孤独な竜は下界へ飛び出す~竜人の下界生活~
異原世界
第一章「孤独な竜」
第1話「私の居場所はない」
死にたい
五大族戦争から十年。
それぞれが互いの大陸を分け合うことで、ようやく停戦は結ばれた。
ここはその一つ、竜族の都――ファルトリア大陸の北東、浮遊島ヴィルファリア。
私は、その王都の小さな学校に通う一人の少女。
……名前は、リゼリア。
朝、教室に入った瞬間だった。
机の上に置いていた鞄が、赤々と燃えあがる。誰かが吐いた炎に包まれて、持ってきた教本もノートも、一瞬で灰と化した。
私の手は震えたけれど、声は出さなかった。
泣けばまた「やっぱり人間だ」と笑われる。だから――唇を強く噛んだ。鉄の味が広がり、涙は奥に押し込められる。
そこへ、カツン、と靴音。
担任の先生が入ってきた。私の机を一瞥したのは、たしかに気づいた証拠だった。
けれど、そのまま何事もなかったかのように黒板の前に立ち、言った。
「はい、皆さん。授業を始めますよ」
その声は明るく響き、まるで私など存在しないかのようだった。
「今日は竜神様についての授業です。これは試験に出ますから、しっかりとメモを取るように」
私はそっと手をあげた。勇気を振り絞って。
「……すみません。メモが……取れないのですが」
先生はちらりとこちらを見て、ため息をついた。
「忘れ物ですか? 減点ですね」
そして、冷たく続ける。
「ホントに、リゼリアさん。あなた、このままじゃ卒業どころか、進級すら危ういですよ」
教室の空気が、くすくすと笑いを含んで揺れた。
私は俯き、机の上の灰を見つめた。
なぜ私は、ここにいるのだろう――。
授業の終わりを告げる鐘が、教室に甲高く鳴り響いた。
皆がわっと立ち上がり、笑い声を響かせながら廊下へ出ていく。
私は最後まで席に座ったまま、机の中をそっとのぞき込む。
……やっぱり、なにも入っていない。
消しゴムも、羽ペンも、ノートも。昨日まであったはずのものは、跡形もなく消えていた。
誰がやったのかなんて、考えるまでもない。
けれど、証拠を突きつける勇気も、先生に訴える気力も、もうなかった。
だって――見て見ぬふりをされるのが分かっているから。
小さく息を吐き、机の灰を指先で払った。
白い粉がふわりと宙に舞い、夕日に照らされてきらめく。
それがまるで、燃え尽きた自分の心の欠片のように思えて、胸の奥が少し痛んだ。
鞄を肩にかけるふりをして、実際にはなにも入っていない空っぽの鞄を持ち、私は教室を出た。
廊下では竜の鱗を煌めかせた翼を広げて、同級生達が自慢げに飛び回っている。
その輪に入ることは、もちろんしない。
校門を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
夕焼けに染まる浮遊島ヴィルファリアの空は、どこまでも澄み切って美しい。
なのに、私の胸の中はひたすら重かった。
家に帰れば、温かく迎えてくれる親がいるわけじゃない。
待っているのは――もっと冷たい沈黙。
……それでも、帰るしかない。
私は石畳を踏みしめながら、町を抜け、家路についた。
家に帰ると、そこはいつものように真っ暗だった。
扉を閉めて、息を潜めるように小さく呟く。
「……《灯火》」
掌に小さな光を灯す。揺れる明かりに照らされて、殺風景な部屋の輪郭が浮かび上がった。
私は靴を脱ぎ、廊下を足音を立てないように歩く。
親に見つからないように、けれど、見つからないわけにもいかなくて。
台所の椅子に座る母の背中に、恐る恐る声をかけた。
「……あの、今日……学校に持っていったもの、なくしてしまいました。すみません」
振り向くことなく、母の手が机の引き出しを開ける音がした。
そして、数枚の硬貨が無言で差し出される。
私は震える手でそれを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
食卓についても、会話は一切なかった。
金属の食器が当たる乾いた音だけが、部屋に響いている。
母に話しかけることは、しない。
――しないようにしている。
