第26話
「また叱られてしまったね」
お茶を淹れて壁際に下がったアネットをチラリと見てから、アルベールは小声で囁いた。
両親も兄もまだ戻っておらず、貴人の訪いに邸内は少しばかり騒然となった。
手早くドレスに着替えを済むせて、貴賓室で待つアルベールと向かい合って、キャスリンは改めて彼の青い瞳を見つめた。
「キャスリンに頼みがあるんだ」
「貴方に何かを頼まれて、私が断ったことがある?」
「ああ、色々断られたかな」
「そこは、無かったと言うところです」
軽口を交わしながらも本心を明かさないアルベールに、キャスリンは彼が慎重になっていることがわかっていた。
「君にはきっと、面倒なことだろうな」
部屋には、アネットのほかには執事もアルベールの護衛も控えており、これから彼が語るだろうことに緊張を抱いている。
「キャスリン⋯⋯」
「お受け致します」
「え!?」
アルベールの慌てる顔を見るのは、いつぶりのことだろう。
「わかって言ってる?」
「はい」
頼みがあると言ったのはアルベールのほうなのに、それに応じたキャスリンにアルベールははっきりと戸惑う顔をした。
「君がヘンドリックを慕っていたのは、」
「もう、終わったことです」
アルベールは、言いかけた言葉をそのままにしてキャスリンを見た。
「貴方がシンシア様と婚約をなさった晩、私は眠れなかった」
「⋯⋯」
「胸が痛んで、けれども貴方は尊い御身で、私の気持ちなんて口にすることはできなかった」
アルベールが瞳を揺らす。
「貴方がシンシア様を大切になさっていると思っていたから、それで貴方が幸福なら諦められると思ったわ」
「もう諦めちゃった?」
アルベールが眉を下げた。キャスリンは彼のこの表情に弱い。
「一度は諦めた筈なのに、今頃、貴方がどこかのご令嬢とダンスを踊っていると思ったら、とても嫌な気持ちになったわ」
「君と踊るって言ったよね。今夜も誰とも踊ってなんかいないよ」
アルベールはそう言って、次の言葉を選ぶように視線を伏せた。だが、直ぐにキャスリンを見つめて続きを言う。
「一曲目も二曲目も、ダンスは君と踊りたい」
アルベールの気持ちがわかって、キャスリンは確かめた。
「貴方は本当に私でよろしいの?」
「うん。君がいい」
「陛下は?宰相様は?訳があってシンシア様が選ばれたのに?」
「シンシアは、もう婚約者ではないよ。私は許されるなら初めから君を願っていた」
アルベールは、容易く本心を明かさない。エドワードが生まれてからは特に、自身の感情を明かすことには慎重になった。
そのアルベールが、心の内を明かしている。キャスリンこそ、正直にならなければと思った。
「アルベール様。私、さっき気づいたの。貴方のことが好きだった」
勇気を出して告白したのに、アルベールは複雑そうな顔をした。
「さっき気づいた?それって、今まで気がつかなかったってこと?」
気の所為か、アルベールの背後に控える護衛まで表情を曇らせたように見えた。
「ヘンドリックのことは、きっぱり諦めてもらうよ」
「えーと、ヘンドリック様をお慕いしたのは本当よ。貴方のことを友人と思い切って、それで諦めたのだもの。ヘンドリック様をお慕いして、その気持ちに救われていたの」
「君を助けるのも救うのも、これからは私でありたいな」
「もう何度も助けて頂いたわ。領地に逃げたときも、ヘンドリック様に最後のお別れをしたときにも」
キャスリンは、胸の奥から湧いてくる温かな気持ちを言葉にする。
「私こそ、貴方の助けになりたいし頼りになりたい。ダンスは貴方と二曲踊って、貴方とずっと一緒にいたい」
アルベールは、無言のままキャスリンを見つめた。
「正直申し上げますと、私、領地経営は苦手ですわ。だって領地無しのお家に嫁ぐ筈だったのですもの。だから、そこはアルベール様を頼りに致しますわ」
アルベールは、そこで小さく息を吐いた。
それから、「承知した」と言って漸く笑みを見せた。
アルベールとの婚約は、その年のうちに結ばれた。
傍からみたなら、シンシアとヘンドリックの婚約で行き場をなくした二人が縁を結んだようなものだった。
だが、第一王子の二度目の婚約は、年の瀬の慌ただしい時期に発表されながら、そのまま新年になっても慶事として国内に賑わいをもたらした。
王家の当初の思惑からは外れて、結果的にキャスリンの生家は改めてアルベールを支持する立場を深めて、彼が興す公爵家とは協調する関係となった。
婚礼の日取りは、奇しくもシンシアとの挙式を予定していた日であった。ヘンドリックとシンシアもまた、キャスリンとの婚姻式であった日がそのまま彼らの婚礼の日となった。
側妃が「初めからこうしていればよかったものを」と、密かに母に愚痴めいたことを言ったのは内緒である。
ヘンドリックとの挙式に合わせて仕立てられていた婚礼衣装を、母はすぐさま手直しした。既に相応の手を加えた衣装であったのに、更にそこに真珠の粒を散りばめるように縫いつけさせた。
このドレス一枚で、キャスリンの個人資産として十分な価値となるだろう。
「キャスリン様」
年が明けた学園で、キャスリンは廊下で呼び止められて振り返った。
「ご婚約、おめでとうございます」
ここ数日はこんなふうに、あちこちで祝いの言葉を受けていた。
「ありがとうございます、シンシア様」
鮮やかなエメラルドの瞳が細められて、それは彼女の心からの寿ぎの言葉だと思えた。
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