第2話
春の色合いは、まるでゴッホのひまわりをキャンバスに描き出したようであった。菜の花が美しく咲く季節だった。君との出会いからいくばくかの時が流れていた。僕は会社の上司から繰り返し取引先を回る営業を押しつけられていた。うんざりしていた僕はいわば会社という小さな枠組みから解放されたくて退職した。もともと、音大を卒業していたこともあったので、調律師への道を歩み始めたのだ。
調律師としての仕事ぶりが評価されたのか、格式ある家の一回り大きなグランドピアノの調律をすることが多かった。ピアノの堂々たる姿に繊細な音が僕を魅了してくれた。これこそが僕の道だと確信した。その音は僕の心の音と共鳴しあった。
そんな時だった。ある良家のピアノ室から、どことなく聞いた声があの日の柔らかい想いと共に響いた。廊下から聞こえてきた瞬間、君の姿が僕の脳裏にくっきりと映し出された。
「お父様、そろそろ調律が必要ですね」
「ああ、今、調律してもらっている。そろそろ夕食の時間だから」
「わかりました」
今まで鳴らしていたピアノの音色が君の色に染まるのがわかったんだ。君と僅かながら共にいた空間が思い起こされたんだ。
僕は再び君と会いたいという気持ちが芽生え始めた。意外とそれが形になるのは早かった。その日に限って調律が上手くいかずに時間を要していた。そこに君が現れた。窓辺から見える夕日に、君はあの時と同じように紅色に染まっていた。僕は一瞬にして魅了された。
「あなたは、あの時の……」
君は言葉になっていなかった。そして僕も僅かながらの時に言葉を失った。すると人懐っこい表情で僕に言葉をかけた。
「調律したばかりなのですね。少しだけ弾いてもいいですか?」
僕は断る理由はなく君の弾く音色に耳を澄まして聴きいってしまった。
「このショパンのマズルカは上手く表現できなくて困っています」
「そんなことはないよ」
「そうでしょうか?」
「ああ、上手く弾けていると思うよ。どこが気になるのかな」
「マズルカでも憂いのあるフレーズがあるでしょ。そこがどうしても上手く表現できないの」
その時の表情はどことなく影を帯びているようで、今思えば君の病を暗示させるものだったよ。
第3話へ続く
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