黒い生物

藍より青く

第1話

                 黒い生物


                 第一章


それは今日と同じ雨の日だった。それ以前のことなんて、ちっとたりとも覚えてはいないが、その日の空の色は特に真っ黒な、まるで青と赤と緑の色バケツをドバっとひっくり返したような重い雨の空だった。


「すっかり降られちゃったよ」

白いワイシャツに赤と紺色のリボンを首に巻き付け、長くも短くもないスカートをはいた人間が木の下まで来た。なんちゃら高校とかなんとかバックの端に書いてあったが、私はもう人をやめてから十年にもなるため、何と読むのかは忘れてしまっていた。

雨が降り出して、ほんの五分ほどであったが、人間たちはもう飽きていつ降り終わるのやらうずうずしている。中には傘もささずに走るものもあり、どこへそんなに急ぐのかと、私は不思議でならなかった。

体が濡れる方がよっぽど嫌だろうに。

私がなぜ人間をやめたのか、もう私は何も覚えていないが、この黒い生き物に成り変わったのは全く間違いではなかったと感じている。空高くから見える世界は、なかなか特別である。人間はどうも、空を飛ぶことに強いあこがれを抱いているようであるが、翼を持たない彼らに、そんな憧れは不要である。

そんなことを考えているうちに雨がやんだ。

 私は一日のほとんどをその日食べるご飯を探すことに使う。これがまた大変で、なんせ私のような生き物に、人間は餌をあげたがらないもんだから、盗むか、獲るか、はたまた他の動物を殺して食べるかしないといけず、腹のすいているなか、なんとも惨めな時間を送るのであるからつまらない。もうそろそろ、今日の晩御飯を探しに行かないと、しても間に合わない可能性だってあるが、私はとにかく急いで、空へと飛び立った。

 空から、東京の街並みを見下ろして何か食べ物を探しているうちに、白い煙を吹いている屋台を見つけた。もう空は随分と暗くなってきていて、今日はこの店から晩御飯を頂戴しようと決断するのは難しくなかった。

 地面近くまで下りて、狙いの屋台を見てみると、“焼き鳥次郎”と看板に書いてあった。焼き鳥に太郎も次郎もあるのか定かではなかったが、私の好物である焼き鳥を前にしてそんなことはどうでもよかった。

 私は人間でなければ、人間のお金も持っていないため、やはりこれはいつも通り隙を狙って盗ってくることにした。

「三本買うと一本おまけだよ~」

頭にタオルを巻いた五十歳くらいであろう男がそう叫んでいるのをきいて、私もどうせなら三本頂戴して、もう一本まけてもらうことにした。

やはり、店主がトイレに行っている間に盗ってしまいたいと思ったが、なかなか店主が店を離れないため、客が店主にお金を渡している間を狙うことにした。


電柱の上から、客が来るのを待っていると、麻でできた紺色の長いスカートのようなズボンをはいた、女がやってきた。首からクリーム色のカバンを下げた女だった。

「はい、いらっしゃい」

店主が女を見てやけに躍起になりながらそう言った。

「こんばんは、秋なのにまだ暑いですよね。なにかおすすめはありますか?」

女が聞いた。随分ときれいな声だった。

「そうだね、ねぎまとタレ、それに砂肝が人気だよ」

店主がそういっているのを聞いて、砂肝なんて食えたもんじゃない。そう思いながら、どうせなら一番高いのを頂戴しようと、遠い値札を目を細めながら見た。

「じゃあ、タレを二本、それに塩を一本ください」

おすすめを聞いた意味がないなと思いながら、盗りに行くタイミングを見計らっていた。

「はいよ。三本で480円ね。二本おまけにつけておいたから」

自分には一本もまけないであろうに。どうせなら、この黒い生き物ではなくて人間の女になるべきだったと思った。

女がそれに対して、なんて言ったのかはよく聞こえなかったが、きっとにこっと笑っていたのだろう。私は女が財布からお金を取り出すのを見届けて、いよいよ突撃準備に入った。

