SCENE#85 この街は、もう終わっている…

魚住 陸

この街は、もう終わっている…

第一章:澱んだ夜の帳




真夜中のセントラル通りは、排気ガスと腐敗した希望の臭いで満ちていた。街灯はまばらに点滅し、その光はアスファルトにへばりつく薄汚れた影を長く引き伸ばす。俺――ツヨシは、今日もまた、安アパートの窓からその光景を眺めていた。この街、セントラル・シティは、かつては栄光の象徴だった。経済の中心、文化の拠点、夢を追う若者たちの聖地。だが、それはもう遠い過去の話だ。遠すぎて、もはや幻だとしか思えない。





数年前から始まった不況の波は、この街を完全に飲み込み、その活気を根こそぎ奪い去った。企業は次々と撤退していき、シャッターを下ろした店が街のいたるところに増えた。失業者は溢れ、彼らの凍てついた眼差しは、この街の未来を嘲笑っているかのようだった。





飢えと絶望が、街の隅々にまで染み込んでいる。公園では、子供たちが飢えた野犬のようにゴミを漁り、大人はそれを無言で見つめている。警察は、もはや表通りにすら姿を見せず、機能不全に陥っていた。路地裏では、日中にすら麻薬の取引が行われ、その先で若者たちが泡を吹いて倒れている。行政も医療も、とっくにその機能を停止し、病んだ者は路頭で息絶え、怪我をした者は傷口が腐り落ちるのを待つだけだ。街の生命線だった水道すら汚染され、僅かに流れる水は泥のように濁っていた。





俺自身も、その波に飲まれた一人だ。かつては大手企業の有望な社員だったが、リストラの憂き目に遭い、今では日雇いの仕事で細々と生計を立てている。食うためだけに、身体を酷使する。窓の外では、また一人、酔い潰れた男が路肩に吐瀉物を撒き散らす。その音を聞きながら、俺は冷たい缶ビールを煽った。吐き気がした。だが、その吐き気も、もはや日常の一部だった。感情は麻痺し、人々の苦痛を見るたびに、わずかに残っていた人間性さえも削り取られていくのを感じていた。





「ああ、くそ…」





この街は、もう終わっている…いや、とっくの昔に

街は死んでいたんだ。俺たちも、一緒に腐っていくだけだ。




誰もがそう感じていたが、誰もそれを口には出さなかった。口にする意味も、力もなかった。ただ、澱んだ空気の中で、緩やかに腐っていくのを待つだけ。それが、この街の住民に許された唯一の道だった。





第二章:軋む日常と囁く影




俺の毎日は、同じような日雇いの仕事と、薄暗い部屋での自堕落な時間で構成されていた。朝、目覚めれば安物のコーヒーを淹れ、ニュースを見る。そこにはいつも、この街の悲惨な現状を示す数字と、それを誤魔化すかのような政治家の空虚な言葉が並んでいた。もう誰も信じていない言葉。画面の向こうのキャスターの顔は、滑稽なほどに現実離れしていた。





昼間は建設現場で重い資材を運び、汗を流す。同僚たちは皆、諦めと疲労の顔をしていた。彼らの目には、もう、生気は宿っていない。





「なあ、お前。今日の飯、どうする?」





休憩中、隣に座った若い男が気だるげに尋ねてきた。その顔色は土気色だ。頬はこけて、目は窪んでいる。身体には、栄養失調の斑点が浮かんでいた。 「どうせ食えるもんなんて、限られてるだろ…」俺は答えた。「お前は?」 「俺はもう、給料日まで豆もやし生活だぜ。つーか、給料なんて出るのかね。ハハッ…」男は力なく笑った。その笑いは、嘲りのように響いた。この街では、希望という言葉自体が、皮肉の対象だった。昨日、隣の現場で作業員が事故死した。だが、誰も顔色一つ変えなかった。それが、この街の日常だ。





