第28話 礼が生む距離、愛が退く距離

 深夜。景澄ケイチョウの幕舎の中では、灯火がぱちぱちと揺れていた。


「殿下、確認しました。県令が送ってきた食糧には細工はありません。皆に配っても大丈夫です。」

 二は茶を注ぎながら、淡々と報告する。

「それから六にも伝令を飛ばしました。……おそらく今夜には下流の堤防が爆破されるでしょう。」


 景澄ケイチョウは卓上の書物をめくりながら、ふと遠くを見るような眼差しで口を開いた。

「……秋音シュウイン、どこかおかしい。好きではないのは分かっているが、それでも以前は一緒にふざけてくれていた。だが西都に来てからは、明らかに――私の話をまともに聞いていない。」


 珍しく真剣に秋音シュウインのことを口にした殿下に、二は茶碗を手に取り、自分にも一杯注いで腰を下ろした。

「殿下のアプローチってダメなんですよ。結局『顔』と『厚かましさ』、その二本柱だけ。パターンが単一!」

 顔。厚かましさ。単一。

 一語ごとに矢のように突き刺さり、景澄ケイチョウは思わず眉をひそめる。


「もし殿下の地位に興味のある相手なら、まだ耐えてくれるでしょう。ですが皇子妃殿下は、地位なんてちっとも欲しがってない……つまり彼女からすれば、殿下は退屈な人、ってことですよ。」


 二はずずっと茶をすする。

 景澄ケイチョウの鋭い視線が突き刺さった。


「ひいっ……ち、違いますよ!今のは『もしも』の話!私が殿下を退屈だなんて、一言も言ってませんから!」

 二は慌てて茶碗を置き、両手を振った。


 だが景澄ケイチョウの目は、「取り繕っても無駄だ」と雄弁に物語っていた。


「……そ、それに。皇子妃殿下は今、きっと災民のことを考えておられるんです。こんな雨の夜に恋愛だの何だのって、気分になれるわけないじゃないですか。」


 景澄ケイチョウはしばし考え込み、低く呟いた。

「……いや。秋音の心には、別の何かがある気がする。」


 外は滝のような大雨。

 その音を背に、秋音シュウインはそっと幕舎を抜け出し、傘を差したまま別の幕舎へ忍び込んだ。

許年キョネン。話があるの。」

 ぱん、と傘を払って畳み、柱に立てかける。その瞬間――視界に飛び込んできたのは、上着を半分脱ぎかけて固まる許年キョネンだった。


「あっ……ご、ごめんなさいっ!」

 秋音シュウインは慌ててくるりと背を向ける。


 許年キョネンは大急ぎで着直すと、頭をぶんぶん振って、何事もなかったように口を開いた。

「……お嬢様。どうぞおかけください。」


 秋音シュウインは顔を真っ赤にしたまま、後ずさりしながら横歩き――まるで蟹のように――椅子へ腰を下ろす。


「こんな時間に、わざわざ何のご用ですか?」

 許年キョネンは苦笑しつつ問いかけた。


 秋音シュウインは大きな瞳をきらきらさせ、わざと無邪気そうに身を乗り出す。

許年キョネン。あなたの背後にいる人……私、知ってるんでしょ?」


 わざとだと分かっていても、許年キョネンの心臓はどきんと跳ねた。思わず視線を逸らす。

「だって、あなたは私のことを『皇子妃殿下』なんて呼ばないで、ずっと『お嬢様』って言うじゃない。もしかして、あなたの後ろにいるのは父様?西都の軍営を混乱させて、沈家が謀反を起こそうとしてるんじゃないの?」

 秋音シュウインは両手をきゅっと握りしめ、親指をぎゅうっとつまむ。声が震えていた。


 許年キョネンは思わず肩をびくりと揺らし、秋音シュウインを振り返った。

 ……そうか。だからあの日、彼女は俺を庇ったのか。最近もよく視線を感じてたけど……全部誤解だったんだな。


「や、やっぱり図星?健やかな男子が、そんなにビクッとしちゃって!」

 秋音シュウインはさらに指をつまみ、顔を真っ赤にしたまま追い打ちをかける。


「へえ、俺が健やかな男子だって、ちゃんと分かってたんですね……それなのに深夜にこんなふうに俺の幕舎に来て、危なくないと思いました?」

 許年キョネンは苦笑しながら卓の上の布巾を手に取り、それで秋音シュウインの両手をそっと引き離した。

「布巾は清潔です。男女の礼は守ります。ただ、あなたが自分を傷つけるのは見ていられない。」

 添える声は、不思議と優しかった。


 秋音シュウインは彼の指先を見つめ、鼓動が速まっていくのを感じた。

 ……礼をわきまえて、直接は触れない。景澄ケイチョウとは全然違う。

 この人の背後にいるのは誰?もしこんなことがなければ――父様の言うとおり、きっと文で道を切り開いていける人なのかもしれない。


「……私の背後にいるのは沈尚書シンショウショではありません。そこは安心していい。ただ――誰かまでは言えない。」

 許年キョネンの真剣な言葉が、秋音シュウインの思考をぷつりと断ち切った。


「私ね、ずっと考えてたの。もしあなたたちが軍営を握ったら……水害が収まった後、府衙をも支配できる。少しずつ隣の城を侵食していくこともできるし、巡撫ジュンプ県令ケンレイをすり替えて都に戻り、皇帝を狙うことだってできる。

