第2章 もう一人の私

放課後、薄暗い自室。

机の上に並ぶのは、学校の教科書よりも、今は端末ひとつ。

JVBL公式アプリの「ログイン」ボタンを前に、遥の指先は小刻みに震えていた。


――ほんとに、押すの?

胸の奥で何度も問い直す。

でも、その度に体育館で浴びたあのブロックの光景がよみがえる。

――「もし背が高ければ」

――「もし、もっと強ければ」

その“もし”に答えるための扉が、今ここにある。


遥は、意を決して、タップした。

視界が白く塗りつぶされる。

次に目を開けたとき、彼女は眩いロビーに立っていた。


そこは、まるで未来都市の縮図。

ガラスのように透明な床の下には、煌めく星空が広がり、頭上には巨大なホログラムスクリーンがいくつも浮かんでいる。

世界各地からログインしたプレイヤーたちが、思い思いのアバター姿で談笑し、走り回り、練習コートに向かっていた。


「……すごぉっ……」

遥は思わず息をのんだ。

自分の暮らす町では、まだ商店街が古いアーケードのまま残っているのに。

ここではすべてが、洗練され、未来そのものだった。


「おっと、新規さんだね?」

不意に声をかけられ、遥は肩をすくめた。

振り返ると、受付カウンターの向こうに立つのは、銀色の髪を揺らすバーチャル係員――人工知能のアテンダントだ。


「あなたのリアルデータをスキャンして、アバター登録を行います。

準備はよろしいですか?」


「は、はい……」

おどおどと頷くと、全身が淡い光に包まれた。

視界に浮かぶのは、リアルでの自分の能力値。


【リアル測定結果】

- フィジカル:やや低い

- スピード:高め

- オフェンス:平均より上

- ディフェンス:堅実

- ゲームIQ:良好


合計ポイントが数値化され、バーチャルの能力に自由に振り分けられる画面が展開された。


――これが……私の“素材”……?


遥はしばらく迷った。

けれど、心の奥では決めていた。

「長身、しなやかさ……そこに振り分けたい」


スライダーを操作すると、目の前のホログラムの体型がスッと伸びていく。

リアルでは150センチそこそこの自分が、バーチャルでは175センチの長身に。

肩幅が広がり、脚はバネのようにしなやかさを増していく。

その分、ほかのパラメーターの数値は、下がっていくのだが……


「わ、わぁ……」

思わず声が漏れた。

――これが、もう一人の私。


すると画面に、次の入力項目が現れる。

【コートネームを登録してください】


「コートネーム……?」


アテンダントが微笑む。

「VBL内では、あなたのプレイヤー名(コートネーム)となります。現実の名前でも、新しい名前でも構いません」


遥はしばらく迷った。

“もう一人の私”を生きるなら、リアルの名前をそのまま使うのは違う。

……学校の友達に知られるの恥ずかしい。

けれど、まったく無関係なものも嫌だった。


胸の奥に浮かんだのは、体育館で幾度も心に刻んだ言葉。

「小さくても、強くなりたい」


彼女は指先で文字を打ち込んだ。


――【NOVA-Johannès】(ノヴァ・ジョアネス)。

遥が、憧れているプロ選手の名前を少しもじって、名前を入力した。


画面に登録完了の文字が躍り、長身のアバターが力強く笑みを浮かべる。

まるで、内に秘めていた輝きが今ここで生まれ落ちたように。


「……これが、私の名前」

遥――いや、ノヴァは小さく呟いた。


そのとき、不意に背中を軽く叩かれた。

「初めてだろ?迷うよな」

振り向くと、そこにいたのはプチスポーツ刈風?の青年アバター。

中肉中背、どこか頼りなげで、笑顔はやけに人懐っこい。


「お、驚かせてごめんな。俺はユウタ(YUTA)。ここの住人みたいなもんだ」

「……住人?」

「まあ、しょっちゅう負けて帰ってくるからさ。上に行けなくて、くすぶってんのよ」

冗談めかして笑う彼に、遥は少しだけ肩の力を抜いた。


「君、名前は?」

「……い、一ノ……じゃなかった。"ノヴァ" 今日が、初めて」

「おー!じゃあ俺が案内してやるよ。最初はルールとか操作とか、ほんと混乱するからな」

差し伸べられた手に、遥はおそるおそる手を重ねた。


ロビーの片隅、観覧エリアの巨大スクリーンでは、エキシビションマッチが始まっていた。

そこに映し出された一人のプレイヤーの姿に、遥は釘付けになる。


――小柄なアバター。

だが動きは異様なまでに鋭く、次の瞬間にはディフェンスを完全に置き去りにしていた。

視界全体を支配するような圧倒的な「オフェンス」と、状況を先読みする冷徹な「ゲームIQ」。

観客席からは「またアイツか!」と歓声が上がっている。


「彼女……強いな……」

「ん、ああ。あの“ちっこいやつ”は、有名人だ。-Little QUEEN_LEAP-

JVBL ランキングで、常に5位以内で、V.B.Lでは男女の区別はないが、リアルの女性枠でくくれば、間違いなくナンバーワンのプレイヤーだ。

背は低いけど、オフェンスとIQに極振りしてるから、誰も止められない」

隣でユウタが解説する。

「それに――やけに勝ちに執着してる。まあ、どんな理由かは知らんけどな」


スクリーンの中、小さな体がゴールを奪った瞬間、アリーナ全体が沸いた。

彼女の表情は、歓喜というよりも執念の輝きのように思えた。


遥はごくりと息を呑む。

――あんな相手に、私もいつか挑むのだろうか。


登録を終えた帰り際、ユウタが肩をすくめながら言った。

「ま、勝てなくても楽しむのが一番だ。俺みたいにな!」

「……楽しむ、か」

まだ自分には、その余裕はなかった。


けれど、確かに感じた。

ここには、もう一人の私がいる。

そして、ここからが本当のスタートなのだ。


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