夜になれば、たいていは行きつけの場末のバーで酒を飲む。そこには、俺と同じように現実から目を背けたい人間の吹きだまりだった。酒で現実を塗りつぶさなければ、もう、正気を保てないのだ。




ある晩、バーのカウンターで飲んでいると、いつものようにマスターが意味ありげな視線を向けてきた。




「ツヨシ、いい話があるんだがな…」





マスターは、グラスを拭く手を止めずに言った。




「お前さん、まだそんな無意味に生きてるつもりか? この腐った街で、死体のように生きながらえるのが性に合ってるか?」




俺はビールを一口飲み、視線を逸らした。




「無意味だろうと、生きなきゃならねぇんだよ。死ぬ度胸もねぇからな。生きる屍には、死ぬ権利すらねぇんだよ…」




「フッ…」マスターは口元に薄く笑みを浮かべた。




「この街に残された、とっておきのモンがあるんだよ。それさえ手に入れりゃ、お前さんの人生も、この街も、もう少しは長く息ができるかもしれねぇ。だが、その代償は、お前が想像するより遥かに大きい。魂の底から腐り果てる覚悟があるならだがな…」





「…冗談だろ、マスター」俺は半信半疑だった。




「この腐りきった街に、そんなモンが残ってるってのか? まさか、おとぎ話か? それとも、地獄の招待状か?」




「おとぎ話じゃねぇ。だが、手に入れるには、それなりの血と泥にまみれる覚悟がいる。お前さんの中に残ってる、わずかな人間性も捨て去る覚悟がな。もう、人間には戻れねぇぞ…」





彼の言葉は、いつも危険な匂いを孕んでいた。俺は一度は断ろうとしたが、彼の目には、俺が今いるどん底よりもさらに深い、底なしの闇が映っているような気がした。結局、俺はその話に乗ってしまった。それは、この街に残されたわずかな富を、力ずくで奪い取るという、いかにもこの街らしい、絶望的な計画だった。






第三章:錆びた歯車の共鳴




マスターの話は、とある廃工場に隠された、不法に蓄えられた金塊の存在だった。それは、かつてこの街を牛耳っていたマフィアの残党が、非常時に備えて隠し持っていたものだという。当然、そんな大金を狙うのは俺たちだけではなかった。飢えたハイエナどもが、同じように虎視眈々と機会を伺っている。





裏社会では、「終末の金」と囁かれ、それを取り巻く血なまぐさい噂が絶えなかった。その噂のせいで、カルト的な集団まで金塊を狙っているらしい。彼らは、この街の終焉こそが救済だと信じている狂人どもだ。





マスターは、俺を含め、数人の失業者を集めた。元プログラマーのヒロ、元警備員のタケシ、元教師のゴロウ。皆、かつての輝きを失い、しかし、心の中にはまだ何かを掴みたいという、最早執念に近い飢えを抱えた者たちだった。彼らの瞳の奥には、狂気が宿っていた。まるで、彼ら自身がこの街の病巣であるかのようだ。




「いいか、お前たち…」マスターは、廃工場の見取り図を広げ、低く響く声で言った。





「この計画は、一歩間違えれば、ただの死だ。生きて戻れる保証はどこにもねぇ。だが、成功すれば、お前らは二度とこんなクソみたいな街で、泥水をすする生活から抜け出せる。お前ら自身の魂を売ってでも、手に入れる価値がある。それが、この世の唯一の真実だ。文句がある奴は、今すぐ出ていけ。死にたくなければな…」





ゴロウが鼻を鳴らした。「命なんて、とうの昔に売り払ってるさ。だが、これで何も手に入らねぇなら、おめぇを殺すぜ、マスター。誰が裏切るかなんて、神様ですら知らねぇだろうよ。俺たちは、もう獣だ…」




