温玉牛丼を食べてから様子がおかしい

たっぷりカレーです。

第1話 美味しい牛丼と怪しいマジシャン


おとなしく家に帰れば、冷蔵庫に夕食はある。


昨日作った野菜炒めの残りと、冷凍ご飯がある。


んなことは分かってる。

でも、今は吉野家が食べたい。


昼に吉野家初の麺メニューが出たニュースを

見たからだろうか、


まぁ牛丼なんかは、

生きていたら発作的に食べたくなるものだ。


乗りたい電車までは、あと20分。


「…いっちゃうか。」


野菜炒めはたぶん、

明日の朝とかに食べるだろう。



朝飯を食べる習慣などない明日の僕へ

謎の信頼を寄せて、上遠野は吉野家に入った。



ウィン



「あーしゃーせー。」


注文はだいたい決まっている。

牛丼並と温泉卵をお願いして、スマホで支払う。


「616円ですー。」


先払いで食券を受け取り席に着く、

駅ナカスタイル。


レシートを受け取り、

比較的人が少ない、

いてもそろそろ食べ終わりそうな

テーブルの近くに腰をおろす。


8月も下旬。

毎年夏のピークは後ろ倒しになっている気がする。



5年後の夏、果たして生きていられるだろうか。

防護服に身を包んだサラリーマンが

電車に溢れる未来はフィクションではないかもしれない。


スーツのジャケットを脱いで二つ折りに畳み、

カバンの上にかける。


ネクタイは既に会社で外した。


お冷のコップは自分でとりにいく

必要があるのか〜などと思っていると、

僕の牛丼が出来上がる声が聞こえた。


牛丼並に、温泉卵。


特盛やねぎだく、チーズ牛丼、カルビ丼、

さまざま食べてきたが、

結局は純粋な牛丼を愛している。


温泉卵は最初から割り入れる。

その上に紅生姜、七味を軽く振ってかきこむ。


つながるお肉で序盤から米とのバランスを

崩されつつも、気にせずかきこむ。


夕飯を食べる時は大体

ラジオか音楽を聴いているが、

どちらの気分でもない日もある。


そんなときは大体

これまでの自分のキャリアを振り返っている。


神前町にオフィスを構えるIT企業

株式会社ビズスケールで営業をこなす上遠野は、

周りの友人や同期の結婚、転職に拍手を送りながら、特に何もない自分の人生に首をかしげる。


これまで歩いてきた道と今後歩むであろう道。


別に間違ったことをしてきた訳ではない。


ただ、過去からスッと伸びる直線を未来まで引くと、あまりいい景色ではない気がしている。


具体的な解決策がないまま夜は更けていき、

眠気がフッと思考力を奪っていく。


朝になれば仕事のことで精一杯


夜になると、思い出したかのように

似たようなことを考える。


そんなことを繰り返している。


転職ってそんなにいいだろうか。


怖い人が上司になったら

その時点で詰みじゃないのか。


経験のないことは怖い。


かといって、今の会社に満足はしていない。



自分の不甲斐なさと、会社への愚痴を

頭の中でぐるぐるさせながら、


牛肉と白米をぎゅむと口に詰め込んでいく。


吉野家はいつも美味い。素晴らしい。


ムラがないクオリティを出すことは難しい。


自分の営業はどうだろうか。


寝起きの朝


満腹の昼


帰りたい夕方



打ち合わせのクオリティは同じだろうか。


反省が多い。


「……ぁ」



「………んか?」


ふがふが牛丼をかきこむ最中、

誰かに声をかけられた気がした。


何を聴いているわけでもないが、

ノイキャン中のイヤホンを取って顔を上げると

1人の男性がこちらを見ている。


「…はい?」


「マジック見ませんか?」


「マジック…?」


「はい、今からマジックをします。

5分ほどで終わる簡単なマジックです。

見ているだけで大丈夫です。

もし気に入っていただけましたら、

お気持ちをこちらのカゴに。

では参ります。」


年上の人の年齢はよくわからないが、

60代くらいのおっさんだろうか。


暗記したんだろうか、

いきなり話しかけてきて

あれよあれよとマジックは始まった。


「まずはこのコイン、よく見ていてくださいね。

裏も表も何も書いてありませんね。ここにあなたの好きなイニシャルを書いてください。

こちらのペンで。」


見ているだけで大丈夫という約束は

およそ2秒で破られた。


そもそもこういうのって、

サラリーマンが多い

新橋とかの居酒屋でやるんじゃないの????


