのだから友人なのだろうと見ていると、なにやらさらさらとしたロングヘアーが動き、車内灯が消えていく刹那、二つの影は互いに近づき、重なったように見えた。


 リビングルームに赤い光が再び放射され、消えたあとにエンジン音は遠ざかっていった。

 早苗は射すくめられたようにその場から動けず、激しく鳴っていた鼓動もしばらく収まらなかった。


 動揺を静めるために、キッチンで水を飲み、のろのろと部屋へ戻って布団の上で横になった。

 しかし車内で人影が重なった情景が頭の中で何度も繰り返され、それを振り払うことができず、寝付くことができなかった。


 飲み会なのだから男性だけだと思い込んでいた。ロングヘアーの男性かもしれないが、顎のラインや線の細さから女性のような気がした。それに影が重なるような行動をする相手が友人だとは考えにくい。

 何のために一度戻って来たのだろうか。お酒は飲まなかったのだろうか。

 答えの出ない問いを何度も繰り返して、眠れなくなったのだった。


 6時頃起き上がり、着替を済ませたあとキッチンへ降りていき、朝食の支度を始めた。義父が起きてきたので挨拶をして、コーヒーを出す。義父は無言のままコーヒーに口をつけ、新聞を読んだ後、目も合わせずに散歩へ出かけていった。

 朝食が出来た頃、義母と義妹が現れた。義妹は当然のように息子を渡してきたので、受け取った早苗は、空のおむつを替え、着替えさせ、用意していた乳児用の朝食を食べさせ始めた。


「ひなちゃんのお影で事前に育児の経験をさせてもらえてありがたいわね。こんなに親切な義妹はなかなかいないわ」

「お母さんみたいな優しい義母もいないわよ。義実家のしきたりを学ばせてくれるなんて、頭を下げてもやらせてもらえるもんじゃないわ」

「同居はいつからがいいかしらね。3年目となれば新婚とも言えないでしょう。この家のほうが智くんの職場に近いし、私達といた方が妊娠したときに安心だろうし」

「不妊についても相談に乗ってもらえるし、経験者からのアドバイスももらえるわ」

「そうね。基礎体温も毎日報告してもらうようにして」

「二年も経ってできないなんて、手間のかかる嫁ね」

「でも智くんのためだもの。母親がやってあげれることはやってあげないと」

「嫁の監督もしなきゃならないのに」

「ひなちゃんがちょくちょく来て一緒に監督してくれてるから助かってるわ」


 空の食事介助をしながら耳に入る会話を聞いて、早苗はゾッとした。

 同居なんてしたら一時も休まらない。それに、基礎体温と生理周期を聞いてどうするというのだ。

 手が震え、離乳食が落ちそうになるのを懸命に堪えていた。

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