💌読まれなかったラブレター
宛先のない手紙など、一体なんの価値があるというのか。
私を書いた男が私をどこかへ運ぶこともなく、姿を見せなくなってからかなりの時間が過ぎた。いつ頃からだったか、確か雨風が吹き荒び、家のものというものがガタガタと震えていた時だった気がする。あの日、何を思ったか男は外に出て行ってしまった。言うまでもないが、雨風は私の大敵である。雨に濡らされると私に書かれた文字は読めなくなり、風に飛ばされると私はどこへでも飛んでいってしまう。だから私はひたすらおさまることを祈っていた。いつかは雨風も止み、快晴となった暁には私が無事投函されるのだ、という希望を持って祈り続けていた。そうして無事、雨風は止んだものの、代わりに男は帰ってこなくなった。あの男め、まさか私を投函すること忘れただけでは飽き足らず、ついには自分の家への帰り方まで忘れてしまったか。仕方ない、次はあの男が家に帰ってくるように祈ってやるかと暇つぶしのような思いで祈りを捧げ続けた。
そうして祈り続け、いい加減にしてくれ、いつになったら私を差し出すのだ、とやきもきしていたのだが、ある日突然家の鍵が開く音がした。ついに帰ってきたか。色々と物忘れの多い男だが、まさか家を忘れるとは思っていなかったぞ。だが仕方ない、しばらくは久々の家を存分に楽しみ、そして一息ついたら私を投函してくれ、と思いながら歩いてくる人物を眺めていた。しかし、その姿は明らかにその男ではなかった。それでもなぜか、全く知らない人間とは思えなかった。私が出会ったことのある人間など書店員と書店の客、そして私を書いた男くらいのものだったが、こちらに近づいてくる人間には一種の懐かしさを感じた。
「こんなところに住んでいたのね」
その人間はボソりと呟き、しばらく部屋を見渡していた。どういった関係なのかは分からない、だが顔立ちは似ている気がした。そういえば、親子というのは顔が似るものだというし、そうなるとこの人間はあの男の近親者ということになるだろうか。言われてみると、かなり疲れ切っている様子で、その辺りは最近のあの男とも近い気がした。疲れやすい一族なのだろうか。それは難儀なことだ。
「できれば生きているうちにお邪魔したかったものね」
今、なんと言った? 生きているうちに? つまり、あの男は死んだのか?
ここに今いる人間がタチの悪い冗談を好むようなタイプでなければ、きっと私に言葉を書き、誰かに何かを伝えたかった男はそれを伝えることができないまま死んでしまったようだ。まさかこんなことになるとは思っていなかった。死んだのか。では、私は一体どうなるのだ。言葉とは、文字とは、手紙とは、遠くにいる誰かに大事な何かを伝えるための手段であり、方法であり、それを役目として負っているものであろう。そのために私は生まれ、そうして書くべき言葉は既に書かれているのだ。あとは届くだけ、だが書いた男は既に死んでしまい、届ける先は分からずじまいとなってしまった。死人に口なし、死んでしまっては言葉を持つことはできず、だから私を届けるための情報が得られることはない。それはつまり、同時に私自身の死がたった今確定したようなものでもあった。
目の前にぽろりと転がってきた死の宣告に対し、私は愕然としていた。陰鬱な気持ちに浸っていたのだが、そうしていると先ほど遠回しに私に死を告げることになった人間が、こちらに寄ってきた。部屋に入ってからというもの、ふらふらと右に左に行きつ戻りつしていたが、いよいよ私のいる部屋にも到着したようだ。変わらず、疲れ切った様子で視線を泳がせている。そのうち、私が置かれている机に目を止めた。机の上は、乱雑とまでは言わないまでも、一目見てどこに何があるかは分からないような配置になっている。私は机の上に置かれている書類入れの中に、お世辞にも丁寧とは言えないように、他のクーポンやチラシなどの郵便物と一緒に差されている。その人間も机の上が気になったのか、いくつか手に取ってはひっくり返して表裏をあらためては元に戻す、を繰り返していた。
当然、私のことも手に取った。便箋セットに同封されていた封筒の中に入れられていたため、手紙であることは一目で分かったはずだ。手紙は、書いた人間と届けられた人間以外に読まれることは基本的に忌避されているものであるため、その人間も封を開けることを躊躇っているようだった。ただ、もはや宛先が不明になってしまった私は、読まれないよりは読まれた方がマシだと思い、どうぞ開いてくれと先ほどまでとは別の祈りを捧げ始めた。遠慮するな、何せ書き手はもう既にこの世にいないのだろう。あなたが宛先の人間なのか、そうでないのかすらもはや分からないが、どちらにせよ読まれない手紙ほど悲しい存在も他にないだろう。
その人間によって何度もひっくり返され、何度も机に戻され、何度も手に取られたあと、意を決したのか封筒の口に手をかけた。とはいえ封をされているわけでもないため、ただゆっくりと口を開いて手紙を取り出した。
「遺書……? 」
人間は私をじっくりと読み始めた。あまり良くないことではあるのだろうが、私は心から安堵した。書いた人間の意思に反しているかもしれない相手から読まれたとしても、それは些細なことであると気にもならなかった。それより気になったのは、先ほど人間も呟いていた「遺書」という言葉だ。それは最初の一文にも書かれていた。手紙にも様々な種類がある……暑中見舞いや寒中見舞いなどの季節がら書かれるものもあれば、ただ近況を伝えるために送るものもある。そういったものの一つなのだろうとは思ったが、私からすれば書かれた内容は恋文、ラブレターであるように思えた。おそらくあの男には心から愛した人間がいて、その人間に向けた愛をひたすら書き記しているように思えたからだ。あなたのこんなところに憧れた、あなたのようになれたらと思っていた、あなたを本当に愛していた、そんな言葉が書き連ねられていたからだ。
決定的な理由はないが、きっと今読んでいるこの人間が宛先ではないのだろうな、とは思っていた。男がどのような相手を想って私を書いたかは知る由もないのだが、自分宛であると確信があればきっとあそこまで悩まないだろう。そんなことをぼんやりと思っていると、ふと私に水が数滴落とされた。最初はまた雨風が酷くなってきたかと思ったが、どうやら読んでいる人間が涙を流しているようだった。人間自身も自分が泣いていることに驚いたようで、ただ自分の意思に反して流れる涙を止めることはできないようだった。そうして泣きながら手紙を読んでいた人間だったが、心なしか顔色はこの家に入ってきた時よりも良くなり、表情も柔らかくなっていた。例えるなら、子を見守る母のようなものだろうか。
「心から愛せる人がいたのなら、それ以上の幸せはきっとないのでしょうね」
もはや涙で正確に文字も読めなくなってしまったが、それを気にすることもなかった。読まれるべき人に読まれなかったであろう(とは言え、厳密には宛先はもう分からないので確かめようもないのだが)手紙である私にとって、誰か読んでくれるものがいただけでも十分に幸福なことだった。それはあの男にも言えることだろう。この手紙に書き記された愛というものは、必ずしも相手に届くものではない。だがそれでも、そこに愛があったこと自体は無くならないはずだ。そして、それを知っている人間がいるということだけでも十分幸福なことではないだろうか。少なくとも、ラブレターであるところの私にとってみれば、愛を形にできたことは十分に名誉なことだった。いずれただの紙として燃やされるだろうとしても、十分に役目を果たせたと言えるのではないだろうか。ああそうだ、せっかくだから私の好きな一文を紹介しよう。
「あなたがいたから、私は私を愛することができました」
とても詩的でいいとは思わないか?
ある男にまつわるアニミズム 中庸 @Vagabond_Rogue
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