双剣の影
hinya
幼少期編
祝福の名の下に
帝国暦第七百九十二年、春。
第二王子アル・レグナスは、帝都セリオスの王城にて誕生した。
その瞬間、空には七色の光が差し、魔導気流が穏やかに流れたという。
「神の祝福だ」
「帝国に新たな希望が生まれた」
「この子こそ、未来を導く者だ」
民衆は歓喜し、貴族は計算し、王族は安堵した。
第一王子が病弱であることを憂いていた帝国にとって、アルの誕生は“救済”だった。
だが、アル自身はその祝福を知らない。
彼が初めて“世界”を認識したのは、三歳の春だった。
「アル様、今日も魔導礼儀の訓練をいたしましょう」
「言葉遣いが乱れてはなりません。王族としての品位を」
「笑顔は計算して見せるものです。感情ではありません」
彼の周囲には、常に“正しさ”があった。
それは、彼のためではなく、帝国のためだった。
アルは、幼いながらにそれを理解していた。
誰も彼の“中身”を見ていない。
見ているのは、“王子”という記号だけ。
「お兄様のようになってはいけません」
「あなたは、帝国の未来なのです」
兄は病に伏していた。
優しく、穏やかで、感情豊かな人だった。
アルは兄を好きだった。 だが、周囲は兄を“失敗”と見なしていた。
「アル様は、違いますよね?」
「感情に流されない、冷静な王子様ですもの」
アルは、笑った。
その笑顔は、誰にも違和感を与えなかった。
完璧な王族の微笑だった。
だが、心の中では、何かが少しずつ崩れていた。
七歳の春。
アルは、王城の庭園にひとりでいた。
そこは、誰も近づかない場所だった。
兄が倒れて以来、誰もその庭に足を踏み入れなくなった。
アルは、そこに逃げ込んでいた。
誰にも見られない場所。 誰にも“王子”として扱われない場所。
「……疲れた」
彼は呟いた。 誰にも聞かれないように。 誰にも悟られないように。
その言葉は、空気に溶けた。
だが、彼の中には残った。
「泣きたい」
「でも、泣いてはいけない」
「弱さを見せてはいけない」
「誰にも、頼ってはいけない」
その思考は、彼を締め付けた。 まるで、見えない鎖のように。
その日、彼は初めて“夢”を見た。 夢の中で、彼は誰かに抱きしめられていた。
その腕は、温かく、優しかった。
『大丈夫。僕がいるよ』
その声は、彼の中から響いていた。 外からではない。 内側から。
アルは、目を覚ました。 そして、気づいた。
「……誰かが、いる」
彼の中に、もうひとりの“自分”がいた。 それは、名前のない存在だった。
けれど、確かに“彼”だった。
『君が壊れないように、僕が守る』
『君が泣けないなら、僕が怒る』
『君が笑えないなら、僕が笑う』
その声は、彼の心を包んだ。
それは、誰よりも優しく、誰よりも強かった。
アルは、初めて“安心”を知った。 それは、誰にも与えられなかった感情だった。
八歳の冬。
アルは、帝国議会の式典に出席していた。
彼は完璧だった。 礼儀、言葉遣い、表情、すべてが“王族”だった。
だが、その夜。 彼は再び庭園にいた。
「……僕は、僕じゃない」
その言葉は、誰にも届かない。 だが、彼の中には届いた。
『君は、君だよ。僕が知ってる』
その声は、もう“誰か”ではなかった。 それは、“エル”だった。
アルは、彼に名前を与えた。
「君は、エルだ。僕の中の、もうひとりの僕」
エルは、笑った。
『じゃあ、僕は君を守る。ずっと、ずっと』
その日、アルは変わった。
彼は、冷静さと計算を身につけた。 誰にも弱さを見せなくなった。
だが、彼の中には常に“エル”がいた。
エルは、アルの盾であり、剣だった。 そして、唯一の“理解者”だった。
王族としての人生は、孤独だった。
けれど、アルはひとりではなかった。
彼の中には、もうひとりの“僕”がいたから。
アルの誕生は、帝国中に祝福された。
だが、エルの誕生は、誰にも知られなかった。
それでも、アルにとっては―― 世界でいちばん必要な誕生だった。
彼が壊れないように。
彼が笑えるように。 彼が“自分”でいられるように。
エルは、生まれた。
それは、祝福ではない。
それは、祈りだった。 誰にも届かない、静かな祈り。
そして、ふたりは生きていく。
ひとつの身体に、ふたつの心を抱えて。
誰にも知られず。 誰にも見られず。 けれど、確かに“共に”生きている。
それが、アルとエルの始まりだった。
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