「心配すんな。お前らが想像する以上の、汚い金だ。そして、その金を巡って、お前ら自身が獣になるだろう。いや、もうなっているな…」マスターは不敵に笑った。




計画は綿密に練られた。廃工場の構造、警備員のシフト、そして他の連中の動向。すべてが計算され尽くされていた。しかし、計画を進めるにつれて、俺たちの間に不穏な空気が流れ始めた。互いの疑念が、静かに膨らんでいく。





「おい、ツヨシ。本当にマスターの言うこと、信用できるのか?」ヒロが小声で俺に尋ねた。その声は震えている。





「どうにも胡散臭くてな…結局、俺たちだけが使い捨てられるんじゃないかって…誰も、誰のことも信じられない。俺たち自身も、信用できない…」




「信用するとかしないとか、もう関係ねぇだろ!」俺は答えた。感情がなかった。




「他に、この腐った穴から這い出る道があるか? 無いんだよ。あるのは、金を奪うか、ここで朽ちるか、その二択だけだ。俺はまだ、腐りきりたくねぇ!」




タケシが沈んだ声で言った。「俺は、もう疲れたんだ…早く、こんな生活から抜け出したいだけだ…どんな手を使ってでも。誰の屍を踏み越えてでも、だ。たとえ、それが身内であってもな…」





互いを信じきれない不信感、僅かな利害の衝突が、少しずつひび割れを生み出す。錆びた歯車が、互いに軋む音を立てながら、それでも回り続ける。俺たちは皆、この金塊が、この絶望的な状況から抜け出す唯一の道だと信じていた。いや、そう信じるしか、正気を保てなかった。この計画自体が、この街が吐き出した最後の悪夢だった。そして、俺たちはその悪夢の具現化に手を貸していた。






第四章:血と絶望の協奏曲




作戦決行の夜、廃工場は重い沈黙に包まれていた。雨が降りしきり、錆びたトタン屋根を叩く音が、心臓の鼓動のように響く。俺たちは計画通り、廃工場へと侵入した。しかし、そこにはすでに別のグループが待ち構えていた。奴らの目もまた、飢えと狂気に満ちていた。その数は、噂以上に多かった。予想された事態ではあったが、互いの顔を見た瞬間、緊張は一気に高まった。そこにいたのは、他の裏稼業の連中だけでなく、例のカルト集団の姿もあった。彼らは奇妙な歌を口ずさみながら、ナイフを構えている。





「てめぇら!どこのモンだ!ここは俺らの獲物だ!死にたいのか、このクズどもめ!この金は、我々が受け取るべきなのだ!」向こうのリーダーらしき男が、唾を飛ばしながら叫んだ。





マスターが前に出た。その顔には、既に覚悟の色が滲んでいる。「通りすがりの、しがない泥棒さ!だが、この獲物は渡せねぇな。死んでも、だ。お前らも、ここで終わりにしてやる。この街の塵となるがいいさ…」




最初に銃声が鳴り響いたのは、俺のすぐ隣だった。ヒロが胸を押さえて倒れた。その瞳から光が失われていく。まるで、生きていたことすら忘れてしまったかのように。




「ヒロ!」俺は叫んだ。だが、声は虚しく響くだけだった。




「くそっ…!ツヨシ、逃げろ…金を持って…!俺たちの、この街の呪いを…断ち切れ…!そして、お前自身も、呪われるがいい…!」ヒロは苦しそうにそう言い残し、動かなくなった。その身体から、ぬるい血が広がる。俺は、その血を踏みつけ、さらに奥へと進んだ。もはや、死体に何の感情も湧かなかった。





一瞬の混乱の後、工場内は地獄と化した。怒号と銃声、金属がぶつかり合う音。「殺せ!」「ひっ!」絶叫と断末魔が入り乱れる。互いの命を奪い合う、血と絶望の協奏曲が始まった。俺も、生き残るために必死だった。獣のような暴力が、俺の中から噴き出す。誰が敵で、誰が味方なのか。もはや、そんな区別は意味をなさなかった。生きるか死ぬか、それだけだった。もはや、人間性など残っていなかった。俺は、ただの生きる凶器と化していた。





