手紙
庸 草子
手紙
こんにちは。
とは言ったもののこれを呼んでいるあなたが誰なのか、私には見当もついていません。
手紙を書くと決めたはいいものの、送る相手も特に思い当たらないし、書きあげたら瓶にでもつめて海にでも流そうかと思っています。
今、読んでいるあなたにとって有意義なものであればいいのですけれど。
手紙を書こうと思ったのは他でもありません。私の人生があまりに無意味なので、せめて同じような目に遭っている人の役に立てばと思ったからです。
つまりは負け犬の遠吠えというやつですね。言葉としては引かれ者の小唄の方が好きなのですけれど、通じなくてかなしくなることがままあります。
つまりは人生の先輩ぶった老害からのお説教めいた手紙だというのも一面ではあります。なので素直に読むのもよし、変な奴だと指さして笑うのもよし、お好みのようにお使いください。
なにが書きたいのかというと、つまり私たちはどう生きればいいのかということです。
たとえばあなたがとてもひどい家庭に生まれたとしましょう。たとえば私の場合で言えば兄と妹が発達障害で、両親がその責任を押し付け合って家庭が崩壊したなどという感じです。
まあ私から見ると、発達障害者もその保護者もポリティカルコレクトネス的には強者であるので、結構支援を貰えていた気がしますね。
ただ、発達障害者のただの兄弟でしかない私はそういうわけにもいきません。兄妹から精神的・肉体的な暴力を受けたとしても、あの子は特別な才能があるんだから仕方がないなどと言われることはしょっちゅうでした。
両親についても同様です。発達障害者の親は大変なので、いろんな人に相談に載ってもらっていましたね。ただその両親がストレスから私に当たり散らした時には、だれも相談に乗ってなんてくれなかった。
正確に言えば相談に乗ったはしから両親に告げ口されて、両親から私がひどい目にあわされたと言ったところです。
これらの体験が私に教えたのは、社会では往々にして誰かに不幸が押し付けられる構造があるということでした。
ここまでの話でお前は何が言いたいんだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。お前は自分が世界で一番不幸だとでも思っているのか、などという声も聞こえて来ているような気がしますね。
若いころは少しでも暗い顔をしていると、よく言われたものです。そう言ってくる人が私よりひどい目にあっているとはかけらも思うことはできませんでしたが。
そうではなくここで言いたいのはこんなことはありふれているということです。奇しくも彼らがいうように、私は世界で一番不幸ではなく、この程度の不幸は世にありふれた凡庸なものでしかありません。
この手紙を読んでいるあなたがどちらなのかはわかりません。もしもひどい目に遭っているなら、応援していると伝えたいですし、もしもそういう目にあったことがないのであれはひどい目にあっている人のことを少しでも想像してあげてほしいと願っています。
つまりは他人をひどい目に合わせることで快感を得たり、ストレスを解消したりする行為を批判することが、この手紙の目的のひとつということになりますね。
私自身は一応そういう行為を好まずに生活をしてきたつもりです。あるいはこの手紙自体にそういう性質を読み取られる方もいらっしゃるかもしれませんが、まれなことなので許してほしいというのが本音ですね。
もちろん意識しないところで他人を傷つけてきたのではないかと言われると、反論は難しいのですが。
それでも他人を傷つけないように生きてきた結果として、私の人生は見るも無残なものとなってしまったので、このくらいの苦言を呈するくらいは許してほしいものです。
うろ覚えで申し訳ないのですが好きな小説の台詞にこういうものがありました、聖人と呼ばれる境地に達すると体中が寄ってきた鳥の糞まみれになる、と。
もちろんこの話はだから良心でバランスをとって、時には悪いこともしなければならないという話ではあるのですが、ここで主張したいのは真逆のことになります。
つまり体中を糞まみれにされたところで何が悪いのか? と言いたいのです。
人生とは糞の擦り付けあいである、というところが私の価値観に近いでしょうか。
その上であなたに聞きたいのは、あなたは自分が糞まみれにならないためならば、他人に糞を擦り付けることをいとわないのでしょうか?