 あの日『全城の反乱』とあなたは言ったけど、雷みたいに大きな音だけして、すぐに景澄ケイチョウが鎮めた……あまりに順調すぎて、まるで仕組まれたみたい。あの県令ケンレイ巡撫ジュンプ、もうあなたたちの人間にすり替わってたんでしょ?」


 許年キョネンの目が初めて鋭く揺れる。

「……そこまで読んでいるのに、なぜ三皇子殿下に伝えない?やはり、私の背後が沈尚書シンショウショだと疑っているからか。違うと今ここで言った――それでも殿下に告げるつもりはないのですか?」


 秋音シュウインは小さく息をのみ、ふっと微笑みを消した。

許年キョネン、勘違いしないで。景澄ケイチョウに私の言葉なんて要らない。あの人はいつも、ひとりで謀を張り巡らせる。」

 そして真っ直ぐに彼を見据える。

「でも――あなたには言っておく。父も母も今も都で、あなたが科挙で状元を取る日を待ってる。だから、自分の道を見誤らないで。」

 傘を手に取り、彼の返事を待つことなく、秋音シュウインは背を向けて幕舎を後にした。


 その頃、景澄ケイチョウ秋音シュウインの姿を探して陣を歩き回っていた。

 二は「もう少し距離を取ってみては」と進言していた。熱心すぎると相手に息苦しさを与える、と。

 景澄ケイチョウは一応うなずきつつも、手には三皇子府特製の菓子箱を抱えている。結局、彼女に食べさせたい気持ちは抑えられなかったのだ。

 しかし、秋音シュウインの幕舎には小青シャオチンしかいなかった。行き先を尋ねても歯切れが悪い。仕方なく、景澄ケイチョウは自ら探しに向かった。


 そして――

秋音シュウイン……どうして許年キョネンの幕舎から出てくる?」

 大雨はすでに小降りになり、細かな雨粒が幕のようにふたりを隔てていた。景澄ケイチョウは傘を握りしめ、低い声で問いかける。


「話をしてただけよ。それ以外に何があるっていうの?」

 秋音シュウインは眉をひそめて言い捨てた。

「……ほんと、バカみたいな質問。」


 景澄ケイチョウは手にした菓子箱をきゅっと握りしめ、そして差し出す。

秋音シュウイン。ここじゃ口に合わないだろうと思って……出立の前に府の料理人に作らせておいた。お前の好きな菓子だ。」


 秋音シュウインはちらりと箱を見て受け取り、歩き出しながら振り返る。

景澄ケイチョウ。この菓子、子どもたちにも分けていい?まだ都の味なんて知らない子ばかりだから。」


「もちろんだ!」

 景澄ケイチョウは笑って答えたが、視線はどうしても許年キョネンの幕舎の方へ戻ってしまう。


 ……二の言う「距離」や「余白」を守るなら、これ以上は踏み込むべきじゃないのかもしれない。

 そう思いながらも、景澄ケイチョウの胸はざわついていた。


 彼が黙って傘を差し続ける中、秋音シュウインはふと足を止めた。

 菓子箱を開き、一つ取り出すと、くるりと振り返って景澄ケイチョウの口元へ差し出す。

「ほら。まずはあなたが食べてみて!」

 景澄ケイチョウは一瞬驚き、そしてゆっくりとかぶりついた。

 口いっぱいに広がる甘み。雨の帳の中、自然と笑みがこぼれる。


「……お菓子一つでそんなに嬉しそう。」

 秋音シュウインは呆れたように笑い、逆に彼の頭に手を伸ばして軽く撫でた。


 景澄ケイチョウは俯いたまま、どうしても抑えられず問いかける。

秋音シュウイン……さっき、彼と何を話してた?」


 秋音シュウインは一瞬だけ動きを止め、抱えた菓子箱をぎゅっと抱き締めた。

「言えない。でも……あなたを裏切るようなことは絶対にしない。」


「……分かってる。」


 秋音シュウインは首をかしげ、隣を歩く彼を横目で見上げる。

「おかしいわね。普段は口数が多くて、しつこいくらい喋るのに。今日は妙に静か。てっきり『焼きもち焼いてる』とか言うかと思ったのに。」


「……二に言われたんだ。私は秋音シュウインにべったりしすぎて、距離を与えてないそうだ。」

 景澄ケイチョウは少しだけ口を尖らせ、拗ねたように言う。


 ぷっと秋音シュウインは吹き出した。

「ふふ、景澄ケイチョウでも人の意見を気にするんだ。」


「違う。私に大事なのは、秋音シュウインの気持ちだけなんだ!」

 景澄ケイチョウは足を止め、傘を掲げたまま真剣な眼差しで彼女を見つめる。


 ……やっぱり口は軽い。でも、今の言葉は――本物だ。

 彼女はそう分かってしまった。


 もし許年キョネンが礼によって距離を守る人だとしたら――

 目の前の景澄ケイチョウは、ようやく愛を尊重という形に変えて、

 私に距離を与えてくれるようになったのかもしれない。


 ……愛?どうして私は、当然のように「景澄ケイチョウが私を愛してる」なんて思い込んでるんだろう。


 秋音シュウインは優しく景澄ケイチョウの手を取ると、にっこり笑った。

「ほら、急がないと。子どもたち、もう眠くなっちゃうわよ。」

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