もし口を開けば、怒鳴られる。殴られる。だから。
だが、不意に。
時計を見ようと、顔を上げてしまった。
その一瞬――母の目と、視線が交わる。
「……リゼリアさん」
静かな声だった。けれど、その声は、胸の奥を冷たく突き刺す。
「っ……ご、ごめんなさい! ごめんなさい! わざとじゃないんです! 本当に……ほんとにごめんなさ――」
謝る声が途切れるより早く、体は椅子から弾き飛ばされ、床に押し倒された。
「私にその目を向けるなって言ってるだろうが!!!」
耳を劈く怒号と共に、拳が降る。
頬が焼けるように痛み、視界が白く弾ける。
「片目潰すだけじゃ分からないのか!!!」
容赦なく繰り返される打撃に、私の声は謝罪しか持たなかった。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……! もうしません……!」
そう繰り返す以外に、できることなどなかった。
「――あいつと同じ目で、私を見るな!!!」
叫びが頭の奥で反響する。
血の匂いと、床板の冷たさ。
その夜も私は、ただ謝り続けるしかなかった。
その夜も、布団に潜り込んだ。
痛みは消えない。涙も止まらない。
――けれど、私にはまだ一つだけ、誰にも奪えない癒しがある。
夜が更け、家の者が寝静まった頃。
私はそっと窓を開け、翼を広げた。
冷たい夜風が頬に当たって、痛みを少しだけ和らげてくれる。
向かうのは、浮遊島の外れにある岩の上。
誰も来ない小さな広場。
そこには私の宝物――傷だらけのギターと、書き殴った歌詞の紙切れが散らばっていた。
「……たのしい」
かすれた声でつぶやきながら、ギターを抱えた。
竜族では、歌も楽器もほとんど好まれない。
けれど私は、人間の世界から伝わってきたこの音色に惹かれていた。
弦を弾く。
か細い音が夜空に溶けていく。
私はそれに合わせて、声を出した。
歌うときだけは、痛みも、恐怖も、忘れられる。
歌詞は、ほとんど願いばかりだ。
「生きていたい」とか、「居場所がほしい」とか――書いた自分が笑ってしまうような、そんな子供じみた言葉。
でも、誰にも届かなくてもいい。
この夜空だけが、私の聴衆だから。
私は声を震わせながら、涙を隠すように歌い続けた。
その日も、私は岩の上で歌っていた。
夜空は澄み渡り、星々がきらめく。
小さな音でも、世界に届いているような気がした。
――だけど、その幻想は唐突に破られる。
背後から荒々しい風。
気づいたときには、同級生たちが立っていた。
彼らは私を見下すように笑いながら、私のギターを乱暴に引き抜いた。
「なにこれ? 人間のマネ?」
「気持ち悪ぃんだよ、竜のくせに」
私は声を上げることができなかった。
ただ、必死に取り返そうと手を伸ばす。
けれど、その瞬間――
――バキィッ!!
乾いた音を立てて、ギターのネックがへし折られた。
私の指から、無残な木片が滑り落ちる。
「人の居場所なんてここにねぇんだよ!」
そう吐き捨て、彼らは星空の下を飛び去っていった。
夜の風が顔を切り裂くように通り抜ける。
私の手には、壊れたギターの破片すら残らなかった。
ただ、心に刻まれた痛みだけを抱えて、空へ飛び上がる。
翼を広げると、冷たい夜気が体を撫でる。
下界の町の光は、遠く、遠く。
人々の笑いも、怒鳴り声も、すべて遠くに置き去りにした。
誰も私を止めない。
家族も、学校も、同級生も――存在しないかのように無視する。
振り返っても、そこには冷たい建物と、無関心な街の明かりだけ。
痛みと怒りと絶望が混ざった心臓の鼓動に合わせ、私は空を駆ける。
涙が頬を伝うけれど、声には出さない。
泣くことも、叫ぶことも、誰にも許されない。
ただ、飛ぶ。
どこへ行くのかもわからない。
どこにたどり着くのかもわからない。
でも、確かなのは――
もう、この竜の都に私の居場所は、どこにもないということ。
リゼリアがかわいそうと思ったらいいねや★★★お願いします!
頑張って幸せになるようにします!
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