第8話
「私がヘンドリック様と婚約したのは、他に充てがうに相応な高位貴族の娘がいなかったからです」
「そうとは言い切れないでしょう」
これまで黙して耳を傾けていた助祭は、そこで否定するようなことを言った。
「そうでしょうか。アルベール殿下のお生まれになった年は、確かに貴族の子女が多く生まれました。どの家も、殿下のご生誕に合わせて子を儲けましたから。ただ、不思議と男児が多かった。それは王国の未来を考えれば心強いことですわ」
ヘンドリックも、アルベールに合わせて生まれた子女の一人であり、キャスリンに至っては、側妃の為と言っても過言ではないところがあった。
「男児が多い国の未来は明るい。
「キャスリン様⋯⋯」
キャスリンの自身を卑下するような言い振りに、助祭は珍しく眉を
そんな彼の表情に、キャスリンは少し笑ってしまった。
「私はヘンドリック様と縁づいて光栄だと思いました。聡明で勤勉で、あれほど美しいお方です。不足も不服もあろう筈がありません。それが真の恋心だったかはわからずとも、噂に翻弄されるくらいには心が塞がったのは確かです」
助祭はそんなキャスリンの胸中を慮ってか、まるで我が身のことのように感じたのだろう。どこか苦しげな表情を浮かべた。
「助祭様、私は恋に恋していたのでしょうか」
「貴女はきっと、ちゃんと婚約者様を好いていらしたのではないですか?だから今、身も心も傷を負ってここにいらっしゃる」
助祭は優しい。弱音を吐くキャスリンを否定することなく、ひたすら耳を傾けてくれる。
悩ましい物事に心を覆われる経験は、時に哀しい感情を伴うが、キャスリンは、それで誰かに解決をしてほしいとは思わなかった。
ただ、こんなふうにキャスリンの心情に近づいて頷いてもらえることで、一人傷ついた時間が報われるような気持ちになった。
「私たちの婚約は政略です。王国の為に、互いの生家の為に、恵まれた生まれへの恩を返し責任を果たさねばなりません」
「貴女のお気持ちは、私にも理解できる」
「それはきっと、ヘンドリック様も百も承知のことだったでしょう。寧ろ、私よりも余程、国の行く末をお考えになられて育った筈ですわ。お母様は王妹でお父様は宰相ですもの」
では、どうして今になって、こんなことになったのだろう。
結局は、人の心とはままならない。骨の髄まで貴族であっても、どうにもできない感情を優先したいと思わせる、それが恋心なのだろう。
「ヘンドリック様が初めから、シンシア様と縁を結ぶことが叶っていたなら、こんな混乱も起こらなかったのでしょうか」
「キャスリン様、考え過ぎてはいけない」
「そうでしょうか」
口の中がカラカラに渇いて、キャスリンは冷めてしまったお茶をひと口飲んだ。甘さは渋さに変わっていたが、喉の渇きは幾分マシになった。
「私たちの世代には、高位貴族の間に女児が少なかった。私もシンシア様もその数少ない令嬢で、互いに侯爵家の娘です」
それはまるで、シンシアとキャスリンを並べるような言葉だった。
ブルック侯爵家のシンシアとスペンサー侯爵家のキャスリン。家はどちらも、
シンシアとキャスリンでなにが違うのか、それは比べるほどのことではなかった。ヘンドリックが誰に心を寄せたのか、それだけのことなのである。
「不敬とお咎めにならないで下さいね。不敬覚悟で申しますから」
助祭に先に断りを入れて、キャスリンは彼の青い瞳を見つめた。
「二人の噂が立ってから、誰もが慎重になりました。それも仕方がなかったのです。シンシア様はアルベール殿下の婚約者なのですもの」
キャスリンは、語りながら胸の奥が切なく締めつけられた。それは、自分の心の痛みなのかヘンドリックの心情を思ってか、それともシンシアなのかアルベールなのか、誰を思って胸が痛むのか、すっかりわからなくなってしまった。
「ヘンドリック様には、彼女との縁は望むことすら叶わなかったでしょう。王族の婚約者です。シンシア様は、この世界にただお一人ですわ。今になっても諦められないものなら、ヘンドリック様は、もっと早くに彼女を願うべきだった。アルベール殿下はきっと、彼がシンシア様に心を寄せているとご存知でしたら、無理遣りに彼女と婚約などなさらなかった。そうではないですか?」
思わず助祭に尋ねてしまった。そんなことを言われて困るのは助祭なのだとわかっていながら、問わずにはいられなかった。
「愚かなことに、私は初め、ヘンドリック様のお気持ちに気がつかなかったのです。最初からわかっていたなら、いくら政略であったとしても、お断りしたと思います」
「断る?婚約者様との縁談を?」
「ええ」
「貴女は彼に惹かれていたのでしょう?」
「まあ、そうですわね。とても眩しいお方ですもの。十人いれば九人は、あのお方とのご縁を嬉しく思う筈ですわ」
「ん?残りの一人とは?」
助祭は十人中の一人が気になったらしい。
「蓼喰う虫も好きずきと申しますでしょう?一人くらいはヘンドリック様では心が動かない、そんなツワモノ令嬢がいるのではないかと思うのです」
キャスリンはそう言って、自分調べの体感的な統計結果を助祭に伝えた。
「もう一人くらいはいそうですね」
助祭までその言葉に乗っかって、キャスリンはここで、助祭と二人でヘンドリックの悪口を言いあっているような、不思議な背徳感を覚えた。
ヘンドリックは、あれだけ褒めそやされる人物である。広い王国でほんの二人くらい、彼の悪口を言ったとしてもバチは当たらないだろう。
キャスリンは、可怪しな勇気が湧いてきた。それで、心做し口も滑らかになった。
「兎に角ですね、どれほど素敵な男性でも、初めから心に思慕を抱く女性がいるお方と、
「貴女の家?」
「ええ。両親は私がどう思うかを第一に考えてくれます。それはとても恵まれたことだと思います」
助祭も同感と思うのだろう。キャスリンの言葉に彼も深く頷いた。
「私だって出来ることなら愛される妻になりたい、それが叶わないまでも、せめて貴族らしく互いを尊重し合う夫婦でありたいと思います」
助祭はその言葉もまた、理解できるようだった。
「ですから、初めから他所の女性にお心をお持ちで、後々それで噂が立つのをわかっていたなら、そんなご縁は最初からお断りしておりました。私、こう見えて少しばかりロマンチストなんです」
至極真っ当なことを言うように、キャスリンは持論を語った。
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