第六話 「夕暮れの運動場」

 鈴虫の絨毯の上に、我々はいる。もはやどこから鳴き声が聞こえてくるのかもわからない有様で、上下左右の感覚すら失われそうだ。

 頭の上に落ちてきた鈴虫を払いのける。もう手慣れたもんだ。いずれコヤツラに喰われて、骨だけになるとしても、それはまだ先の話だ。蠱毒こどくの中の壺のようにみっちりと埋まるかと思われた状況も、思ったよりは遥か先のことのようだ。

「ハネセン、……状況確認をしてみない?」

 冷静な三浦シモンの声に、私は少しだけ頼もしさを感じてしまっている。

「ああ、どうやって?」

「スマホのライトを点けてみる」

「いやあ、見たくないッ! ——え、スマホ? 持ってんの、おまえ?」

「令和ボーイが片時たりともスマホ手放すわけないでしょうが」

「ボーイでもガールでもなんでもいいけどさ、……助け呼べよ……!」

「繋がらないんだよ! 圏外みたいで」

「え、いつのまに。いくら鈍い俺でも、この暗闇の中スマホ使われたら……気づくよね?」

「知らんがな。でもポケットの中でブラインドでいったから、明るくはなかったはず」

「ブラインドっていまはいっちゃいけないんだぞー、タッチ……? タイプでいいのかこの場合も。タッチフリック?」

「細けェこたぁいいんだよ! ハネセン、点けるよ!」

 虫達の蠢く音とは違う、ささやかな衣擦れの音がした後、ライトが点った、


 ぎゃああああああ! キモいキモいキモいキモい、黒い毛足の長い絨毯がうねってるみたいだったぞ! 消せ、消せ!


「……やめてくれよ、俺、集合体恐怖症なんだよ……」

「……っちゃった」

「え、なんだって?」

「少しだけちびっちゃった、……かも」

 天使が通った(鈴虫の上を)。

「あはははは、やーい、おしっ娘(?)、考えなしー!」

 返事はかえってこない。

 ありゃ。怒らせたか?

「……それはそれとして」ことのほか三浦の声は落ち着いていた。「怖くて目を背けた上部に、濃さの違う闇があった」

「ん? どゆこと?」

「うーん、どうかな……おそらく二階ぐらいの高さの位置にその闇はあって、つまりそれがこの部屋の高さなんだと思う」

「ふむ」

「虫達は天井から落ちてきているわけではなくて、あの闇——ダクトから吹き出している、んだと思う。多分」

 なるほど。

 はからずも最初に抱いた印象の、ゴミ箱というのは案外いい線だったのかもしれない。

 ここは拷問の部屋でも蠱毒の実験場でもなく、単なる廃棄場。

 そう考えると、鈴虫達のうるさいほどの鳴き声も、どこか哀切な響きに聞こえないこともない。いや、うるさいだけだな。

「しかし、なんでこんな大量の鈴虫が……」

「鈴虫って食えるんだよ」

「マジかよ! そんなこと言い出すのは誰だよ! 爬虫人類レプティリアンか⁉︎」

「そう、かも……」

「?」

「人の命は地球より重い、なんてさ。羽根より軽く命をほふってきた人類の、単なる反動にしかすぎないんだよ……」

「おい、どうした? 雄っぱい揉む?」

「コオロギなら少量の飼料で済むからコスパも良いし、将来的な展望があるとかさ……そんなこと言い出す奴はマジ、レプティリアンか、自分の孫の住む世界すら考えられない、自己愛と金の亡者だよ……。コオロギなんか食うとアレルギーで死ぬこともあるし、流産しやすくもなるらしいから、もしほんとに人類を滅亡させたい集団がいるなら、さも先進的なんですよという爽やかな笑顔でコオロギ食材を採用するかもね。じゃあ鈴虫なら、ってことになるかはわからないけど……」

「おい? 三浦シモン?」

「とりあえず!」

 パン! と小気味の良い音が響いた。鈴虫も驚いたのか、その音はこの密閉空間に気持ちよく伝わった。頬を叩いたのだ、と気づいた瞬間、三浦は快活に言った。

「そこらへんの話はさておき、脱出口あってよかった!」

「え……?」

 どこに? どこに脱出口が?

「さっき言ったろ、ハネセン。穴があって、そこから鈴虫は来るって。つまり、そこを抜ければ外へ——おそらく出られる。一瞬だったから定かではないけれど、人が通れる大きさはあったと思う」

「えぇ……。云うは易しだけど、二階ぐらいの高さの位置にある穴へ……? どうやって登るんだよ……」

「わたしがハネセンの肩の上に立てば、あるいは……」

「無理無理無理無理! 肩の上に立つって中国雑技団かよっ!」

 その時、一迅の風が吹いた。降ってきたのは鈴虫ではなかった。頭にバチンと当たって私はあイタと悲鳴をあげた。

 小さき軽きものどもではない。

 もっと質量の、存在感のある——!

「ひゃあ蛇!」

 鈴虫を大量虐殺ジェノサイドするのも構わず、私はジタバタしたが、対照的に三浦は冷静な判断を下した。

「これは縄……縄梯子だね……」

「マジ? 助かるゥ、捨てる神あればなんとやらだな!」

 つるつる滑る垂直の壁面を登るには、単なる縄では難しかったろう。

 よくこの状況を把握する誰かが、ここに縄梯子を送り込んでくれた。敵か味方かは、まだわからない。ただ、この施設のことは間違いなく知ってるはずだ。


 三浦も相当ヘバッたようだったが、私はその比ではなかった。自重というのは、重力というものは、それだけ大きな過負荷なのだ。

 這い出て、そこは慎重に外の状況を確認して、三浦は転がり出た。私もあとを追う。

 もう夕方だった。

 そんな長い時間あそこに閉じ込められていたのかと思うと、考えるだけでフラフラしてくる。

 運動場の片隅、旧校舎よりはよほど本校舎に近いあたりの、焼却口から、我々は外の世界へまろび出たのだった。

 芝生の上でぐでーっと伸びて、ハアハアと荒く息を吐く三浦の頬が紅く染まっていた。

 私はそのすぐそばに、五体投地のような格好で崩れ落ち、外の空気のおいしさとは、排ガスやスモッグなんかお構いなしに、ただそれだけで成り立つものだと、ゼエゼエ言いながら考えた。

「とりあえず……よかった……」

 私の心からの嘆息に、ふふふ、と三浦が笑うのが聞こえた。

 私も釣られて笑って、せた。

 明日に繋がる今日ぐらい、無様でもなんでも、笑い飛ばすぐらい許してくれ。

 兎にも角にも、我々は最底辺ボトムズから抜け出したのだ。



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