「どうだい、チャップリン」

篠崎亜猫

「どうだい、チャップリン」

 ドアを開けると、マサヒコの部屋は真っ赤であった。真っ赤な部屋の真っ赤な畳に敷かれた真っ赤な布団にマサヒコが、こちらを向いて横になっていた。敷布団がぴたりと沿っている壁についた窓の大きくひらいているのが、カーテンの膨張具合でよくわかった。むうっと迫力のあるにおいを纏った空気が顔面を押してくる。逆光になっているせいで、マサヒコは全体的に黒く、落ちくぼんだ色をしている。暑さからか、マサヒコなりの汚れへの配慮か、彼は下着しか身に着けていなかった。

 ツクツクボウシによる蝉時雨と昼の太陽が残していった蒸し暑さでしとどに濡れたナオハルは黙って、ごちゃごちゃとルーズリーフが広げられた折り畳み机に、缶ビールの入ったビニル袋を置いた。想像より柔らかい音がして、缶が、ナオハルと同じぐらいに汗をかいていることが察された。


「エアコン入れろよ。熱中症になるぞ」

「一応、風通しはよくしているつもりだけれど」

「ばか。これじゃ外と気温が全く同じだ」


 眉をひそめたせいで、目に汗がしみた。ナオハルは舌打ちをして、前髪を掻き上げる。額がむき出しになるだけで、すっかり涼しくなった気がした。プラセボもいいところだ。そんな自分の単純さがこの部屋に似合わなくて、少しだけ笑えた。


「なあ、シャワー借りていいか? いや、それともこの場合、お前を先にした方がいいんだろうか」

「さあ、僕だって、処置に詳しいわけではないから……」

「へえ!」


 ナオハルは叩かれたような声を出して、噎せ、「ワリ」と雑に断ってから「先、もらうわ」と、畳のなるべく汚れていないところに座って、缶ビールを開けた。


「俺はまた、こんななことは、詳しいやつだけがやるんだと思っていた」

「あはは。けったいとはまた、言うね」

「だってそうだろう。リストカットなんて成功率の低いもの、気が違ってなきゃやらない」

「成功率ねえ……」


 口に含んだビールは、案外まだきんきんと冷たかった。緊張と同じ温度だった。マサヒコは鼓動みたいに重い声で笑い、「僕がそんなたいそうなものに見えるかい」と言う。


「ナオハルはいったい、どういうきちがいを想定しているんだろう。つまらない洋画に出てくるような、純粋な、快楽目的の殺人鬼?」

「ああ、お前みたいなやつがそう思うんなら、そうなんだろうな」

「血を笑いの種にできる人種ってことだよ」

「じゃあなにか、お前は、その種をうまく育てられてしまうような人種……繁華街の路地裏に集まって、腕にイカ焼きを作っているやつらとかと一緒だってことか」

「やあ、面白い偏見だね。そういえば君は演劇サークルだろう、その才能で脚本でも書いたらどうだい」

「よせ。俺は役者がやりたいんだ、お前の同類になりたいわけじゃない」

「つれないね」

「つれなくて結構。俺はさ、普段の自分と違う、戦隊モノのヒーローとか、ビン底眼鏡のガリ勉くんとか、ひょうひょうとした柳みたいな文豪とか、そういう、どこまでもフィクションな役に沈んで、その人生の流れに酔ってしまうのが楽しいんだよ。それで十分さ」

「君は? 君自身はこれだけのものを見て、面白がったりしないのかい」

「なんだいそりゃ。どうもこうもないさ、血は血じゃないか。エンターテインメントじゃない」

「じゃあ君は、僕が今ここでじょろじょろと放尿しても、どうもこうもないさ、小便は小便じゃないか、なんて言うの」

「はあ、言うわけない」

「どうして」

「そんなもの、ここが便所じゃないからに決まってるだろ。それが本来あるべき場所にない、これだけで、人間は違和感を覚える……」

「それを言うなら、血はあらそいか医療の現場でのみ流れているべきだよ」


 マサヒコは粘度の高い笑顔になったらしかった。次ぐ身じろぎで、布団がガサガサと音を立てた。夕日がずんずん沈むので、それに連動してマサヒコの部屋もずんずん明度を下げていく。


「ここはいつから殺し合いの現場になったのかしらん……」

「……お前の趣味に引きずり込むのはやめろ」


 ナオハルはカッとなって低い声を出した。マサヒコの、乱暴で、配慮のないのが気に障ったのだ。ナオハルはあくまでマサヒコの友人だった。恋人とも違った。ましてやかかりつけ医でもカウンセラーでも、役所の公共福祉課の担当者でもなかった。金だってもらっていないのだ。自分の船に沈没寸前のマサヒコをつなげて向こう岸まで送ってやれるほど、ナオハルの人生は豪華でも、安定してもいなかった。折り畳み机の上のルーズリーフが、缶ビールの汗でふやけている。雑に殴り書かれた、凶悪犯によって美女が残虐な目にあわされているだけの薄っぺらいシーンの文字が、ぐにゃぐにゃと、彼女の涙のように滲んでいた。


「こうやってくだらない、きちがいじみた殺人小説ばかり書いているから、こんな……他人様からの借り物の部屋を……。けっ。こんなものでべたべた汚す羽目になるんだ」


 ナオハルは、その流れで机を殴る。存外、重くて大きい音がした。缶ビールが倒れた。シャープペンシルが落ち、マサヒコが「あぁう」と、掠れた泣き声のような音を出した。


「違うよ、それはあくまでコメディ、いやあ、大衆娯楽……」

「つまり、お前には自分の考えを相手に伝えるだけの能力が、足りないってことだな。どれだけ格好つけたところで、お前はどこまでも、空気が読めない陰キャのコミュ障なんだよ。お前が行くべきなのは空想の世界じゃなくて大学だ。他所様の人生を考える暇があったら自分の明日を考えろ。探偵職の主人公の食い扶持を考えるアタマがあるならバイトの面接に行くべきだ。いない人間の恋愛を成就させる言葉をもっているなら、まず目の前の人間と対話しろ」

「君は容赦ないね」

「俺は情けないよ……」

「うふふ、あはは、君にとってはそうかもしれない。そういえば、ナオハルは何をしに来たんだっけ……」

「……お前が連絡をよこしたんだろ。笑ってほしいとかなんとか言って」

「ああ、そうだね、そうだった」


 マサヒコの腕の上で焼かれているイカに乗った血餅が気味悪くぶよぶよしているのが、ほとんど夜に近い、断末魔みたいな夕日の残骸に反射していた。想定より元気に立ち上がったマサヒコは、ぐらぐらと不安定な歩き方をしながら部屋の隅にわだかまっていた、染みの付いた肌布団を剥ぎ、身体に巻いた。窓枠に座る。脚をサッシに上げる。陰部に、私はただの影ですというように、黙って下着が張り付いていた。


「どうだい、エンターテインメントになっただろう」

「暗くてなんにも見えねえよ」


 ナオハルは立ち上がり、マサヒコの横へ身体をねじ込んだ。ライターは主人の機嫌を察知して一度で火を点した。パサパサした副流煙がマサヒコにも絡みつく。「部屋で吸わないでほしいなあ」とナオハルを咎める彼の声は、確かに笑っていた。

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