第5話

「地べたに座ったことは?」

「ございますわ。幼い頃に」

「憶えていらっしゃるのですか?」

「ええ。友人と一緒に土の上に座り込んで遊んだことが。それで侍女に、はしたないと注意されてしまいました」


 幼い頃の思い出も、助祭になら話しても構わないだろう。


 キャスリンはそこで、小さく笑みを漏らした。あの頃の侍女はアネットではない。彼女は随分前に嫁いで職を辞しており、今は子の母になっている。

 今頃は、我が子を遊ばせながら、はしたないと注意をしているのだろうか。


 ここに来てから不思議なほどに、忘れていた細々とした物事を思い出す。

 それは怪我の衝撃で忘れていたことではなくて、時を経るたびに新しい記憶に追いやられて、心の片隅で少しずつ薄らぎ忘れてしまった記憶の欠片だ。


 さっき転びそうになってから、用心深くなった助祭は、キャスリンの右手を握って道を歩いていた。水際に辿り着いてからも、貴女なら容易く足を滑らせそうだと言って、手を離すことをしなかった。


「なんて美しいのかしら⋯⋯」


 湖は、初秋の陽光を受けてキラキラと光を放って見えた。風が吹くたび水面が揺れて光を纏う波の様子に、まるで湖がドレスの裾をはためかせて踊っているようだと思った。


「ヘンドリック様は、神様が授けてくださった光だったのでしょうか」

「え?」


 はしたないと注意する侍女はもういないから、キャスリンはそこでワンピースの裾を手で押さえながら、水辺の草むらに座り込んだ。その拍子に、繋がれた助祭の手も離された。

 助祭はそんなキャスリンを止めることなく、彼も一緒になって隣に座った。


「私、幼い頃から割合、頑張り屋さんでしたの」

「⋯⋯」

「両親や兄や、今は他界してしまった祖父母がみんな、偉いぞよく頑張ったと褒めてくれるのが嬉しくて、それで益々頑張ったものです」


 幼い頃の記憶はどれも優しい。苦労知らずの暮らしだった。今だって、十分過ぎるほど愛されている。


「ヘンドリック様はきっと、そんな私に神様が授けてくださったご褒美だったのですわ。助祭様、ご褒美とは一時いっとき頂戴するからご褒美なのだと思いませんか?」

「キャスリン様?」


 燦めく水面の光は、キャスリンの頬に反射するのではと思うほど眩しく見えた。

 キャスリンの世界にある眩しい存在とは、それまではヘンドリックだった。


「なぜ、過去のようにお話しになる」

「助祭様⋯⋯」

「まるで終わったように」

「⋯⋯」

「神のお与えになる褒美とは、それほど容易く消えてなくなるものでしょうか」


 どうなのだろう。

 キャスリンはきっと、考え過ぎてなにが正しいのか、自分ではわからなくなっているのだと思った。

 自分でわからない自分の気持ちを、誰がわかるというのだろう。


 助祭には、語ってもよいだろうか。

 ふとそんな感情が湧き出して、キャスリンは隣に座る助祭を見た。


 青い瞳と目が合った。

 彼の瞳も燦めく湖の光を受けて、明るく澄んで見えていた。


「助祭様」


 そう呼びかけたキャスリンに、助祭は、ん?というような顔をした。彼はこの仕草が癖である。相手が話しやすくなるように気遣っている。彼は、自分のその癖には気がついていないのだろう。


「私は間もなく王都に戻ります」


 助祭はそれを知っているようで、頷いて答えた。


「なにを思い出そうが、なにを忘れようが、私は私の人生を続けていかなければなりません」


 助祭にはきっと、キャスリンの気持ちが理解できるのだろう。彼の眼差しには否定の色は少しもなかった。


「そこに、ヘンドリック様がいないとしても」


 さわさわと風が音を立てる。

 空高く飛ぶ鳥がヒョロロと鳴いた。


「なぜ、そんなふうにお思いになるのです」

「私にはどうすることもできないのです」

「なにも確かめもせずに?」

「⋯⋯。そうですわね。確かめなければならなかった。もっと前に」


 噂が本当かそうでないかではなくて、二人の間にさざ波が立ったなら、なにが胸を騒がせるのか確かめなければ、波立つ感情を納得させることはできなかっただろう。


「簡単なことです。彼に聞けば良かったんです。聞いたなら、きっと彼は言ったでしょう。『彼女とはなにもない』と」


 助祭の瞳に水面の光が映り込んで、ゆらゆらと揺れて見えた。だが、眼差しが揺れることはなかった。


「そこにヘンドリック様の本心はおありなのでしょうか」


 それは行き成りのことだった。

 助祭は左手を伸ばしてきたかと思うと、キャスリンの頭をグリグリ撫でた。撫でたというには些か乱暴で、キャスリンの視界はグラグラ揺れた。


「な、な、なにをするのっ」

「考え過ぎの頭には、少しばかり刺激が必要かと」

「ひどい!髪が乱れてしまうじゃない!」


 妙な照れくささから、キャスリンは必要以上に怒ってみせた。だが、本心から不快に思ったわけではない。


 助祭はきっと、煮詰まるキャスリンの思考の塊を揺らして、毒抜きをしてくれたのだろう。


「ははは」

「ええ?」


 だが、顔を赤らめ怒って見せるキャスリンに、彼はとうとう笑い出してしまった。

 侯爵家の令嬢であるキャスリンは、こんな場面にそう出会うことはない。ご令嬢の笑いとは、扇の陰で声を立てずに息を漏らす「ふふふ」か「ほほほ」が定番である。


揶揄からかったの?助祭様」

「でも、くよくよはどこかへ吹き飛んだでしょう?」


 確かに。ヘンドリックを思うとき心を覆う哀しいもやが、一瞬、霧散したようだった。


「はあ」


 キャスリンはそこで、湖へ視線を戻して溜息をついた。


「はあああぁ」

「随分深い溜息ですね」

「ええ。ここで負の呼吸を吐き捨てていこうと思います」

「貴女の負を湖にお見舞いすると?」

「はい。懐の深い湖の女神様は、きっと私の、このどろどろの感情を引き取ってくださいますわ」

「なんだか女神様が気の毒ですね」

「はあ?」


 久しぶりに気持ちが上向く。

 きっと女神様が、渋々嫌々、キャスリンの吐き出した「負の感情」を引き取ってくれたからだ。


 キャスリンはそう思い、胸いっぱいに秋の水辺の空気を吸いこんだ。





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