第10話「温泉旅行と混浴」

迷宮の奥深くで張り詰めていた緊張感から解放され、俺たちは温泉へ旅行に来ていた。木の温かい香りが鼻孔をくすぐり、畳の懐かしい匂いが全身の力をゆっくりと抜いていく。迷宮で嗅いでいた土や血の匂いとは真逆の、心の奥まで安らぐ匂いだ。


「わーい! 温泉だー!」


ルナが獣耳をぴこぴこと揺らしながら、旅館の廊下を走り回る。尻尾がまるで飛行機のプロペラのように嬉しそうにパタパタと左右に振られる。その姿は、迷宮で見せる鋭い表情とはかけ離れた、無邪気な子供そのものだった。


「ルナさん、走っては危険ですよ! 転んで怪我でもしたら大変です!」


アリスが慌ててルナを追いかける。その声は、迷宮で俺の怪我を治してくれた時の優しさとはまた違う、まるで母親が子供を心配するような温かい響きを帯びていた。


「ケンイチ、あなたは冷静ね。私たちがこれほど浮かれているのに、まるで動じないわ」


エリーゼはそう言いながら、俺の隣に立つ。彼女の言葉は、まるで俺の内心を試すように、冷たさを纏っていた。その冷たさに、俺の心は一瞬だけ過去の記憶を呼び起こす。まるで、迷宮の奥で見た魔物の瞳のような――。


「俺は、お前たちといると心が落ち着くからな」


その言葉は、俺の思考の暴走を寸前で食い止める「安全装置」だった。まるで、ゲームのボス戦で覚醒技を使うタイミングを逃した時のように、わずかに空気が硬直した。


エリーゼは一瞬、俺の顔をじっと見つめ、そして、ふっと視線を逸らした。その頬は、夕食の時に飲む酒よりも早く、淡い桃色に染まっていた。彼女の冷たい言葉の裏に隠された、熱い感情の「助走」を俺は確かに感じ取っていた。


仲居さんが「当館には混浴の露天風呂もございます」と告げた瞬間、三人はまるで示し合わせたかのように同時に俺の顔を見た。


アリスは耳まで赤くして顔を伏せ、ルナは目をキラキラと輝かせながら俺の腕に抱きついてくる。そして、エリーゼは静かに、しかし抗えない笑みを俺に向けていた。俺の心臓は、迷宮で強敵に遭遇した時よりも激しく脈打っていた。


「さあ、みなさま、夕食のご用意ができました」


仲居さんの声に導かれ、俺たちは食堂へと向かう。テーブルには豪華な懐石料理がずらりと並んでいた。湯気の立つ茶碗蒸しからは出汁の香りがふわりと立ち上り、新鮮な刺身は宝石のように輝いている。そして、食欲をそそる香ばしい匂いを放つ和牛のステーキ。迷宮で携帯食料をかじっていた日々が、遠い昔の出来事のように思えた。


「わーい! お肉だー!」


ルナは歓声を上げると、他の料理には目もくれず、和牛のステーキに飛びついた。まるで、目の前にいるのが魔物であるかのように、一切の躊躇なくかぶりつく。


「ルナさん、お肉ばかりでは栄養バランスが偏りますよ! 野菜もちゃんと食べないと…」


アリスは優しく注意するが、ルナは肉を頬張りながら「むにゃむにゃ」と何かを呟くだけで、聞く耳を持たない。ルナが肉を平らげ、満足そうにお腹をさすると、俺は彼女の腹がほんの少しだけ膨らんでいるように見えた。


一方、アリスは小鳥のように上品な仕草で食事を進めていた。しかし、彼女の視線が何度もシチューへと向けられていることに、俺は気づく。アリスは少し恥ずかしそうに、「あの、これ、もう一杯だけ…」と小声で仲居さんに頼み、結局三杯もお代わりをしていた。迷宮では見せない、彼女の甘味に弱いという意外な一面だ。


そして、エリーゼは静かに日本酒を一口飲む。その瞬間、彼女の白い頬が、まるで桜の花びらのようにほんのりと赤く染まった。俺は、彼女が酔った姿を見るのは初めてだった。普段の冷徹な仮面が剥がれ落ち、そこには熱を帯びた、別の顔が隠されているようだった。


「ケンイチ、この酒は…」


エリーゼがそう言って、俺の顔を見つめる。その瞳は、いつも以上に熱い視線を俺に送っていた。まるで、俺の心臓の「熱」を測ろうとしているかのように、じっと見つめてくる。


俺の内心では、思考の暴走が始まっていた。


(……このシチュエーションは……まさか……JRPGの定番、宴会イベントってやつか!?)


