細長い痕
をはち
細長い痕
私の名は小林ゆかり、19歳、大学生。
夜の街に響く笑い声とグラスの音に身を委ね、友達に誘われるまま連日飲み会に繰り出す日々は、
若さという免罪符に守られた自由そのものだった。
ビールの泡が弾けるように、時間は軽やかに過ぎていく。
だが、ある朝、鏡に映る自分を見たとき、首筋に細長い赤い痕が浮かんでいるのに気づいた。
「かぶれかな」
私は軽く笑い、指でその痕をなぞった。
細長く、まるで誰かの指が軽く触れたような形だった。
気にも留めず、その夜もまた、ネオンの光に誘われて街へ出た。
翌日、鏡を覗くと、首筋の痕は二つになっていた。
昨日より少し濃く、赤みを帯びた線が、まるで誰かがそっと爪を立てたように並んでいる。
不思議と痛みはなく、ただそこにあるだけだ。
化粧で隠そうかと一瞬思ったが、首ならマフラーで十分だと結論づけ、冷たい秋風に身を任せて大学へ向かった。
その夜の飲み会は、いつものように騒がしかった。
合コンだった。
隣の席の男が、酔った勢いで下手な冗談を飛ばしてきた。
名前も覚えていない、眼鏡をかけた冴えない男だ。
私の軽い一言――「その話、つまんないね」――に、会場が笑いに包まれた。
男の顔が一瞬こわばったのを、私は見逃さなかった。
でも、そんなことはすぐに忘れた。
だって、夜はまだ長かったから。
三日目、首の痕は三つになっていた。
鏡に映る自分の首をじっと見つめると、まるで誰かが丁寧に、しかし執拗に指を這わせたような形が浮かんでいた。
不気味だと思ったが、病院に行くほどでもない。
きっとストレスか、アクセサリーの擦れだろう。
シャワーを浴び、熱い湯で首を洗うと、なぜか痕が一層鮮やかに見えた。
まるで、誰かがそこに触れたがっているかのように。
その夜、私は最寄り駅から家まで歩いた。
秋の夜風が心地よく、酔いを醒ますにはちょうどいい。
空を見上げると、雲が低く垂れ込め、街灯の光がぼんやりと滲んでいた。
ぽつり、ぽつりと雨粒が頬に落ちた。
妙に生暖かい感触に、眉をひそめた。
駅前の雑踏を歩いているはずなのに、なぜか周囲が静かだ。
人の気配が、遠い。
ふと、視界の端に光が揺れた。街灯ではない。
もっと鋭く、冷たく、何かを通して私を照らす光。
ぽろぽろと雨粒が顔を濡らす。
生暖かい。まるで、誰かの吐息のような。
四日目、首の痕は四つになっていた。
鏡の中の私は、どこか別人のように見えた。
赤い線は、まるで首を締め上げるように、規則正しく並んでいる。
触れると、かすかに熱を持っている気がした。
心臓が小さく跳ねたが、私はそれを無視した。
今日は友達と約束がある。
こんなことで気分を沈めるわけにはいかない。
飲み会は、いつものように賑やかだった。
だが、どこかで視線を感じた。
誰かが私を見ている。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、ざわめきの中で、ふとあの合コンの男の顔が脳裏をよぎった。
冴えない眼鏡の奥で、じっと私を見つめていた目。
あの夜、笑いものにした男だ。
まさか、と思いながら、私はグラスを傾けた。
五日目の夜、私はまた駅から歩いていた。
風は冷たく、頬を刺すように吹き抜ける。
首に巻いたマフラーが、なぜか重く感じた。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
生暖かい雨粒が、頬を滑り落ちる。
空を見上げると、雲の切れ間から光が漏れていた。
だが、その光は私を直接照らすのではなく、何かを通して屈折している。
まるで、ガラスか、誰かの瞳を通して。
ぽろぽろぽろぽろ。雨粒が顔を濡らす。
生暖かい。まるで、血のように。
「お前が悪いんだ――」
突然、耳元で声が響いた。
低く、粘つくような声。
知らない声なのに、どこかで聞いた気がする。
私は立ち止まり、振り返った。
誰もいない。
駅前の雑踏は、まるで遠い世界の音のように聞こえる。
首筋が、急に熱を持った。
マフラーを外し、指で触れると、そこには五本目の赤い痕が浮かんでいた。
五本。
まるで、誰かの手が私の首を掴んだように。
その瞬間、走馬灯のように記憶が蘇る。
あの合コンの夜。
笑いものにした男の、凍りついた目。
私の背後を、執拗に追いかける気配。
気づかぬうちに、私の首に這う指。光。雨。声。
そして、首を締め上げる力。
「お前が悪いんだ――」
声が、耳元で繰り返す。
私は気づいてしまった。
男はずっとそこにいた。
私に乗りかかり、首を絞めていた。
私は、死にゆく中で、ただ過去を振り返っていたのだ。
光が消え、闇が落ちる。
私の首に刻まれた五本の痕は、永遠にそこに残るだろう。
細長い痕 をはち @kaginoo8
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