夕陽色の席

こよ

奥で香るいつもの香り

 待ちに待った夏休みが始まった。せっかくの長期休み、たくさん遊びに…いく予定が残念ながら入っていない。人見知りであまり友達のいない私は遊びに誘うなんてことはできず、課題と2人きりの夏休みを過ごすことになっているのだ。けれど家では幼い兄弟が家で騒いでいて、とても課題ができたものではない。ということで場所を変えようと外に出てきたわけだがあまりにも人が多い。満員電車に乗っているのだろうか。ただでさえ暑いというのに人が密集しすぎて余計に暑くなっている。とにかく少しでも人の少ないところを求めて歩いていく。すると今まで行ったことのない裏路地にでた。そこから都会の喧騒を聞きながら少し歩みを進めると古ぼけたビルの一角に喫茶店を見つけた。他に作業にうってつけな場所はなかなかないだろうし、そもそも暑さが限界に達していたためこの店にしばらくお世話になることとした。重いドアを開けると少し効きすぎな冷房の風が吹き込んできた。ドアが完全に閉まると、先ほどまで都会にいたと思えないほど静かで、別世界に入り込んだのかとさえ思わされた。静かな店の中、お店の人が触る食器の音と落ち着いたジャズのBGMがマッチしていて安心感がある。ふと席に目をやると1番奥の席に1人先客がいる。どこかの本から出てきたのかというほど端正で整っていて繊細な目鼻立ちをしている。ペンを持つ指がやけに白く長く、伏せた睫毛が影を落としていた。どこか既視感を覚えながら他の空いていた席に腰を下ろし課題に取り掛かる。すると突然神からのお告げを受けたかのように先程の人が何者だったのかを思い出す。そうだ、今をときめく有名小説家の星野悠先生ではないか。メディアに少し出た時にその圧倒的ビジュアルで一躍話題になっていた人だ。本当に実在したんだ。実在するのは当たり前だが実際に同じ場所にいるとなると少し不思議な感覚になる。そんなこんなでその日はあまり課題に集中できないまま1日を終えた。

 喫茶に通うようになってから1週間が経過しようとしていた。課題だけでなく読めていなかった本を読んだりなど、かなり充実した時間を過ごせている。そして例の小説家だが、私がいくら早く行ってもすでにいつもの奥の席に座っている。今日は英語の大量のプリントの課題を終わらせようとやってきたのだが、

「あっ」

なんということだろう。プリントを全て床に落としてしまい大惨事になってしまった。顔が燃えていないかと不安になる程赤くなるのを感じる。幸い星野先生以外客はいないため大恥をかいた訳はない、と思いたい。そんなことをことを考えている暇はない。早く拾わなくては、と屈んだ時ふわっと少し甘いがどこかスパイシーな一面も感じられるような香りが鼻に入る。顔を上げるとなんとあの星野先生が私のプリントを拾っているではないか。

「えっ!?」

思わず声を上げてしまい星野先生が驚いたようにこちらを見る。

「どうしたんですか。」

「いや、あの、なんで星野先生が」

「おや、私のことをご存じなんですね。」

ふっと星野先生が微笑む。本当に顔が整っていらっしゃる。自然と鼓動が早くなる。

「ああ、まあ、一応。ってそうじゃなくて、なんで突然星野先生が私のプリントを拾ってるんですか。」

私だけ何もしないのもまずいので急いでプリントを拾う。

「おや、何かいけない理由でもありましたか。」

「ないです。助かります。ありがとうございます。」

いけない理由なんてないし本当にありがたいので食い気味に返事をする。どこか掴めない人だなと思う。

「ここ最近よくきてらっしゃるなと思っていたのですがこれを見る感じ夏休みの課題ですかね。はいどうぞ。」

プリントを拾い切った。ほとんど星野先生が拾ってくださった。

「ありがとうございます。本当に助かりました。そうなんですよ。課題が多くて。あとは本を読んだり、」

「確かにあなた、本を読んでいた日もありましたね。どんな本を読むんですか?」

星野先生は意外と私のことを見ていたらしい。こちらが一方的に気にしているだけだと思っていたため恥ずかしくなる。

「ファンタジーとかミステリーをよく読んでる気がします。でも基本何でも読みますよ。星野先生の本もいくつか読みました。」

「おや、それはありがたい。今後の執筆の参考にもいくつか感想を聞いてもよろしいですかな。」

「え、感想ですか。うまく伝えられる自信がないのですが、」

まさか作者に直接感想を伝える日なんてものが来るとは思ってもいなかったし、読んだのもかなり前だったため記憶を絞り出しながら拙い日本語で伝えていく。そんな私の話を星野先生は興味深そうに聞いてくれる。

