第3話

「キャスリン様。お目覚めはいかがでしたか」

「とても気持ちのよい目覚めでございました」


 教会の助祭と、応接室で向かい合わせに座って、キャスリンは答えた。



 あれからキャスリンは、直ぐに領地の教会へ移った。

 打ち身はそうそう癒えることはなく、身体には痛みが残っていた。だが、どこからかキャスリンが目覚めたことが外に漏れて、人々から見舞いを乞われる前に王都を出たほうか良いだろうということで、早々に出立した。


 侍女のアネットと護衛のイザークを連れただけの簡素な移動に、母は難色を示したが、キャスリンは寧ろ身軽なほうが都合が良かった。


 記憶があるのを隠すのに、周りに人が少ないに越したことはない。静謐の中に身を置きたいというのも本心だった。


 修道院を口にしたのは半ばハッタリであったが、教会で王都の喧騒から離れて過ごすのは、今のキャスリンには良いことに思えた。


 教会には老司祭が一人いたのだが、到着して知ったのは、そこに助祭の青年がいることだった。


 彼の存在に、アネットもイザークも微かに顔を引きつらせた。老いた司祭の助手と言われて、居候の身としては文句など言えようはずもない。


 この助祭とキャスリンは、「語らいの時間」を持つこととなった。告解のような懺悔ではなく、何気ない会話を重ねるという、リハビリのようなものであるらしい。


「キャスリン様。少しずつでよろしいのです。ご無理のない程度にお心の内をお話しになってみてはいかがでしょう」


 そう言ったのは司祭で、キャスリンはその言葉に頷いて、翌日から助祭との「語らいの時間」を得ることとなった。



「それで、キャスリン様は学園に入られる直前に婚約なさったのですね?」


「ええ。家族からはそう聞いております」


 キャスリンは記憶を忘却している真っ只中という設定であるから、自身のプロフィールもこれまでの出来事も、全て家族から聞かされたというていを通している。


 助祭の瞳を見つめながら、自分は正直者なのが数少ない取り柄と思っていたが、とんでもない嘘つきの素養を持っていたのだと驚いた。


 助祭はキャスリンを疑うふうもなく、体調を確かめた後は、天気の話から始まり、裏山に秋の花が咲いていてそれが綺麗なことだとか、社交辞令にも及ばないありふれた話をする。


 それからキャスリンの顔を見つめて、キャスリンの過去についてを尋ねるのだった。語るうちに、なにかの拍子に記憶を取り戻す糸口を掴めるかもと思うらしかった。


「お小さい頃のことは憶えておいでで?」


 助祭の言葉は覚悟していたものだった。

 キャスリンはここに来て考えていた。


 忘却にも設定が必要ではなかろうか。

 具体的に言うなら、いつからいつまでを忘れてしまったか。いつまでのことなら憶えているか。それくらいの括りは必要だろう。


 だが、それは慎重に設定しなければならない。

 なにせキャスリンは、父に向かって開口一番「ご機嫌よう」と言ったのである。

 それは父の顔がわからなかったということで、そうなれば、かなり幼い頃まで記憶の保有を遡らねば辻褄が合わなくなる。


 嘘をつき通すとは、至難の業であると思った。

 そう考えれば、世の中のペテン師とは、なかなか頭脳明晰な人々だと思う。息を吐くように嘘をつくとは、なにかの小説で読んだ文言だが、それほど容易く嘘をつけるなんて、寧ろ尊敬に値するように思えた。



 結果的にキャスリンは、極々幼い頃のことは憶えているということにした。当時の父は、今のように口髭を生やしていないから、そこでなんとか誤魔化せると考えた。


「お小さい頃のことで思い出はおありですか?たとえばお友達ですとか」

「ええ。友人と言ってしまってよいのでしょうか、親しくお付き合いをしておりましたお方がおりました」

「それは、ご友人とは言わないのですか?」

「身分のおありの方でしたから。けれど友人だと、私はそう思っておりました」


 友人というなら今も友人に変わりない。それに、借りた本を返さねばと思う。


「ご友人の中に婚約者様はいらしたのですか?」

「おりました。ですが、お友達ではありませんでした」

「友達ではない?」


 助祭はそこで怪訝な顔をした。


「お友達のお友達とは、お友達なのでしょうか」

「⋯⋯」


 禅問答をしたかったわけではないのだが、キャスリンのトンチンカンな物言いに、助祭は困惑したようだった。




 助祭との「語らいの時間」が終わると、キャスリンは、後はのんべんだらりんと過ごす。王都で心配しているだろう母には、非常に申し訳ないことをしていると思ったが、快適だった。 


 刺繍は憶えている設定にしたから、いささか自分に甘すぎ設定と気にはなったが、そこは深く考えないことにした。そうして気が向けば、日がな一日刺繍に明け暮れる。


 優秀なガヴァネスから教育を受けていたキャスリンは、不器用なのは性格だけで、手先は器用で刺繍も上手い。

 老司祭のキャソックの胸ポケットに、生地と同じ黒い糸でイニシャルを刺せば、なぜか助祭まで「私にもお願いします」と言ってきた。


「イニシャルで」


 彼は家紋ではなくイニシャルを希望した。

 それでキャスリンは有り余る時間をたっぷり使って、助祭のキャソックにも刺繍を入れた。


 そのうち、侍女のアネットと一緒に、繕いものやらバザー用のハンカチへの刺繍やら、手持ち無沙汰になる時間がないほどには、やる事が増えていった。


「お嬢様のお手の刺繍はとてもお美しいですから、直ぐに売り切れてしまいますわ」


「じゃあ、頑張ってもっと刺繍しなくちゃいけないわね。ねえ、アネット。季節の花シリーズでお花の刺繍をしてみない?春夏秋冬四枚で一セットにして。勿論、単品もありよ」


「まあ。私のお嬢様は商売上手でいらっしゃいますね」


 アネットが笑うと、童顔の彼女は益々幼い表情に見えた。


 アネットと護衛のイザークは双子の兄妹で、キャスリンより四つほど年上である。

 双子なのに顔も似ていなければ、姿も気質も違って見えて、二人は二卵性双生児なのだと聞いていた。

 母方の遠縁で男爵家の子女であるのだが、アネットは行儀見習いとして、イザークはキャスリン専属の護衛としてそばについている。


 山野に囲まれた領地は王都よりも秋が深まって感じられた。

 濃い影を落とす日射しも、湿度をなくした爽やかな秋風も、夜に鳴く虫の音も、何もかもがキャスリンを王都の暮らしから引き離してくれた。


 それなのに、ヘンドリックだけは胸の中から離れてくれなかった。彼のことを考える時間は多くて、無心になって刺繍しながら、「H」の飾り模様を思い浮かべた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る