惚れた相手は裏垢女子だし部長はいつも燃えてるし、副部長は有名人。

4kaえんぴつ

第1話

 ――高校二年生の朝陽あさひ藍墨あすみは、自らを非凡な人間だと考えている。


 これは傲慢で不確かな自己評価ではなく、経験や実績を総合的に判断した上での客観性を意識した自己評価だ。


 中学校は殆ど不登校も同然ではあったが、高校での成績は六教科八科目で最高評価を一年生から二年生の六月下旬に至る今まで維持。無論、副教科も高水準であり、特に保健体育においては類稀な運動能力を発揮して注目を集めている。


 現に最近、女子バレー部から大会の助っ人要請があった。


 それでいて、広く浅くはあるものの友人も多い。顔を合わせたら軽く声を掛け合う程度の間柄の友人が同学年に何割か。性格も善良であるため、困った時に頼られやすい。


 無論、本当に困っている人間に頼られれば、藍墨は迷いなくその相手を助ける。


 そんな性格もあってか――今日のように特別な思いを寄せられることもしばしば。


 午前八時十五分。その日、藍墨は登校してすぐ隣のクラスの女子に呼び出された。


 場所は四階から屋上へと繋がる階段の踊り場。屋上は生徒の立ち入りが禁じられているため、ここを通る生徒は滅多に居ない。


「あの、以前から気になってて……す、好きです! 私と付き合ってください!」


 緊張に染まった女子生徒の瞳には藍墨の姿が映っている。


 朝陽藍墨の背丈は高校二年生女子の平均よりは僅かに高い程度だ。スカートこそ折らないものの、ブラウスの第一ボタンは外され、リボンの結びは雑だ。外見に無頓着そうな第一印象に拍車をかけるのは、無造作に伸ばされたミディアムヘア。真っ黒なその髪は左側が少し長めで、右側には質素な黒のヘアピンが三つ並んでいる。


 そんな藍墨は今、ひどく困った顔で腕を組んでいた。


 理由は明白だ。目の前の彼女に見覚えがあるのに、その名前が思い出せない。


 ――『誰だっけ』という言葉を必死に飲み込んだ藍墨は、冷や汗と笑顔を浮かべる。


「ごめん、まずは名前から訊いてもいいかしら。ラブレターに記名が無くて……」


 一縷の望みに縋るように言い訳がましく相手の不備を指摘すると、女生徒は『しまった』と言いたげな顔で口を押さえる。「ええと」と焦りながら自己紹介をしようとした彼女だが、ふと、錆び付いたように動きを止めると、泣きそうな顔で藍墨を見た。


 ぎく、と肩を震わせて目を逸らす藍墨に対して、彼女は震える声で言う。


「わ、私の名前……し、知らない? 一応、一年の選択美術で一緒だったんだけど……」


 今度は藍墨が焦る番だった。冷や汗を滲ませながら必死に思考を巡らせる。


「選択美術……あー、待って! 思い出せるかも。ま、松岡? そう、松岡!」

「松岡君はウチのクラスの男子だと思う」

「山口だ! 山口でしょ、覚えてる、山口ね」

「山口は先生の名前じゃないかな」

「長瀬!」

「ち、違うよ。全然関係ない」

「国分だ!」

「ねえTOKIOでローラーしてない⁉」


 流石に堪忍袋の緒が切れたらしく、女子生徒は声を荒らげて藍墨を糾弾する。


 何故だかパッと思い浮かんだのがそれだったのだ。藍墨は流石に申し訳なくなって拝むように手を合わせ、殊勝に、深々と頭を下げた。


「ごめん、ギブアップ。名前を教えてほしい」

「城島です」

「TOKIOじゃねーか!」


 道理でメンバーの名前が次々に浮かんできた訳だ。


 思わずツッコミを入れた藍墨へ、城島は恐る恐る手を差し出す。


「わ、私と一緒の船を漕いでくれますか!」

「……ごめん、アンタにあたしのオールは任せられない」


 彼女の乗った宙船をそっと見送ると、「わーん!」と城島は泣き去った。


 しかし、名前を覚えていなかった上で振るなど、悪いことをしてしまった。


 さておき、踊り場の窓から覗く太陽は少しずつ上り始めている。間もなく始業だ。あんまり罪悪感に浸っていても仕方が無いので、藍墨は教室へ向かおうとする。


 ふと、踊り場の閉まっている窓から、校舎裏の生徒の声が聞こえてきた。


「やばいやばい、急がないと遅刻する!」

「ほら急いで! 部長の私が怒られるんだから!」


 練習着を着た女子生徒数名が体育館裏口から大慌てで飛び出し、騒ぎながら昇降口へと向かっていく。女子バスケットボール部だろう。弊校はインターハイ常連の強豪校で、今年も既に出場が決まっているとのこと。薄っすらと浮かぶ汗は青春と情熱を秘めていた。


 藍墨は唇を結んでその後ろ姿を眺めた後、一度瞑目し、それから窓際をそっと離れた。


 さっさと教室に戻ってしまおう。そう思って階段を下りると、数学準備室から三階の二年教室へ向かおうとしていた担任に出くわす。


「おっと、丁度いいところに」


 上背に無精髭が目立つ四十代半ばの男性教師だ。名前を藤岡。白髪混じりの短髪だ。


 二年A組の、つまり藍墨の担任であり、同時に数学科の教師でもある。


「おはようございます。荷物なら持てませんよ」


 軽く会釈をしつつ白い目を向けて先手を打つと、藤岡は頬を引き攣らせる。


「担任への朝の挨拶に続ける言葉がそれか。俺ってそんなに生徒ガキづかいが荒いか?」

「生徒と書いてガキとルビを振る教師がまともな道理が無いじゃないすか」

「省みるよ、新垣ガッキー

朝陽あさひです」


 軽口も程々に、藤岡は折り畳んでポケットに詰めていた紙を歩きながら取り出す。「それは?」と藍墨が警戒心を覗かせると、彼は教師らしく一度広げてから藍墨に差し出す。


「お前、先月だか先々月だか、女子バレー部の助っ人に入っただろ? 顧問とキャプテンが偉くお前を気に入ったらしくてな。今すぐ入れとは言わないが、今一度部活見学に来てくれないかと俺に頭出しをしてきた。これは預かったメモだ。お前に渡せと」


 受け取ったメモを眺めると、そこには顧問の直筆のメッセージ。手紙だ。


 曰く、女子バレー部は選手層が薄いこと。人数は足りているが戦力はまだ不足気味。今年こそは好成績を取りたいから、正式に入部をしてくれないか、とのこと。


 「ふむ」と小さく唸った藍墨は、一瞬の逡巡に目を瞑り、そして溜息と共に紙を四つ折りにしてスカートのポケットに仕舞い込む。藤岡は肩眉を上げた。


「乗り気じゃなさそうだな?」

「気が向いたら引き受けます。それまでこの手紙が残っていれば」

「安心しろ。念のためパソコンにコピーを取ってある」


 やれやれと藍墨が首を左右に振ると、藤岡は幾らか真剣に藍墨を見た。


「……冗談はさておき、お前の成績は学年でも上澄みだ。運動は言わずもがな。社交性だってある。人格に問題も無い。ただ――時間を持て余しているようにだけ見える。担任として、それから一人の社会人としてそれが心配だ。何か始めてみる気はないのか?」

「それでバレー部に入ってみろと?」

「バレー部でなくてもいい。何だっていいんだ、何かに打ち込んでみろよ」


 藍墨は悩ましそうに顔を歪めて視線を前に戻し、数秒後、溜息を吐いた。


「まあ、気が向いたら考えてみます」

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