 店主がお金を受け取ろうと手を出そうとしたその時、私は戦闘機のごとく、急降下し、ちょうど網の上で焼かれていた焼き鳥めがけてビューっと突撃した。一秒もたたないうちに、私は射程圏内に入り、店主と女が驚いているのを横目で確認しながら、口を開けた。あとは口でつかむだけ。作戦は見事大成功かと思われたその時、思いもよらない速度で、店主の右手が私の翼に触れ、私は空中で態勢を崩した。危うく網の上に着地しそうになり、自分が焼き鳥になるのではないかとひやひやしたが、やっとのことで、姿勢を直し、そのまま一度撤退を余儀なくされた。私は、どこか着地できるところを探しながら、三十メートルほど離れたところにあった、室外機の上で羽を休めた。心臓は驚くほど、早く鼓動していた。

 私は先ほど、危うく焼き鳥になるところであったといったが、私はけっして鳥などではない。確かに、私は翼をもっているが、私を表す言葉を私は知らない。ただ人間は何でも食うから、さっき誤って熱い網の上に着陸していたら、私も売り物として棚に並んでいたことであろう。そう思うと、心臓の鼓動は鳴りやむ気がしなかった。

 少したって、生き残った安心よりも、晩御飯を逃した悔しさがしくしくと感じられてきた。次に会ったら、あの店主を襲いにかかろう。そう思った。晩御飯探しが、振出しに戻り、もう真っ暗な空を見て、今日はもうだめかもしれないと、明るい真ん丸の月を見ながらそう思った。

 どうしようか、途方に暮れながら、室外機の上でぼーっと立っていると、さっきの女が前を歩いてくるのが見えた。手には焼き鳥の入った袋を持っていた。

「さっきは惜しかったね」

前を歩いてきた女を見ていたら、そう突然声をかけられ、一瞬なにが起こっているのかわからなくなったが、すぐにいつも通りの冷静を取り戻し、逃げる準備を整えた。

「これ君に一本あげるよ」

そういって女が私に近づき、焼き鳥の入った袋を開け始めた。私はまた何が起こっているのかわからなくなった。私のような生き物に、ご飯を与えようとする人間には出会ったことがなかった。

「いらないの?こっちにおいでよ」

そう女が自分に言った。相変わらず、とてもきれいな声だった。私はどうしようか迷ったが、空腹でぐるぐる回るお腹を見て、その女から一本焼き鳥を頂戴することにした。

「おまけで二本ももらったし、気にしないで食べてね」

そう女が言っているのを聞いて、店主を襲いにかかるのは今回はやめてやろうと思った。

 焼き鳥をもらおうと、女の近くに行ったら、女の顔がよく見えた。きれいな顔に黒髪がよく似合う女だった。首に小さなほくろがあった。

「またね」

焼き鳥を私にくれた後、女はそう言って去っていった。もう二度と会うこともないだろうになにがまたなのかはよくわからなかったが、もらった焼き鳥を、さっきの室外機の上でおいしく頂戴した。彼女の後姿はどこか物寂しいものだった。彼女が私の視界から消えるのを見届けて、私はその室外機の上で眠りについた。



 その夜、私は夢を見た。



                 第二章


 気持ちのいい朝だな。久しぶりにそう思える朝日がカーテンを開けた先からこぼれてきた。

「早く朝ごはん食べなさいー」お母さんがそういっているのが聞こえた。

「はーい」僕はそう返事をして、駆け足で一階へと降りた。

「昨日は随分と早く寝たみたいだけど、宿題は終わったの?」もちろん終わってない。

「昨日は宿題なかったんだ、ラッキーだよね」と笑いながら返事した。

僕はごはんを口にかきこみ食べ終わった食器を台所に放り投げた。僕は部屋に戻ったあと身支度を終え、学校へ向かって家を離れた。


僕の家は学校から、歩いて20分ほどの丘の上にある。今は、朝の8時5分。学校が始まるのは8時20分。いつも通りの時間に僕は丘の上からいつも通るバスをみた。今日も変わらぬ一日。

 学校につくと、まずは下駄箱で上履きに履き替えた。

「おはよう」

そう声がして、後ろを振り向いてみるとそこには一人の女の子がいた。

「おはよう」とっさにそう返した。

“かわいい”

