第7話 伊勢③
翌朝、海羽は人の声で目が覚めた。
「あたし、パンの耳に恋、してるんだよっ。……違うな。あたし、パンの耳に恋したんだよ……。これでもないな」
朝から何をやってるの?
海羽はベッドから起き上がると、ヒカリに声をかけた。
「おはよう、九条さん」
ヒカリは振り返って、海羽を見る。
「師匠。おはよっ。今朝はギャグのキレがイマイチなんだよねぇ」
「別のギャグは考えないの?」
「このギャグはね。金の卵なの。いつか金色のガチョウに成長するんだからっ」
そういえば、金の卵が孵化したらどうなるかって聞いたことないな。
海羽はそんなことを考えながら、髪のサイドを細く編み込み、後ろに回してピンで止める。それを黙って見ていたヒカリが呟く。
「毎朝髪を編み込んで、大変じゃない? もっと簡単なセットにしたらいいのに」
「小学生から続けてるから、習慣になってるんだ」
「おもしろエピソードの予感っ!」
海羽は苦笑する。
「そんなんじゃないよ。小学校に入学して、L.I.Q.テストを受けるようになってから、学校に行くのが怖くなった時があったの。その時に、お母さんがこの髪型にセットしてくれて。勇気が出るおまじないって」
「めっちゃいい話じゃん」
「ありがとう。そういえば、九条さんのご両親は心配してないの?」
「昨日、寝る前にメッセ送っといた。放任主義ってわけじゃないけど、割と自由にさせてもらってるんだよね」
私のスコアが高かったら、お母さんとの関係はどうなってただろう。だが、それを考えても栓ないことだ。
「朝ごはん食べたら、出発しようか」
「面白いギャグが思いつくように、神様にお願いしようかなー」
神様も困ると思うよ。
海羽達がチェックアウトして、伊勢神宮に向かおうとしたところ、旅館の入り口にスーツにサングラスという出立の女性が立っていた。真夏に黒ずくめのスーツ。昨日の男がフラッシュバックして、海羽の体がすくむ。
「きっと無関係だって。気にせず行こ行こ」
ヒカリの言葉にコクリと頷くと、海羽は足を前へ踏み出し、女性の横を通り過ぎようとする。その瞬間。
「九条ヒカリさんと遠野海羽さんですね?」
スーツの女性が声を発した。海羽達は驚き、女性から距離を取る。女性はサングラスをゆっくりと外す。その顔を見て、海羽は驚いた。ヒカリに勝るとも劣らない美人。年齢はおそらく二十代半ば。海羽の頭の中でアラートが鳴り響く。この女性は危険だ。
「私は黒川玲奈。特別行動監理官の二等官です」
玲奈が左手首につけてるシビルバンドを見せてくる。その色は海羽達一般人と違い、漆黒だった。
「特別行動、監理、官だっけ。そんなの聞いたことないけど?」
ヒカリが鋭い目つきで玲奈を睨みながら聞く。
すると、玲奈は何故か自慢げな顔つきで頷く。
「当たり前です。私たち、特別行動監理官は真のエリート。一般市民の前においそれと身分を明かすことはありません」
玲奈の言葉から、自分たちの前に現れた理由を推測する。
「目的は九条さんを連れ戻すことですか?」
玲奈は驚いてみせる。ヒカリは理解が追いつかないのか、困惑した表情を浮かべている。
「師匠。どういうこと?」
「この人の言葉が本当なら、スコア管理局執行官なんかより、ずっとすごい立場にいるってことになる。そんな人が、高校生が家に帰らなかったことくらいで動くはずがない。それに、『行動監理』という言葉。きっとスコアに関係あるんだよ。あとは消去法」
「スコアの割に、頭は回るようですね。そうです。私の目的は、九条ヒカリさんをご自宅に連れ帰ることです」
「なんであたしだけ?」
玲奈は意外そうな表情を作る。
「あなたのスコアはいくつですか?」
「9999……」
玲奈はニッコリと笑う。
「素晴らしいっ。私たち政府は、あなたのような人間こそを求めている。そんなあなたが、スコアの低い人間と旅行? あなたがやるべきはそんなことじゃありません」
「政府が、個人の行動に干渉するってわけっ?」
ヒカリの怒りに、玲奈は肩をすくめる。
「何を今更。国がL.I.Q.制度を導入した時点で、国民はその影響下にあるんですよ?」
ヒカリは歯噛みする。
そうだ。私達は、この制度の下でしか生きることが出来ない。だけど。
「スコアが絶対なんですか? 私達はここに来る前、精神障害を持つが故に、スコアが低い人に会いました。その人は、自分のスコアが低いことで、他人に迷惑をかけられないと苦しんでいました。あなたたちは、それが正しいって言うんですかっ?」
すると、玲奈の態度が豹変する。顔を歪め、大声で泣き出した。
「その人が可哀想すぎますーっ! 障害だけでも大変なのに、周りに助けも求められないなんて、そんな……。うぅ……。うわーんっ!」
玲奈の情緒が理解できなくて、海羽はヒカリを見た。ヒカリも同じ感情のようだ。
「あんた、矛盾してない?」
