第13話
「お食事を、ちゃんと召し上がっていらっしゃるの?」
久しぶりに会った婚約者は、頬がほっそりして見えた。
ノックの後に扉を開けたヘンドリックに、キャスリンはあまりのことに唖然となっていた。
「オブザーバーは必要か?ヘンドリック」
「出来れば、二人だけに」
そんなの許されることではない。
キャスリンとヘンドリックは、間もなく婚約を解かれるだろう間柄で、使用人の一人もいない部屋に二人きりでいるわけにはいかない。
「扉を、扉を開いておいて下さい」
「当然だよ、キャスリン。廊下で待っているよ」
「アルベール様にお付き合いさせる訳にはいきません。護衛ならイザークがおりますし、そこら辺の草むらには貴方の護衛もいるのでしょう?」
そう言えばアルベールは、わかりやすく眉を
その様子をヘンドリックが見ていることも、キャスリンを戸惑わせた。
二人きりで向かい合うのはいつぶりのことだろう。
頬がそげて見えたヘンドリックに、先に声を掛けたのはキャスリンだった。
「お食事を、ちゃんと召し上がっていらっしゃるの?」
「うん。君は身体はもう?」
自身の痩せたことには短く答えて、ヘンドリックはキャスリンの体調を尋ねた。
「もうどこも痛みません。痣もすっかり消えました」
「痣が⋯⋯」
ヘンドリックは青痣だらけだったキャスリンの姿を見ていないのに、痛々しいというような顔をした。
「体調なら、随分癒えております。ご心配には及びませんわ」
「記憶が戻ったと聞いた」
「ええ」
最初から憶えているとは言えないから、ここでもキャスリンは偽りを通す。その後ろめたさが、少しばかりキャスリンを控えめにさせていた。
それをヘンドリックは、不調を押して無理をしていると思ったのか、気まずげに目を伏せた。そんなヘンドリックを見るのは、初めてのことだった。
「ここへはいつ?」
「一昨日の晩に。どうしても君に会いたいと願った」
「願った?」
「私の両親と、君のご両親に」
「え?父と母に?」
「フランシス殿にも」
「ええ?兄にも?」
キャスリンは、てっきりヘンドリックはアルベールに呼び寄せられたのだと思っていたから、それが彼の意思であったことに驚いてしまった。
「殿下に呼ばれたのではなくて?」
「そうではない。許しを願った」
「まあ」
ヘンドリックは冷静沈着な気質であるから、そんな熱意のある行動を起こすタイプとは思っていなかった。
「馬鹿なことをしたと思っている」
「ヘンドリック様?」
「君を傷つけるなんて、そんなことは考えていなかった」
「⋯⋯」
アネットが淹れてくれたお茶には手をつけず、ヘンドリックは両手を固く組んで、同じくらい口元を固く引き締めた。
「すまなかった」
ヘンドリックに頭を下げられたのは初めてだった。頭を上げた彼は、まるで、彼こそどこか怪我をして痛むというような顔をした。
「何があったの?」
こんな短い言葉なのに、キャスリンはその一言が言えぬまま、ずっと心に
潔くさっさと聞いてしまえば良かったのだ。そう思えるのは、今だからなのだろうか。
「最初に言っておきたい。彼女とはなにもない」
「詳しく聞いても?」
思った通りの言葉を聞いて、キャスリンは自分でも意外なほど心が静まっているのを不思議に思った。
二人の噂が出始めて、キャスリンはただ流れる風景を観るように傍観しているも同然だった。
それをもどかしく思っていた筈なのに、あの事故のあと領地に移って、そこで心が切り離されてしまったように思う。
「仰りたくなければ無理にとは」
「いや、そうではない」
キャスリンは今まで
「シンシア嬢が不安を抱えていたことを、それは君も感じていたのではないか?」
「⋯⋯ええ」
ヘンドリックの言葉の意味することを、キャスリンは察していた。
「彼女は殿下の妃となる。いずれは公務家を賜るとしても、王族の家系に違いない」
「そうですわね」
「私は、彼女の言葉を聞き流すこともできたのに、そうしなかった」
「シンシア様の言葉?」
ヘンドリックは、キャスリンを真っ直ぐ見つめていた。互いに王家の血を引く為に、ヘンドリックとキャスリンは同じ青い瞳を持つ。
それはアルベールも同じで、キャスリンは血が遠い割には彼らとそこだけはよく似ていた。
青い瞳が同じ青を見つめて、どちらの瞳の中にも互いの姿が映っている。ずっと前にもこんなふうに、彼の瞳に映る自分を見たことがあった。それは今よりもっと、二人の間の距離は近かった。
あの胸の高鳴り、心を満たす温かな感情。
そんなに前のことではないのに、とても遠い記憶に思えた。
「シンシア嬢から、殿下と婚約してから悩みを抱えているのだと打ち明けられて、耳を貸さない訳にはいかなかった」
「ええ。貴方のお立場ならきっとそうなのでしょう」
「彼女は自分の立場を理解している。王族との婚姻に覚悟も持っていた」
キャスリンは、ヘンドリックの語る言葉を一つも聞き漏らさないつもりで、耳を傾けた。
「最初から彼女が不安になっていたという言葉は、私も理解できたから」
「最初から?」
「彼女でなくても、同じことを考えたんだと思うよ」
「⋯⋯」
「殿下はあんな優しげな顔をして、表情ほどは容易く心を開かない。私か君よりほかは」
キャスリンは、その先は聞かないほうがよいように思えた。アルベールには、誰からも否定されるようなことはない。
「彼女は、殿下の真意を掴みかねていた。この三年あまり苦しかったのだと言われて、私にも責任の一端があるように思えた」
「ヘンドリック様に責任なんて、」
「君は私の婚約者だったから」
シンシアの不安の原因に思い当って、キャスリンはそのことを確かめた。
「ヘンドリック様。貴方が仰りたいのは、殿下と私の幼い頃からの交流がシンシア様を不安にさせていたと、そういうことなの?」
ヘンドリックは無言のまま頷いた。
「私たちは確かに友人ではあるけれど、殿下はシンシア様を大切になさっていらしたわ。私だって貴方を⋯⋯」
ヘンドリックに恋していた。眩しい彼にキャスリンの心は初めての恋心を抱いていた。
「貴方を好きだったわ」
キャスリンは、微笑んでみせたつもりなのに、なぜかヘンドリックは哀しいような顔をした。
「はは、やっと聞けたな」
「え?」
「君の本心がわからなかった。だからシンシア嬢の気持ちは理解できたし、便乗もした」
キャスリンの知らないヘンドリックが目の前にいるような、そんな気持ちになる。
「便乗?」
「シンシア嬢の言葉に乗っかった」
「貴方も、殿下と私のことで不安を抱いていたというの?」
「当たり前だろう?殿下の大切な存在を婚約者に願ったのだから」
「え?」
キャスリンは二人の婚約が、家柄が釣り合っての政略的なものだと思っていた。多分それは間違いではないだろう。
「君を願ったのは私だよ」
「ええ?」
そんな初耳なことを今になって言うなんて、後出しにも程がある。
キャスリンは、この気持ちをどうしようと思ううちに堪らなくなってしまって、膝に乗せていた両手をぎゅっと握り締めた。
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