僕の心は一瞬でその子に惹かれた。


「一緒に遅刻だね」そう僕が言うと、その子はやさしい笑みをうかべた。なんとも言えないやさしい雰囲気をまとった女の子だった。

時計を見て、5分ほどだった遅刻が10分になったことに気づいた。

「またね」僕は女の子にそう言って自分の教室へと急いだ。


「また遅刻か君は」教室に入ってすぐ、もちろん僕は怒られた。いつも通り。

「すみません」僕は頭をさげて自分の席についた。僕の席は窓の真横の列のちょうど真ん中、きれいな海と僕の住む丘の見えるお気に入りの場所だった。

「いつもより五分も遅いなんてめずらしいね」そう僕の前の佐々木が妙な笑みを浮かべながら言った。

「聞いてくれよ、下ですっごいかわいい女の子にあってさ、あんま見たことない子だったんだよね」

「へー」興味深そうに佐々木が言った。

「静かに‼」先生が叫ぶ声を聞いて、佐々木は前を向いた。

「今日は転校生を紹介する」まさかと思って僕は開くドアの奥を注視した。

“やっぱり”

それはさっき下駄箱で出会った女の子だった。

彼女は教室に入るやいなや、みんなの前で、自己紹介をしていたけれど、僕の耳に彼女の声は届いてこなかった。僕はただぼーっと彼女のたたずまいを見ていた。


 その女の子は名前を、光と言った。

彼女はきれいな顔立ちをしていて、黒髪がよく似合う女の子だった。首に小さなほくろがあった。転校してきた理由は、親の転勤で引っ越しをしたからだと、他のクラスメイト達が話していた。

