第一章 花菫の秘密 ⑨
状況から、金貴人は展望台の階段から足を踏み外して落ちたと思われた。密集する蓮に足を取られ、また深夜で灯りもなかったことから、気が動転して溺れ死んだらしい。
金貴人の死は、ある事情から即座に箝口令がしかれた。
事件のあった夜。夜更けに金貴人の宮まで籠が迎えに来て、貴人は侍女もつけずに一人で出かけたらしい。それは逢い引きであることを意味する。
夜中にそっと抜け出して、奇巌城の展望台で夜を過ごす恋人たちは少なくない。宮女と太監、または宮女同士、太監同士。人知れず恋仲になり、人目につきづらい夜の百花園でむついでいる。それは後宮という閉鎖空間で寂しい日々を送る者たちの、ひとときの慰めだ。暗黙の了解として、見逃されている。
だが、皇帝に嫁いだ妃となると話は違う。不義は死罪だ。夜の百花園で死んだことが公になれば不義を認めたも同然で、その咎は一族にも及ぶ。
金貴人の父は軍機処の大物で、それをよしとしなかった。娘を病ということにして冷宮に遺体を運ばせ、そこから秘密裏に外へと持ち出した。冷宮は病気などで仕えることができなくなった妃嬪を閉じこめておく場所。つまり、表向き金貴人は死んでいないということにして、不義の事実をもみ消したのである。
だが、この処遇では葬式を出すことも、先祖の墓に入れることもできない。
自業自得とはいえ、あまりに悲惨な末路だった。
◇◇◇
「配給品届いてないんですけど⁉ あとこの間の茶葉、湿気ってたわよ!」
内務府に怒鳴りこみ、碧玉はやっと白粉とまともなお茶を手に入れた。
ぎろりと太監たちをにらみつけて外へ出る。
(……許せん! 花菫様をバカにして!)
麗妃に目をつけられたことが知れ渡ると、水月宮はますます軽んじられるようになった。
食事も日に日に粗末になっていくし、純常在が気遣って菓子や点心を届けてくれなければ、飢え死にしてしまいそうだ。
(あとで尻尾を振ってきたって、遅いんだからね! 花菫様を絶対に正室にしてみせるんだから!)
碧玉が必死になるのは、自らのためだけではない。碧玉は都の役人の娘で、父は下級官吏だったが暮らしぶりは派手だった。役職を利用して周家の商いに都合をつけるだけで、そこそこの見返りを手に入れてきたからである。そのため周家が傾くとすぐに困窮し、甲斐性のない父親は、年頃になった碧玉を五十歳年上の金持ちと結婚させようとした。
その話を聞いた花菫が不憫に思い、「俸禄も入るゆえ、碧玉を侍女に」と申し出てくれなければ、祖父と同い年の老人に嫁がされるところだった。碧玉は「初夜の前に死ぬ」と決めていたので、いわば花菫は命の恩人だ。
ドスドス歩きながら水月宮まで戻ると、花菫は静かに刺繍をしていた。
「おかえりなさい」
碧玉に気づくと、視線を上げずにほほ笑んだ。
花菫の丸く大きな瞳は自分と同じ菫色で、ふちどるまつ毛は驚くほど長く、紅を差した小さな口元がいかにもはかない。ほっそりとした首もたよりなげで、抜けるような肌の白さは冬の長い奥州ならではだろう。そして清楚な笑みは、女の碧玉にも刺さる。
かわいい。これほどかわいいのに、花菫は自分に自信がない。いつも半眼で人の目を避けるようにしている。もったいないことこの上ない。
(お父上が亡くなって、ご苦労されたのね……)
碧玉が初めて花菫に会ったのは、花菫の父が死ぬ前の正月。五歳になるかならないかの頃だ。
都での買い付けに周家総出でやってきて、二か月ほど滞在した。
あのときは本当に楽しかった。花菫と毎日遊んで、同じ部屋の同じ布団で寝た。花菫の父が二人におそろいの着物と、花菫には菫色の簪、碧玉には瑠璃色の簪を買ってくれた。姉妹のように仲良く過ごし、別れのときはお互い泣いて離れようとせず、ほとほと困ったと母に何度も聞かされた。
今の花菫からは信じられないが、あの頃はお転婆な碧玉よりもさらに活発だった。
庭で二人で遊んでいたら、野犬が迷いこんできたことがある。碧玉が悲鳴を上げて逃げ出すと、黒い野犬はつられるように、その後を追いかけてきた。
襲われる! そう思った瞬間。花菫がその野犬の前に走り出て、「めっ!」と怒ったのだ。そのひとことで犬は気圧され、すごすごと退散していった。
くるくる動く大きな瞳と、とてつもない度胸を持った勇敢な女の子。
きっと強くて明るくてかっこいい女性になっているに違いない。そう思っていた。
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