思考のベクトルが、物語の「必然性」ではなく、過去の経験という「記憶のデータベース」へと強制的に切り替わる。


(絶対にフラグだ! 夕食で酒を飲むヒロイン、肉に夢中な獣人、甘いものに目が無い回復役……これは、物語の王道パターン! 俺の人生、もしかして、誰かにフラグ管理されてないか!?)


興奮と不安が入り混じった熱が、俺の頭の中を駆け巡る。その思考の暴走が最高潮に達した瞬間、足元で何かがもぞもぞと動くのを感じた。


食卓の下では、ルナの尻尾が俺の足に当たり、まるで「早く風呂に行こう」と急かすかのように優しく左右に振られていた。その動きに、俺の思考は一旦「現実」へと引き戻される。


食事が終わり、俺たちは部屋へと戻る。風呂の準備を始めると、ルナが「タオル忘れた!」と叫び、俺の腕に抱きついてくる。アリスは、慣れない浴衣がはだけそうになり、慌てて両手で胸元を押さえる。


「…無駄な接触は非効率よ」


エリーゼはそう言いながら、俺の隣に立つ。彼女の言葉は普段と変わらないはずなのに、なぜか今日は少しだけ甘く聞こえた。そして、浴衣姿の俺を見つめる彼女の瞳には、ほんのわずかな「熱」が宿っているように見えた。


三人の間で、「誰が一番に入るか」という無言の争奪戦が勃発する。


ルナは「ケンイチくん、一緒に行こう!」と俺の腕を掴み、アリスは「ルナさん、待ってください!」と叫びながら俺の反対側の腕を掴む。そして、エリーゼは静かに俺の背中に手を置き、まるで「私がエスコートするわ」とでも言うように微笑んだ。


結局、俺は三人に腕を掴まれ、まるで迷宮のボスを囲むように、全員で混浴へと向かうことになった。


湯船に足を踏み入れると、熱がじんわりと肌を溶かし、全身の疲労がゆっくりと抜けていくのを感じた。檜の良い香りが鼻腔を満たし、岩肌から流れ落ちるお湯の音が耳に心地よい。湯気で視界は曖昧になり、目の前の景色がぼんやりと霞んでいた。まるで、現実から切り離された夢の中にいるようだった。


「ケンイチくん、背中、流して!」


ルナがそう言って、俺の前に座る。彼女の背中は、まるで雪のように白く、滑らかだった。俺は、ルナの背中を優しく流してやる。その際、彼女の獣耳がぴくぴくと震え、尻尾が嬉しそうに揺れているのが見えた。


その動きは、まるで彼女の心臓の鼓動を可視化したかのようだった。


「ケンイチ…私の背中も…」


エリーゼが、俺の隣に座る。彼女の背中は、まるで氷のように冷たく、滑らかだった。俺は、エリーゼの背中を優しく流してやる。その際、彼女は一言も発さず、ただ静かに湯船に浸かっていた。その静寂は、彼女の心の奥に秘められた熱い感情の「助走」だった。


「…ケンイチさん…わたし…」


アリスが、俺の腕に触れる。その指先から、温かい光が流れ込んでくる。俺の体が、アリスの治癒の魔法で癒されていく。


(……いや待て! この流れは……)


俺の思考が、再び暴走を始める。


(…このセリフの先は…まさか告白!? いや、温泉で告白ってJRPGでも王道パターンだろ!? このまま聞いたら、絶対フラグ成立しちゃうやつだ!)


その時、まるで俺の思考の暴走に呼応するかのように、「ドォン!」と誰かが桶を倒す音が響いた。


俺たちは一斉に音のした方を向く。ルナが、足元に転がった桶を見て、ばつが悪そうに顔を赤くしている。


「ご、ごめん…」


ルナはそう言って、俺の前に座り直した。


俺の思考の暴走は、再び「現実」へと引き戻された。


(…あぶねぇ……! まさか、こんなところで告白イベントが発生するとは…! っていうか、湯けむりイベントのせいで、迷宮攻略がどんどん後回しになるんだよ! 俺の旅の目的、もしかして温泉旅行だったのか…!?)


俺の心の中で、理性と本能が激しくぶつかり合っていた。三人のヒロインの力に満たされながら、俺は至福と困惑が入り混じった、奇妙な夜を過ごすのだった。

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