インフィニット・シェルター 連載版

雪屋 梛木(ゆきやなぎ)

第1話 

 扉を開けて最初に目に飛び込んできたのは首吊り現場だった。

 幸か不幸か、まだ死んではいないらしい。

 なんせ、たった今椅子が蹴り飛ばされたところだったから。

 名前も知らない彼と目が合う。一瞬の驚き、そして失笑。

 蒔田まきたは走った。

 どこにそんな瞬発力が眠っていたのかは存じ上げないが、こんなに早いスタートダッシュは生まれて初めてだと胸を張って自負できる程度には自己記録を大幅に更新したことだろう。

 己の半分ほどしかない薄い脇腹に全力でぶつかり、抱きかかえる。

 息をのむような、空気のかすれる音が耳に響く。いままで聞いたことのない音だ。きっと死に際の走馬灯に出てくる音だろう。

 この時の状況を、後に当の自殺未遂者であるつぐみは「とっさに助けようとしてくれたんだろうなっていうのは充分すぎるほど理解できたんだけどね。それでもあの負荷の掛け方だと失神するには弱すぎるし、かといって息もできない。ただ苦しいだけっていうほんと最悪な瞬間だったよ」と苦笑しながら教えてくれた。

 この期に及んでも己の不器用さは変わらないらしい。

 さりとて、彼がもがかず大人しくしていたおかげで、壁際のハシゴに引っ掛けられていた紐をうまく外すことに成功した。

 僅かに痙攣する彼の喉に食い込んだ紐を速やかに外す。

「おい、生きてるか?」

 ヒューヒューと喉を鳴らし、時折咳き込みながら背中を丸くする男に向かって声をかけた。

「……あぁ……お陰様で、ゲホッまだ生きてるよ……困ったな」

「困ったのはこちらだ。いきなり胸糞悪いものを見せやがって」

 どうやら命に別状はなさそうだ。

 ふと手に握ったままだった紐に目を止め、違和感を覚えた。

 どこかでみたことがあるような気がする。

 しっかりとして重みがあり、丈夫でなめらかな手触り……カーテンの紐タッセルだろうか?

 とりあえず紐をリュックへ無造作に詰め込みながら、蒔田は深い息を吐いた。

「死ぬなら人目の届かないところで死ね。以上だ。じゃあな」

「ちょ、待ってよ。まさかゲホッこのまま放置するつもり?」

「これから死ぬんだろ。邪魔して悪かったな」

「いや、まあそうなんだけど。でもさ、君が土壇場で救ってくれたおかげで今の僕は中途半端に生き長らえちゃったってわけ。具体的に言えば、もう一度首を吊るために立ち上がることも難しいと思う。足腰が立たないって感じ。これは重大な後遺症だよ。この責任は多少なりとも君にも発生すると思う。どうかな、命の恩人君」

「……何が言いたい?」

 急に饒舌になった男を怪訝な顔で見据えた。

 首にできた紐の跡以外は人好きのする顔をした男だ。粗末と言っても差し障りのないような薄汚れたシャツを着ている。顔立ちや髪の色からして同じ地方の出身かもしれない。

「ちょっとだけ手を貸してほしいんだ。僕の名前は神代かみしろつぐみ。よろしく」

 差し出された手といやに爽やかな笑顔を何度も見比べる。やられたな、と思った。

 興味を持ってしまったら、見なかったことにはできない。

「……蒔田まきた悠埜ゆうやだ」

 手を握り、思いっきり引っ張って立たせる。と、彼は数歩足を踏み出したかと思えばそのまま崩れ落ちるかのように床に倒れこんだ。ゴツン、という鈍い音が響く。

「弱ってるのは本当らしいな」

「こんな荒い確認方法ってあり? めちゃくちゃ痛いんだけど」

 先ほどの鈍い音は側頭部を打った音だったらしい。整った顔が苦痛に歪む。

「自業自得だ。今度は確実に邪魔が入らない方法を考えるんだな」

 そのままひょいと薄い体を肩に担ぐと、部屋の中をざっと見渡した。

 扉を開けた瞬間が衝撃的すぎて、まだ何があるか確認していなかったのだ。

 至って普通のベッドルームといった雰囲気の部屋だ。どちらかというとビジネスホテルの方が近いか。

 真っ白な壁紙に銀色の扉、真っ白なシングルベッド、そして作り付けの戸棚と机、上の階へと続くハシゴ、角で小さく区切られたスペースはユニットバスだ。

 戸棚の下にある小さな冷蔵庫を漁り、ミネラルウォーターのペットボトルを手に入れた。新品だ。運がいい。

「ベッドの上に置いてあるカバンは僕のだから持って行っていいよ」

「代わりにお前をそこに置いていけばいいか?」

「ははは、でも担がれると肩の骨が当たって痛いんだよな」

 はたして、シーツでぐるぐる巻きにして背中に括りつけられることになった鶫は、羞恥心など欠片も感じる様子もなく楽しげな声を上げた。

「これは意外と楽でいいかも。蒔田って背は低めなのに体格は良いよね。重くないの?」

「重いに決まってるだろ。荷物は喋るな」

「素直じゃないな。でも蒔田のそういうところ、いいと思うよ」

 見透かされていた。

 鶫の言う通りだ。重くて嫌ならどんなに懇願されようと置いていけばいい。次の部屋へ逃げてしまえば追ってくることはないだろう。

 わかってはいたが、どうしても見捨てることができなかった。

 これが同情ではないのは蒔田が一番理解していた。これは嫉妬だ。

 先を越されることへの焦燥と言ってもいい。

 蒔田はここへ死ににきた。

 なのに目前で先を越されるのがどうしても悔しかったのだ。

 ふいに、微かだが地震のような地響きを感じた。また新しい部屋がのだろう。無限とも思えるこの場所で、蒔田はもう三年も死ぬ場所を探し続けている。

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