牛丼を邪魔されているストレスと

突然マジックを強要された困惑を

天秤にかけて無言の数秒が経過した。


おじさんの圧力で、結果僕はペンをとった。


Y


吉野家のYだ。


おじさんは描き終わるのを確認すると、

コインを見ずに受け取り、ポッケにいれた。


「はいはい、ではそのイニシャルから始まる

好きな言葉を心で思い浮かべてくださいね。」


((Y…吉野家だな。))


「ではその言葉から連想される

色を思い浮かべてくださいね。」


((吉野家…オレンジ…))


「ではその色から連想される国を

思い浮かべてくださいね。」


((オレンジ…オレンジ…オランダかな。))


オランダはサッカーのユニホームが

オレンジだった。


特に好きな選手や思い出があるわけではないが、

こういう時、記憶は変に顔を出す。


「思い浮かべましたかね?

では、そこです。」


「…はい?」


意味がわからないまま、おじさんの顔を見る。

満足そうな顔をしている。


よく見ると、きたねぇ面だ。


色黒かと思いきや、

シンプルに汚いだけのようだ。


「…なにがですか?」


「えっ、なにがって…

あなたのはじまりの場所です。」


「はじまりの場所…?」


なんでこちらが不思議な顔をされなきゃあかんのだ。


あとやっぱり、誰なんだこのおじさんは。

何が目的なんだ。


「あー、すいませんちょっと意味が、、、」


「では、またの時間に。。お目に。。」


おじさんは満足そうな顔で、店を出て行った。


なんだったんだろうか。


狐につままれたことはないが、

おそらく今の感情がぴったりなんじゃなかろうか。


時間が経ち、黄身と米が固まった残りを

再び食べ始める。


気づくと、店内に客はひとりもいなかった。


僕はおじさんとの会話を思い出すわけでもなく、

会社への愚痴をぶり返すわけでもなく、

ただ淡々と牛丼を食べていた。


紅生姜が酸っぱい。


牛肉が甘い。


米がもっと欲しい。


美味しい。


水を飲みたい。


そんなことしか思っていない。


思っていることすら、認識していない。


意思にもならない意思が

頭の中をスーッと撫でるだけの時間。


しかし、食べながら気づいた。


自分の感情がこれまで考えたことのない

新たな感覚を抱いている。


食べたいものを食べた。


美味しいと感じた。


その気になれば明日も

ここで牛丼を食べることができる。


その気になれば明日

僕がマジシャンになることもできる。


なににでも、どうにでもなれる。


簡単なことだが、

もうそれでいいじゃないのかと。


満足じゃないかと。


僕は牛丼を食べているだけなのに、

にやりと笑いがこみあげてきた。


なんだ、僕って幸せじゃないか。


別にマジシャンとしてふらふらしても

あれはあれで幸せなのかもしれない。


アルファベット、なんでも正解なのかもしれない。


幸せを感じられればそれでいいじゃないか。


楽しいなら、満足なら、

それで全部いいじゃないか。


僕の人生は、

何故こんなに怒りを覚えるのだろうか。


僕は一体、なにに対して怒っているのだろうか。


僕は一体、なにに対して悲しんでいるのだろうか。


もっと軽く、でたらめでいいじゃないのか。


なにも変わらない現実の中で、

上遠野の気持ちには小さな変化があった。


一方で、電車の時間は過ぎていた。

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