「ツヨシ!右だ!右からくるぞ!構えろ!」マスターが、血を流しながら俺に指示を飛ばしていた。




「金だ!金を持って、生き残れ!それが、俺たちの生き残る唯一の理由だ!それが、この街で生きる唯一の道だ!」 ゴロウが雄叫びを上げて突進していく。その直後、鈍い音と共に倒れる姿が見えた。頭から鮮血が噴き出した。そのまま、意識は霧散しただろう。





タケシは、壁に背を預け、震える手で銃を構えていたが、次の瞬間には、頭を撃ち抜かれていた。壁に飛び散る脳漿。彼の目には、最後まで恐怖が焼き付いていた。だが、それも一瞬で、表情は虚ろなものに変わった。





「マスター!」俺は叫んだ。だが、彼の声も途切れ、ぐったりと壁にもたれかかった。その目には、絶望と、微かな安堵が混じっていた。そして、俺を値踏みするような、見下すような、最後の視線があった。「結局、お前も同じだ!」とでも言いたげな。





最終的に、生き残ったのは俺一人だった。金塊は、血と硝煙、そして死体の山にまみれた床に散らばっていた。だが、その輝きは、俺たちが失ったものの大きさに比べれば、あまりにも小さく、虚しいものに思えた。この金塊自体が、呪われたもののように感じられた。それは、この街の病を凝縮した、禍々しい塊だった。






最終章:終わらない街




廃工場を後にした俺は、傷だらけの身体を引きずり、街の明かりが見える丘の上にたどり着いた。夜明け前の街は、いつもと変わらぬ姿で、しかし、俺の目には、その澱んだ空気がさらに色濃く見えた。死臭が漂っているような気がした。手には、ほんのわずかな金塊だけが握られていた。これがあれば、しばらくは食いつなげるだろう。しかし、それで何になる?何が変わる?この街の底なし沼から、本当に抜け出せるのか?





――昔は、こんな街じゃなかった。活気に満ちてて、みんな笑ってた。俺も、夢があった。公園には、子供たちの明るい声が響いていた。汚れてない、きれいな水が飲めた。 脳裏に、かつてのセントラル・シティの光景がフラッシュバックする。活気あふれる通り、笑顔の人々、そして、希望に満ちた自分の顔。だが、その光景はすぐに、血と泥にまみれた今の光景に塗りつぶされる。幻覚のように、倒れたヒロやタケシ、ゴロウの顔が浮かび上がる。次の瞬間、彼らが俺を睨みつけているような気がした。





「なぜ、お前だけが生き残った?お前も、俺たちと同じだろ!」





この街は、何も変わらない。いや、むしろ、さらに深く沈んでいく。俺たちは、この街の病巣から僅かな膿を絞り出したに過ぎない。根源的な腐敗は、何一つ解決されていない。この街で生きる限り、俺は、この泥沼から抜け出すことはできないのだ。明日にはまた、俺たちに似た誰かが、次の獲物を探して、さまよい続ける。この金塊が、俺を呪い続けるだろう。それは、俺がこの街で犯した罪の証だ。





丘の上から見下ろす街には、夜明けの光が差し込み始めていた。しかし、その光は、この街の闇を照らすにはあまりにも弱々しい。まるで、死者に差す光のように。俺は、手の中のわずかな金塊を握りしめ、冷たい風が吹き荒れる中、呟いた。





「この街は、もう終わっている…」





その声は、虚しく夜空に吸い込まれていった。そして、俺は知っている。この街の物語は、ここで終わらない。この街が完全に死に絶えるまで、絶望は、これからも続いていくのだから。終わりなき悪夢が、また始まる。俺は、もう人間じゃない。ただ、この腐敗した街の一部として、生き続けるだけの、残骸だ。救いなんて、もうどこにもない…

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