「星野先生はその本を書くにあたってここがお気に入りとかあるんですか。」

「その本ですと、」

この日は星野先生と本の話で1日が終わった。

「すみません、こちらが聞いたばかりに課題をする時間なかったですよね。」

「全然大丈夫です!こちらこそ色々ありがとうございます。」

2人で店を出ながら話す。

「そういえばお名前を伺っていないので伺ってもよろしいでしょうか。」

「そういえば!名乗っておけばよかったですよね、すみません。糸瀬雪と言います。」

「では糸瀬さん、また明日お会いしましょう。」

名前を名乗って解散となる。明日もいくなど言っていない中の明日お会いしましょうは星野先生にとってもう常連認定されている気がして嬉しかった。

 その日以降私と星野先生は毎日話す仲となった。時々課題がわからないと泣きついて助けてもらったり、小説家としての話を聞かせてもらったり、仕事や課題のことは忘れて趣味の話をしたりなど、かなり仲良くなれたと思う。

「星野先生はいつもここにいる気がしてるんですけどお仕事とかは大丈夫なんですか?」

「ちょうど糸瀬さんがここにき出した時期に執筆もひと段落ついていて今は大丈夫なんですよ。」

心配ありがとうと言わんばかりの笑みを浮かべる。いまだに星野先生の綺麗なお顔での笑顔には慣れない。心臓がバクバク言っている。

「おそらく糸瀬さんが夏休み終わるくらいにまた新しいものを書き始めることになるかと。」

「そうなんですね!楽しみにしてます!!」

こうやって会話していると、世間で話題となっていて普通なら新聞や画面の中のメディアでしか見ない人もこの喫茶では1人の人間なんだなと感じる。仲良くなれた優越感がないと言ったら嘘になる。ただそれよりも星野先生と過ごす時間は何にも変えがたい特別な何かがある。正直この店に来る理由も課題をするため、というより星野先生と会うための方が大きくなってきている。

「そういえば星野先生夏が終わったらまた執筆が始まるって言ってましたけどここには来るんですか?」

「なんともいえないですね。糸瀬さんはどうなんですか?」

「学校があるからずっといるっていうのは難しいですけど休日とかは来ようかなって思ってます。」

話題の対象をずらされたことには気づいている。だが聞き直すのも何か違う気がしたからスルーした。

「糸瀬さんがくるなら私も行かないわけにはいきませんね。」

少し考えてから星野先生は言う。

「冗談はやめてくださいよ。」

最近星野先生はこちらが勘違いしそうなことを突然言い出すから心臓に悪い。なんだかんだ言って夏休みも残り1週間となっていた。終わってほしくない。このままずっと星野先生と喫茶で1日中語らう生活を続けていたい。夏の終わりを急かすように、窓から差し込む夕陽がやけに強く感じた。

 夏休み最終日から、突然星野先生は喫茶店に姿を見せなくなった。お店の人に聞いても、特に何も言われていないという。あの日、これからも来るのか尋ねたときにぐらかされたのは、やっぱりしばらく来られないとわかっていたからなのだろう。私も心のどこかで、それに気づいていた。このまま二度と会えないのだとしたらあまりにも辛い。でも星野先生なら本当に最後なら何か言葉を残してくれたはず、だから信じるしかない、と自分に言い聞かせる。学校が始まっても、帰り道には必ず喫茶店に立ち寄った。休日は変わらず通い続けて、先生がいつも座っていた奥の席に腰を下ろす。背もたれの少し硬い感触も、テーブルの木目も、すべてが星野先生の気配を宿しているように思えた。カップに映る夕陽が揺れるたび、ふと甘くてスパイシーな香りを思い出す。幻のように漂っては、心臓をぎゅっと締めつけてくる。先生はどれだけここに座っていたのだろう。今もまだ、そこにいるような気がしてならなかった。

 それから半年ほどその生活が続いた。もう夏とは真逆の真冬である。その間に星野先生が言っていた夏前に書いた本も出版された。その本を買ってからはお守りのように毎日持ち歩いて喫茶店に通った。今日は休日だから家から喫茶店に向かう。すると途中の本屋で見慣れた文字を見つけた。「星野悠、新刊」胸の奥が一気に熱くなる。寒さのせいなのか、はたまたずっと待っている人の名前を見つけたからなのか震える指先で新刊を1冊とる。帯には「夏の静かな喫茶で芽生えた淡い恋物語」と書かれている。そこからは早かった。急いでレジに持って行き、いつもの店のいつもの席に座って本を開く。ページを捲るたびあの時過ごした時間がこぼれ落ちてくる。あの夏は全部幻じゃなかった。ちゃんと星野先生も大切に思ってくれてた。読めば読むほど会いたい気持ちが募っていく。最後のページを読み終え、本を閉じる。朝早かったはずがもう夕方となっている。店内は初めて店に来た時と同じように静かにジャズだけが響いている。紅茶のおかわりをいただいて感傷に浸っていると、カランとドアが開く音がして、はっと顔を上げる。綺麗な真っ赤な夕陽が窓のガラス越しにきらりと揺れた。

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