「私は制度の正しさを信じてますーっ! でも、悲しい気持ちがとめどなく溢れてくるんですーっ!」
どうやら本気で中西さんのことを思って、大声で泣きじゃくっているようだ。政府のエリートが。
「旅館の入り口なんだしさ。とりあえず泣くのやめようよ。大人なんだし」
「二十五ですー」
ヒカリに促され、玲奈は旅館の入り口から移動する。ズビズビと泣き続けるので、海羽はハンカチを渡した。
「ありがとうございますー。あなた良い人ですねー」
大きな音を出しながら鼻をかむ玲奈に、拍子抜けしてしまう。
「あんたホントに、政府のエリートなの?」
「そうですよ。ほらっ」
泣きながら、漆黒のシビルバンドを見せつけてくる。
「ほらって言われても、あたし達は黒いシビルバンドのこと知らないし……」
玲奈がシビルバンドを操作すると、左腕にホログラム式の銀色の腕章が映し出され、人工音声が流れる。
「特別行動監理官。黒川二等官。スコア99」
「わーわーっ!」
玲奈は顔を真っ赤にすると、音声を止めた。
「99?」
「聞き間違いじゃない?」
だが、明らかに玲奈は落ち込んでいた。
「え? ホントに? 制度の正しさを信じてるって言ってたけど、あんた制度の恩恵全然受けれてないでしょ?」
「九条さんの言うとおり、私は制度の恩恵を受けられていません。入りたかった大学にも入れませんでしたし、これまで恋人もいたことないですし、ついたあだ名は残念美人……」
俯きながら、自分語りをする玲奈。どんよりとしたオーラを纏っていて、あまりに不憫だった。
「なら、どうして制度を信じてるんですか? あなたにとってスコアは枷でしかないんじゃっ」
海羽は他人事ではいられず、思わず熱が入ってしまった。
「社会が良くなってるからですよっ! お二人は、学校で勉強しなかったんですか? 政府がL.I.Q.制度を導入しなければ、出生数は右肩下がりのままで、この国から希望は消えていたでしょう。私たちが明るい未来を描けるのは、制度のおかげですっ」
「その結果、あんたが不利になっても?」
「そうです。それに、この仕事に就いてると、特例で、成人後もスコア更新の恩恵があるんですよっ!」
「本命はそっちだったりして」
「そ、そそそ、そんなことはありませんっ。と、とにかく話を戻しますが、九条さんは私と東京へ戻ってくれますね?」
「え? 普通に嫌だけど」
「ありがとうございま、って、えぇっ?」
玲奈は頭を下げたと思ったら、後ろに大きくのけ反った。
この人、九条さんよりお笑いに向いてそう。
玲奈は後ろを向くと、シビルバンドに小声で話しかける。
「どうしよう。打ち合わせ通りにいかなかったんだけどっ」
すると、玲奈のシビルバンドから人工音声が流れる。
「安心してください玲奈さん。特別行動監理官には、スコアの査定に進言できることを伝えれば、きっとわかってくれるはずです」
不穏なアドバイスが聞こえてきた。
「九条さんは、東京に帰った方がいいと思う。せっかくのスコアに傷がついちゃうよ」
「師匠はどうするの?」
海羽は逡巡した後、口を開いた。
「私は、旅を続ける。この旅は、私には必要なものだって感じるから」
「なら、あたしも帰らない」
「でもっ」
「あたしは、師匠と同じっ! スコアの外側にあるモノにも価値があるって信じてるっ! 自分の目で確かめに行きたいのっ! 途中下車なんて、する気ないよっ!」
「本当にいいんだね?」
「ジョークを言うタイミングくらい、わかってるよ」
ウインクをするヒカリに頷くと、海羽は玲奈を見る。
「私達、スコアが下がるとしても、東京には帰りませんっ。だから、放っておいてくださいっ」
海羽の言葉を受けて、玲奈は再び後ろを向いて、シビルバンドに話しかける。
「このまま一人で東京に帰ったらどうなると思う?」
「特等監理官に怒られるでしょうね」
玲奈は海羽たちの方を見る。
「し、仕方ないですね。あなたたちの旅に同行しましょう。制度の正しさを理解すれば、帰りたくなるはずです」
「一人で帰って、その特等監理官とやらに怒られなよ」
「無理無理無理っ! 絶対に無理ですっ! あなた久我さんのこと知らないからそんな悪魔みたいなことが言えるんですよっ。本当にスコア9999あるんですかっ? 人の心とかないんですかっ?」
玲奈の必死さにヒカリが後ずさる。
「久我って、あんたの上司とか知るわけないじゃん」
「すみません。もしかして、私達の情報ってあなたに全部筒抜けだったりします?」
海羽の問いに、玲奈は大きく頷く。
「そうですっ。シビルバンドを使ってる限り、あなたたちは私から逃げられることはありませんっ。どこまででも追いかけますよっ!」
「……九条さん。諦めよう」
ヒカリはガックリと肩を落とした。
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