キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却
雨之宵闇
第1話
足を滑らせたのは、偶然だった。
その日は雨が振っていて、学園の廊下も階段も濡れていた。
だからキャスリンが、階段の上段からうっかり足を踏み外したのも、そのまま転がり転落したのも、誰の所為でもない。
誰かの所為というならそれは、自分の過失でしかなかった。
階下に、婚約者が見えたのだ。
ヘンドリックは一人ではなくて、彼はある令嬢と向かい合っていた。
特徴のある髪色で、彼女が誰なのかひと目でわかった。ブルック侯爵令嬢シンシアだった。
彼女の白金の艶髪が、壁の照明を受けて淡く光って見えていた。ヘンドリックはこちらに背を向けていたから、どんな表情をしていたのかわからなかった。
後ろ姿だけで彼だとわかる。それはキャスリンが、彼のどんな姿も見落とさずにいたからだろう。
婚約者が懇意にしている令嬢がいる。
それは最近、噂に聞いたことだった。
親しい友人からも、そうでもない人からも、度々告げられることが噂ではなく事実なのだと、キャスリンはそろそろ認めなければならないと思い悩んでいた。
ヘンドリックに確かめたなら、彼はきっと噂を否定するだろう。彼はそういう人だ。
キャスリンがヘンドリックに傷つけられたことは、これまで一度もなかったのだから。
なのに、どうして胸が痛むのだろう。
あの階段の踊り場で向き合う二人を見ただけで、キャスリンは胸が大きく跳ねて、足元が疎かになってしまった。
引き返そうと思ったのに、足は思うようには動かずに、そのまま一段下に踏み降ろされた。降りるつもりがないのに身体が勝手に動いたことで、バランスを崩したキャスリンは、足を滑らせ階下まで転落した。
キャスリン・アダムス・スペンサーは、スペンサー侯爵家の子女である。貴族学園に通う彼女には、婚約者がいた。
ヘンドリック・コートネル・ロードデール。
ロードデール公爵家の嫡男である彼に、キャスリンは半年後には嫁ぐ予定だった。
目が覚めた時に一番最初に気がついたのは、全身の痛みだった。どこもかしこも痛むから、痛みの中に身を沈めるような感覚だった。
「うっ」
思わず漏れた声に、「お嬢様!」誰かが言うのが聞こえた。
誰かしら。誰?
思考が定まらず、それより痛みに気を取られて、そうするうちに辺りが騒々しくなった。
「キャスリン、気がついたか」
「侯爵、お待ちください。先ずは容態を確かめねばなりません」
直ぐそばで発せられる声音すら、頭に響いて痛みを感じる。
「キャスリン様、聞こえますか?」
「え、ええ⋯⋯」
漸く発した声はかすれていた。
「お身体はいかがですか?」
いかがと尋ねられても、痛みしか感じられない。
「痛みは、」
「い、痛いわ⋯⋯」
最後に聞こえたのは自分の声で、痛みに埋もれるように、意識はそこで遠のいた。
次に目覚めた時には、辺りは薄暗くなっていた。目に入った天井は、見覚えのあるようなないような、ここはどこだろうと考えて、まだはっきりとわからなかった。
だから、決して嘘をついたわけではない。
記憶が混濁していたのは本当だし、それで両親が慌てふためいても、なにも言えないままだった。
キャスリンは、あの転落から三日三晩熱に浮かされ昏睡していたようである。
四日目になって一旦は目覚めたが、直ぐに気を失って、次に目覚めたのは五日目になってからだった。
あんなに全身痛かったのに、外傷が打撲で済んだのは奇跡だと言われた。
婚約者が想いを通わせていると、そう噂される令嬢との逢瀬の現場に立ち会ったことに動揺して、階段を真上から転がり落ちた。
その結果、キャスリンは記憶をなくしてしまった。そういうことになったらしい。
「一時的な健忘だと思われます。なにをどれくらい忘れてしまわれたのか、今の段階では判断がつきかねます」
「記憶は戻るのか?」
「それもなんとも申せません」
医師と父が語る言葉は記憶していたから、後から思い出してちゃんと理解できた。
「ああ、キャスリン、なんてこと」
母が泣き出してしまったのも、後になって胸が痛んだ。
「こんな人形のようになってしまって、どれほど辛かったのかしら」
「滅多なことを言ってはならない。ヘンドリック殿は噂を否定なさったのだから」
「ですが、旦那様。キャスリンは二人の姿にショックを受けて、転落したというではありませんか」
ああ、そうだ、そうだった。
キャスリンは、少しずつ薄い膜が剥がれるように、記憶が明瞭になってきて、後から耳に入った言葉の数々を理解した。
現場には、ヘンドリックとシンシアの他にも生徒たちがいたらしく、キャスリンの転落も一部始終が目撃されていた。
そのうちの一人が騎士科の生徒で、駆けつけた保健室の教諭に指示を受けて、キャスリンを抱えて運んでくれたらしい。
その様を、ヘンドリックは呆然としたまま見ており、そのことが両親の怒りを誘ったようだった。
現に彼は、度々キャスリンへの見舞いを申し出ていたのを、意識が戻らないことを理由に両親は断り続けていたという。
記憶を辿っていくうちに、キャスリンに感情が戻ってくる。それは大きな波に胸の内を押し潰されるような、言いようのない重く辛く哀しい感情を呼び寄せた。
気がつくと、温かな涙が零れ落ちて、それは耳元まで流れて枕を濡らした。
何一つ確かめた訳ではないのに、キャスリンは、どこかヘンドリックへの失望を抱いていた。
ちゃんと会って話さねばならない。
そう思う横から、本当に?ともう一人の自分が囁く。
こんな騒ぎになってしまって、自分はあちこち傷がついて、もしかしたら顔も身体も元とは違っているかもしれない。
もう嫁ぐ身ではなくなってしまったのだろうか。
「ああ、なにもかも忘れてしまいたい」
それは小さな呟きだった。
「え?それって、今なら⋯⋯」
キャスリンは、今なら忘却を許されるのではないかと思った。
ほんの少しの間でいいから、彼らから離れて、現実から離れて、誰も何も知らない場所に逃げてしまいたい。
キャスリン・アダムス・スペンサーが、忘却を決め込んだ瞬間だった。
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