「何をそんなに見てるんだよ」前の佐々木が聞いてきた。

「あの転校生。すごいかわいい」

「あ~、柊さんね。お前と同じで丘の近くに住んでるみたいだけど」佐々木が言った。

「そうなの?今日一緒に帰ってみようかな」

「ははっ、頑張れよ」佐々木が意地悪気に言った。


 彼女が転校してきて三日たった日、僕は彼女に一緒に帰らないかと聞いてみた。彼女は“うん”と言って、僕と一緒に学校を出た。

「名前をきいてもいいかな?」彼女が僕に聞いた。“あれ?まだ伝えてなかったんだっけ“と思いながら、答えた。

「へ~、いい名前だね」彼女が笑って言った。

「やっぱり、転校するって緊張する?」僕がそう聞くと、彼女はちょっと考えてから、頭を縦に振った。

「でもね、みんなからたくさん話しかけてくれるし、心配はしてない」前を見ながらそう言った後、彼女は僕の方を向いてにこっとした。

僕はたぶん顔を赤らめて、それで前を向いた。

それを見ていた彼女もいっしょに前を向いて言った。

「一緒に帰ろうって誘ってくれてありがとね」随分ときれいな声だった。

「じゃあね!」丘を登ったちょっと先で、彼女はそう言って別の道を行った。


 僕たちはそれから毎日一緒に帰るようになった。早起きだった彼女に合わせて、僕もちょっぴり早く起きて、毎朝一緒に学校へ行った。前とは違った毎日。


「何ぼーっとしてるんだよ」前の佐々木が言った。

「何でもないよ、ちょっと朝早くにおきて眠いだけ」僕が答えた。

「お前最近どうしたんだよ、毎日遅刻せずに学校に来て、さては好きな子でもできたな?」

僕は頬を赤らめた。

「図星かよ」佐々木もちょっと頬を赤らめて言った。

「どうやって、気持ちを伝えたらいいかな?」僕が恥ずかしそうに聞くと、佐々木はそっぽを向いて頬杖をつきながら言った。

「俺に聞くなよ。まあ好きなら好きですって言えばいいんじゃね」佐々木がぶっきらぼうに答えた。二人の間に5秒間の沈黙が流れたあと、佐々木は固かった口を開けて、

「黙るなよ」と僕の頭を叩いて言った。


 その日の放課後、僕はいつも通り彼女と家に帰った。

“デートに誘う!デートに誘う!デートに誘う!”僕はそう心の中で唱えながら、彼女の隣を歩いた。

「ねえ、聞いてるの?」彼女の突然の質問に、僕はびっくりしながら答えた。

「うん、聞いてるよ」間違いなく声が裏返った。

「それでさ、この前部活ですっごい面白いことがあってさ、きいてきいて」

「先輩がね、」

「あのさ!」僕は彼女の話に割り込んでそういった。

「明日、日曜日、一緒に遊びに行かない?」僕は言ってやった。彼女はちょっと黙って口を開いてこう聞いた。

「それってデート?」僕は彼女の方を見ることなく答えた。

「うん」前を向いていたのに、電柱にぶつかりそうになった。

「いいよ」彼女がにっこっとしながら返事をした。僕はその時初めて、彼女の顔を見て、

「本当?」と聞き返した。彼女は笑いながら

「うんっ」と答えた。その日の夜、僕は緊張で汗をかきながら、今日僕が彼女をデートに誘ったシーンを頭の中で何度も繰り返した。

その日の夜は、眠れるはずがなかった。



それは昨日と違い雨の日だった。僕は緊張でその日の朝のことなんて、ちっとたりとも覚えてはいないが、その日の空の色は特に真っ黒な、まるで青と赤と緑の色バケツをドバっとひっくり返したような重い雨の空だった。


僕は、支度に準備がかかって、ちょっと遅れて家をでた。

今日のプランは、バスで街に行って、いい感じのカフェにでも入って、それで二人で買い物をして、それから。

「は~、どうやって僕の気持ちを伝えよう」昨日の夜からずーーっと考えても、何度考えたって、なんて言うべきかはわからなかった。そうこうしているうちに待ち合わせのバス停についた。


 僕はあたりを見回して、彼女がどこにいるのか探した。

“いた!”彼女はバス停の向いの道路を挟んだところで傘をさしながら立っていた。

「おーい、こっちこっち!」僕がそういうと、彼女は笑いながら道路へと走り出した。



ドンッ



 猛スピードで走ってきたバスが、彼女を轢いた。

「え?」

何が起こったのか理解するよりも先に僕は赤い道路に横たわる彼女の下へ走っていた。僕は彼女の下に行くやいなや彼女の体を持ち上げ、大声で叫んだ。

「光!大丈夫か!今、今救急車を」あたりには誰もいなかった。雨はより一層強く僕たちを打ち付けた。

僕は彼女の名前を叫び続けた。

「光!光!君と。君を。好きだった。僕だよ。なんとか言ってくれよ。目を開けて、目を」

彼女の目は開かなかった。

土砂降りの雨は、驚くほど静かであった。


 僕は下から、降りしきる雨を見ながら言った。

「神よ。光を、彼女を生き返らしてくれ、僕はそのためなら、全てを捨てる。記憶も、体も、人間であることさへも」


 僕の腕の中にいる彼女の体は、動くはずもなかった。

僕がうつむいて彼女の顔を見たその時、大きな衝撃とともに、眩い閃光があたりを照らした。ドカーンという雷鳴を聞く前に、僕の意識は遠のいていた。


                 第三章


 私はすべてを思い出した。



私が、人間の高校生であったこと。

私が、大好きだった光のために、この忌まわしき黒い生物に成り変わったこと。

私が、この黒い生物になってから、毎日この夢を見ているということ。


 私はこの夢を、幾千回も見続けるであろう。私が、この記憶を取り戻すことはないだろうが。もし取り戻したとしても、その先に待つのは自死の道のみである。

私はそっと心の瞳を閉じた。



 その日の朝は、昨日の雨とは打って変わって、気持ちのいい朝日が、あたりを照らしていた。昨日の女が、どんな顔であったか、もう覚えてすらいないが、私は、昨日、女からもらった焼き鳥のくしを、室外機の上に残して飛び立った。


 私がなぜ人間をやめたのか、もう私は何も覚えていないが、この黒い生き物に成り変わったのは全く間違いではなかったと感じている。

その日の空は、青く高く澄み渡っていた。




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