一時の快楽のため、あるいは自分のストレスを押し付けるために他人に暴言を吐いたり、傷つけたりすることを何の問題もないと思っているのでしょうか。
私はそうではないと信じたいと思っています。
他人を傷つける行為を咎めた際に、相手から直接的に他人のことを気にするなんて馬鹿だ、自分のことが一番大事なんだと言われたこともありますが、そうなのでしょうか?
私はそうは思いたくないです。他人に害を振りまいて手にした幸福に意味がないとまでは言いません。ただ、その周囲への害は本当に気にしなくてもいいものなのでしょうか?
私はそうではないと思うのですけれど、ついぞ同意を得られたことがないのですよね。
あるいはこれは何か私の特別な性質なのだろうかとも考えたこともありました。
幼少期にストレスの多い環境に置かれていたことから、こういう性格になったのかとも思ったこともありました。ただそういうわけでもないようです。
ここで断言しておきたいのですが、ひどい目に遭った人間が優しくなれるというのは嘘です。
被害者であった人間を助けたところで、その人が平気で次の加害者になるところを私は何度も見てきました。
結局のところ私の心をもっとも傷つけたのも、そういう一連の出来事でした。
つまり私のこの理想主義的な態度はどうも珍しいもののようです。
あるいは私がそう思いこんでいるだけで、私の態度も他の人々と同じようなものなのかもしれません。さすがにそうではないと思いたいのですけれど。
たださすがにこの世に私ひとりだけがこういう性分というわけでもないと思います。なので手紙を書いてみようと思い立ちました。
あなたがどちらの側なのかはわかりません。この手紙を読んで、私に共感するのも指をさして笑うのも自由です。
手紙というもののいいところは、相手の反応が見えないところですからね。私も自由に書かせて貰おうと思っています。
私の無意味な人生について語りましょうか。
例えばアカデミックハラスメントから後輩を庇った結果退学せざるを得なくなった大学時代について、例えばどうせ相手の会社にはわからないからと適当な態度をとった上司に反発して冷や飯を食べる羽目になった会社員時代について、語るべきことはいくらでもあります。
すべてが上手くいかなかったといってもいいでしょうし、何度も指をさして笑われてきました。
でもだからと言って、指をさして笑う側になりたいとも思わないのです。
あなたはどうでしょうか?
自分がハラスメントを受けないためなら、教授と一緒になって後輩にハラスメントをするでしょうか?
会社で冷遇されないためなら、不正な商品を販売することもいとわないでしょうか?
つまり自分が幸福であるためならば、他人に不幸を押し付けることは許されると思っているでしょうか?
私はあなたがそうではないと信じたいと思っています。
さてここまで来てようやく本題に入れる気がします。
なにせ自分でもなにがなんだかわからないまま書き始めているので、話が右往左往していることについては申し訳ない気持ちです。
私はこの手紙がきっとどこかにいる同じような気持ちを持った人に届けばいいなと願っています。
つまり何が言いたいのかというと、もしあなたが同じ目にあう覚悟があるというのならば、私はあなたに連帯を表明したいということです。
私の無意味な人生とちっぽけな意地について聞いて、あなたはどう思いましたか?
同じ目に遭いたくないというのも自由ですし、なんなら指をさして笑ってくださってもかまいません。
ただ、それでももしもあなたが人を傷つけないことを選択するのであれば、自分の身に起きた不幸を自分の身ひとつで受け止めることを選択するのであれば、私はあなたに最大限の尊敬をささげることでしょう。
あなたの人生に私ができることは残念ながら何もないのですが、せめて敬意だけは伝えたくて筆を取らせていただきました。
この手紙がもしも誰かの力になることができれば、私の無意味な人生も少しは救われるような気がしています。
お互い選ぶ道によっては苦しいことばかりかもしれませんが、人生をがんばりましょう。
それでは。
手紙 庸 草子 @you_soushi
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