第6話
普段、温厚な人物は、怒ると怖い。
それが使用人であっても、変わりはない。
湖から帰ってくると、裏門の前には、見慣れた男女が並んで立っていた。侍女のアネットと、護衛のイザーク兄妹だった。
「一体、いつまでほっつき歩いていらっしゃるのですか。あと五分遅かったら、イザークと一緒に迎えにいくところでした」
「キャスリン様は、療養中のお身体なのですよ。なにかあったらと、どれだけ私たちが心配したか」
アネットはおっとりとした気質と容姿をしており、垂れ目が彼女のチャームポイントなのだが、その垂れ目が吊り上がって見えていた。
「じ、じ、助祭様も、た、大概になさいませ。遠出をなさるときには、これからは私たちもお供いたします!」
助祭はきっと、こんなふうに怒られることに慣れていないのだろう。
とばっちりのように叱られて、ぱちくりと目を
「どうもすみません」
と言って、ペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい、アネット。湖まで歩いていたの。その、助祭様を叱らないであげ⋯⋯」
「湖までですって?そんなところまで!?」
怒りの炎に油を注いでしまったキャスリンは、数日は大人しくしていることに決めたのだった。
アネットのお説教が終わって教会まで戻りながら、横を歩く助祭に目をやれば、さっき叱られたことも忘れたように、いつもと変わらないように見えた。
「怒られちゃったわ。巻き添えにしてしまってすみません」
「いえ、悪くない経験でした。なんだかああいうのは新鮮だなと思って。キャスリン様の侍女殿は勇敢な女性ですね」
背中にアネットの視線を感じて、慌てて前を向く。それからあとは、口を噤んで静かに歩いた。
翌日の「語らいの時間」は流石に外出は避けて、教会の礼拝堂の長椅子に座って語りあった。
キャスリンが負傷して、その療養のために教会に滞在していることは、領地の貴族たちにも事前に知らされていた。
その為か、日曜日以外に教会を尋ねてくる者はいなかった。なるべく他者と接触しないで済むように、傘下の貴族たちが領民に伝えているのだろう。
だから、こんなふうに礼拝堂にいても、誰とも会うことはなかった。
祭壇の純白の女神像を見つめて、昨日、キャスリンの「負の感情」を引き取ってくれた湖の女神様とは、この女神様なのだろうかと考えた。
どこもくすんでも黒くなっても見えないから、キャスリンの吐き出した負の感情にまみれた溜息は、女神様によって浄化されたのだろうかと、しげしげと像を見つめていた。
「思い出は蘇りましたか?」
並んで座っていた助祭から尋ねられて、今日はどこまで打ち明けようかと考える。
キャスリンは、何一つとして失った記憶はない。ただ王都にいたくないばかりに、忘却を装っているだけである。しかしもう来週には、王都へ戻らねばならなかった。
そろそろ全てを思い出したと、そう打ち明けてしまうべきだろう。だが、それはどうにも無理なことに思えた。
助祭に全てを打ち明けてよいものが。どうしようかと考えていると、助祭はそんなキャスリンが、失った記憶を必死に思い出しているのだと思ったようだった。
「無理に思い出さずともよろしいのです。無理に王都に帰る必要もないのです」
キャスリンは、その言葉に頷くわけにはいかなかった。
「きっと生家では、私を迎えにくる準備をしている筈ですわ。それに学園にも、戻らねばなりません」
「戻りたいのですか」
そんな訳はないだろう。
きっと学園でも、相当な騒ぎになった筈である。
ヘンドリックとシンシアは、あの事故の前から噂になっていた。その二人に絡め取られて、なし崩し的にキャスリンも巻き添えとなっていた最中の事故である。
現場には、渦中の三人が揃っていた。あの場でキャスリンに意識があったなら、なかなかの修羅場と見られたのではないだろうか。
「帰りたくないなぁ」
つい、気弱な本音が口から零れた。
「帰らなくてもよいでしょう」
「助祭様、本気で仰っておられるの?」
「私はいつでも本気です」
どこまで本気なのか疑わしい。呆れた眼差しで助祭を見れば、彼は突然、核心に触れてきた。
「婚約者様の噂のことは、思い出しているのですね?」
「え?ええ。ヘンドリック様とセットで思い出しました」
「ではご令嬢のことも、当然セットで思い出したのでしょう?」
鋭いところを突かれてしまって、キャスリンは答えに困った。
ヘンドリックとの縁が破談になることを予期するキャスリンを、助祭は考え過ぎだと言った。その破談の理由にシンシアが絡まないわけがない。
キャスリンは、そこで俯いてしまった。
「なんとなく」
「ん?」
「なんとなく、憶えております」
苦しい言い様である。
「彼女のことは、朧げに⋯⋯その、なんとなく」
「思い出したくないのでしょうか」
「え?」
「貴女の婚約者様と噂になった令嬢です。だから貴女の心は、彼女のことを思い出させないのかもしれません。貴女を守るために」
「私の心が、私を守る?」
助祭はキャスリンを見つめながら頷いた。なぜだかそれは、哀しそうな眼差しに見えた。
助祭に気遣いをさせていることに、キャスリンは申し訳ない気持ちになった。
もう、隠してはいられないだろう。正直に、全て彼には話すべきだろう。
助祭は今日まで、キャスリンの気持ちに寄り添い、キャスリンが一つでも多く笑えるように心を砕いてくれていた。
それはまるで、彼の献身に思えた。そんなことを彼にさせたいわけではなかった。
「助祭様にも、大切なお方がおいででしょう?」
「ええ、勿論」
それは当然のことだろう。ならば尚のこと、キャスリンのことで彼をいつまでも煩わせてはならないと思う。
「はあああぁ」
「随分深い溜息ですね」
昨日の会話をなぞるような遣り取りである。
「助祭様」
キャスリンは、覚悟を決めた。
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