Sec. 05: The Menace from Pride - 01
夜会は正装のまま行われる。レイは着慣れないジャケットとネクタイに息が詰まりそうになりながら、シャンパングラスを受け取り、会場をふらついていた。一段上がったところでは、ローマンがピアノを弾いている。しとやかでゆったりとした、繊細な曲だ。レイは題名を知らなかったが、粗野な彼がこんな曲を弾けることのほうが驚きだった。とはいえ、彼は世界的なピアニストなので、どんな曲を弾けても不思議ではないけれど。
歩き回って足が疲れた。レイは会場の隅のカウンターへ向かい、女性の隣に腰を下ろした。淡い金髪の女性だ。突っ伏していて、顔は見えない。酔いつぶれているのだろう。
「カレンさん?」
さらにその隣に座る女性から、ふと声をかけられた。黒のパンツスーツに、ボブカットの茶髪。フェアクロフだ。レイはグラスを置き、フェアクロフとのあいだに座る金髪の女性に視線を注いだ。ワインレッドのドレス。酔っ払ったからか、ベージュのハイヒールが床に脱ぎ捨てられている。この船でこんなことをする女性は、一人しか知らない。
「……ミズ・カルヴェ?」
「ベルティーユでいいって言ったじゃない、クロ……じゃない、わ?」
カルヴェはがばりと顔を上げ、レイの顔を見ると首を傾げた。目が据わっている。酔いつぶれて、フェアクロフに介抱されているのだろう。
「あなた……クロフォードの弟子、よね? クロフォードは?」
「ミズ・カルヴェ。シャーロックは容疑者として拘束されていると言ったでしょう」
「そうだっけ?」
「これで四回目です」
フェアクロフはため息をつく。カルヴェは長い睫毛をぱちぱちと瞬かせ、堪えきれないといった様子で笑い出した。ひとしきり笑ったあと、彼女は目尻に溜まった涙を拭う。
「んふふ……そんなに説明してくれたの? あなた、あたしのこと好きよね」
「貴女……」
声音に呆れが滲んでいる。フェアクロフはこの数日で彼女と親交を深めたのか、もはや怒りを通り越してしまっているようだった。
「とにかく、カレンさん。実は、貴方を探していたのです」
「僕を?」
「ええ」フェアクロフは頷き、レイのグラスへ密かに伸ばされていたカルヴェの手の甲を叩いた。「人のグラスにまで手を出さないでください、ミズ・カルヴェ」
「お堅いのね、イーディス」
また、彼女が唇を尖らせる。色素の薄い彼女がそれをすると、まるで天使のようだった。レイはその美しさにほんの少しだけ見惚れてしまい、フェアクロフのため息で我に返る。
「話してください、ミズ・カルヴェ。カレンさんを探していたのは貴女でしょう」
探していた? レイは訝しんで、カルヴェを見やった。クロフォードを探しているならまだしも、レイを探していただなんて。フェアクロフは微睡んでいるカルヴェを小突き、やや厳しい声をかける。「ちょっと」
「ん〜……あ、そうだったぁ。あたし、あなたを探してた。あなたなら、わかってくれると思って……」
「わかってくれる?」何を?
「あたし、アデラインに嫌われてるのよ」カルヴェは明らかに肩を落としている。「イーディスもあたしに厳しいし……あたしに優しいのはクロフォードだけ」
「ミズ・ハウエルズに嫌われるようなことをしたんですか?」
フェアクロフはカルヴェのことを嫌っているわけではないだろう。レイがそう尋ねると、カルヴェのブルーグレーの瞳が瞬く。それから、不思議そうに細められた。
「どうかしら」
「その話ではないでしょう、ミズ・カルヴェ。貴女がカレンさんを探していたのは……」
レイは呆れてため息もつけなかった。それはおそらくフェアクロフも同様で、カルヴェのマイペースな奔放さに翻弄されている。
「そうよ!」
フェアクロフの言葉を受けて、彼女は再び思い出したように目を見開き、ガタッと音を立てて立ち上がった。ざわざわとした夜会でも、注目を集めてしまう。レイは不可解そうな参加者たちの視線をいなし、カルヴェをなだめて座らせる。
「……一日目の夜会のあとで、アデラインが誰かと言い合ってるのを見たの。誰も信じてくれなかったけど……イーディスですらね」恨めしそうにフェアクロフへ視線をやる。
「あの日の貴女は酔って吐いていたでしょう。そんな人間の記憶が信じられますか?」
「本当だもん〜」
「貴女の行儀の悪さを咎められているのではないのですか」
「そんなことするのはあなただけよ、イーディス」
「どこからその自信が出てくるのです……」
ふん、と鼻を鳴らすカルヴェに、フェアクロフは頭を押さえている。彼女の頭痛に憐憫と敬意を抱きながら、レイは手帳に新たな情報を書きとめた。どこでどんな手がかりが得られるかわからないからと、スーツのポケットにも入るサイズを選んでいてよかった。
「誰かと、ということは、相手は……?」
「あんまり覚えてないわ。男の人だったと思うけど」
フェアクロフの言う通りじゃないか、と喉元まで出かかった言葉を飲み込み『相手は不明』と書き加える。ハウエルズが言い争う可能性のある男性といえば、チェンバーズか、スチュアートくらいだろう。
「髪の色とかは?」
「アデラインに睨まれて、すぐ立ち去ったの。だからわかんない」
レイは腕を組み、手帳を前にして唸る。ハウエルズが誰かと言い争っていたのであれば、そこでなんらかの話が拗れて、翌日の犯行に及んだという可能性も考えられる。
いずれにせよ、ハウエルズに話を聞かなければ。素直に応じてくれるとは思えなかったけれども、レイは彼女を探すことにした。彼女が全ての鍵を握っている——この事件が、殺人か誘拐かにかかわらず。
「信じてくれる?」
カルヴェは子犬のように潤んだ目と、赤らんだ頬でレイを見つめた。それが酒のせいだとはわかっていても、レイは胸の高鳴りを抑えられなかった。彼女の顔立ちは美しいが、そばかすやウェーブがかった淡い金髪は可愛らしさの演出にも一役買っている。
「はい。信じます」
子どものように無邪気で天真爛漫な彼女が、嘘をつくような人間であるとは信じられない。だから、レイはカルヴェの言葉を信じることにした。ハウエルズが誰かと言い争っていて、その後、事件が起きたということを。
「ありがと〜、いいこね、レイは」
カルヴェはレイの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。小っ恥ずかしくなって黙り込んでいると、フェアクロフが「こら」と引き離してくれる。「困っているでしょう」
「彼は『いい子ね』などと言われるような歳でもありません」
「そうなの〜? ごめんねぇ」
「いえ……」
レイは手帳をジャケットの内側にしまうと、グラスを持って席を立った。手つかずだからカルヴェにあげようかとも思ったが、フェアクロフの前で彼女を甘やかすべきではないだろう。保護者としてよく働いているようなので。
「あ、ねえ、クロフォードには会ってるの?」
思い出したように袖を引かれ、レイは振り返った。
「たまに、調査の助言を」
「そうなのね。また会ったら、あたしが会いたがってたって伝えておいて」
綺麗なウィンクを贈られ、レイはどきりとしてしまう。クロフォードに、彼女のような美しい
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