終話

 シンシアは、アルベールとの約束を果たした。


 ヘンドリックとの婚約を結ぶ際に、シンシアがアルベールに贈ると言ったことは、二人がそれぞれ婚姻をして十年の時を経てから果たされた。


 ヘンドリックは領地を持たない宮廷貴族に生まれて、宰相である父の下で補佐として務めていたが、彼は最終的には軍部を司ることとなった。


 ヘンドリックは政務ばかりでなく兵法にも明るく、軍部の戦略や組織運営に携わることに才覚を発揮した。頭脳派と思われた彼は実は武闘派の資質があり、剣技にも優れていた。


 残念ながら、強度の方向音痴が災いして現場向きではなかったが、参謀としては極めて有能だった。

 シンシアは、そんなヘンドリックが密かに抱く軍部統括への願いを早いうちから気づいており、妻となってからは、彼にはその方面への転換を勧めていた。


 結果から言うなら、宰相のポストはアルベールに回ってきた。ヘンドリックは軍部の長を望み、既に立太子していたエドワードもまた、異母兄であるアルベールに自身の補佐として宰相職に就くことを願った。

 何より長く王太子の執務を代行してきたアルベールには、実践で積んだ経験があった。



「シンシア様は、貴方に宰相のポストを空けておくことを『贈り物』と言ったのね」

「私は君と静かに領地経営に勤しんでいたかったけどね」


 宰相に任命されて参内する夫を見送る朝に、キャスリンは忘れかけた十年も前のことを思い出していた。


 あの日も今日のように雨が降っていて、学園の廊下も階段も濡れていた。

 それでキャスリンは、階段の上段からうっかり足を滑らせ踏み外して、そのまま転がり転落してしまった。


 思えばあれが運命の分かれ道だったと思う。

 あの日を境に、キャスリンもアルベールも、ヘンドリックもシンシアも、歩む未来の道筋を大きく変えていくこととなる。


 窓から雨空を眺めてアルベールが言う。


「空が私のために泣いてるよ。折角、君とのんびり暮らせると思っていたのに、結局こうしてあの城に縛り付けられてしまった」


「なにを仰っているの。泳ぐように華麗に立ち回っているじゃない」


 雨空を涙に喩えた夫に、キャスリンは笑った。


 エドワードが先ごろ留学先の帝国から帰国した。大国の知識を学び見聞を広め、次代を担う王として研鑚を積む為に、最終学年の一年間を帝国の学園で学んでいた。

 それはアルベールが勧めたことで、彼こそ本心では、自由に学びを得たいと願っていたのだろう。


 キャスリンは、学園を卒業した年にアルベールに嫁いだ。そんな身分になるなんて考えもしないことだったのに、数年を王子妃として城に住まった。


 その間、王妃とも側妃とも短くはない時を過ごした。置かれた立場で揺らがない彼女たちはキャスリンに多くを教えて、今では多少のこともしたたかさで切り抜けるくらいにはなったと思う。


 エドワードが立太子した年に、アルベールは公爵位を賜り臣下に降りて、側妃の生家である侯爵家からそれほど広くはない領地を譲られ、同時に王都郊外の王領を賜った。

 王城のすぐ手前、東側に位置する邸宅に住まいを移して、キャスリンは公爵夫人として生きている。

 

 城の西側にはヘンドリックの生家が見えており、運命の道筋が違ったなら今頃はあそこに住んでいたのかと不思議に思う。


 東のアルベール、西のヘンドリック。

 王家に侍る両翼のように、政と武を担う二人の妻であるキャスリンとシンシアは、今ではまあまあ近い友人関係にある。

 互いに一男一女に恵まれたことも、二家の関係が次代に続くことが予期されて、なかなか因果なものだと思う。


 キャスリンは、雨の日が嫌いではない。

 今も時折、雨が降る日にあの秋の日を思い出す。雨に湿った学園の空気も、アルベールに借りた本を抱えて階段を滑り落ちたことも、雨音と共に思い出す。


 その後のことも、鮮やかな記憶として憶えていた。

 忘却を装い逃げた領地での暮らし。

 赤や黄色に染まる木々。

 森を分け入った先にあった湖の燦めく水面に、吹き渡る風に舞った長い髪。


 傷心の心と身体で向かった教会にはアルベールがいて、漆黒のキャソックは思いのほか彼に似合っていた。


 偽りの忘却に逃げ込んだキャスリンを、アルベールは静かに側にいて寄り添った。そんな彼が、襟に「A」の刺繍がされたキャソックを、終生大切に持ち続けたことをキャスリンは知らない。


 人生の僅かな期間を聖職者に扮して生きたことを、アルベールは幼い子供たちに、


「父様は昔、ほんの少しの間、司祭の見習いをしたことがあるんだよ」

と、自慢気に話しているのを聞いたことがある。


「そこで母様を奥さんにしたいとお祈りしたんだ」

「おかあさまを?」

「そうだよ、とても可愛かったんだよ」

「おかあさまが?」

「母様は、小さいときから可愛かったんだ。だから神様にお願いしたんだよ」

「なんておねがいしたの?」

「母様を父様だけに下さいって、誰にもやらないで下さいと女神様にお願いしたんだ」


 幼子になんてことを聞かせるんだと、キャスリンは赤面した。だから、まだ意味を理解し切れない妹の横で、息子が真顔で父の言葉に聞き入っていたことには気がつかなかった。


 彼が母の生家の領地に赴き、あの森に分け入り湖に辿り着くのは、もう数年あとのこととなる。

 そこで彼が、湖の女神に何を祈って願うのかも、この時のキャスリンは知り得ないことだった。


「行ってらっしゃいませ、旦那様」


 長く王子として生きたアルベールは、キャスリンに「旦那様」と呼ばれることを好む。雨空に参内を億劫に思う夫にそう言えば、彼は瞳を細めてキャスリンの頬にキスをした。


 小さな娘が「わたしも」と強請って、アルベールはそんな娘の前にひざまずいて両頬にキスをした。息子は父親から何を学んでいるのか、その姿をじっと見つめている。


 雨の日のいつもの風景だった。

 キャスリンは雨音を聞きながら、泣きたくなるような幸福を感じていた。










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キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却 雨之宵闇 @haruyoi6

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