言葉に葬送、スノーボール

三葉

言葉に葬送、スノーボール

 The truth, the whole truth and nothing but the truth.


 中学三年の秋、片田舎の寂れたおれの学校にあきは転校してきた。

「あきさんは話せないので、筆談で会話してくださいね」

 教室前方の黒板の前で、あきの隣に立った担任がそう言ったのを今でもはっきりと思い出せる。

 筆談か。あまり目にしない現象に、おれはちょっとばかり興奮していた。

「あのさ」

 その日の放課後、おれは自席に座っていたあきに話しかけた。

「一緒に帰らない?」

 あきは顔色ひとつ変えず真顔で、ただぽつりと頷いて立ち上がった。


 山に囲まれた、湖だけが取り柄のその町はその季節、もうすでに木の葉が落ち始めていて、時折吹く北風が辛かった。

 俺の右隣をあき、左隣を幼馴染のしほが歩いている。

「へえー、転校してきたんだね」

 俺がざっとあきについて説明してやると、しほは物珍しそうにそう言った。

 あきには聞こえているのか聞こえていないのか分からない。

 ただ頷くばかりだ。

「ただ、なんか話せないらしいから、筆談で会話するんだってさ」

「え、つまり、耳が聞こえないってこと?」

 しほがそう言ったが、実は俺も気になっていた。

 耳が聞こえないから話せないのか、単純に声が出ないから話せないのか。

 しかし、そのしほの問いに対して、あきは首を横に振ったから、おそらくは後者なのだろうと思う。

「まあ仲良くやろうぜ」

 その時おれは個人的にあきに強い興味を持っていたから、そう言った。

 あきは首を縦に振った。話さないというだけで、随分と幼く見えるものだ。


 それからひと月ほど経って、いよいよ冬になり始めた。

 日の暮れがどんどんと早まり、木は完全に裸になった。

 どんよりとした空の向こうから吹いてくる北風が容赦無く体温を奪うので、何枚も重ね着しないと厳しかった。

 その頃になると、湖畔の公園で、おれらはよく放課後を過ごすようになった。

 あきは割とおれらと関わるのを嫌に思っていたわけではないようだったし、しほも物珍しく新しい人間に興味を持ったのか、それなりに交流が続いていた。

 もっとも、かなり社交的であるしほは、あきがどんな人間であろうとあきが嫌がらない限り、仲良くすることを試みていたことだろう。

 だだっ広い湖の岸の一辺にある、小さめの公園だ。

 放課後、三人でそこへ行く。

 あきはいつも同じベンチに座って、ただ呆然と湖を眺める。

 おれはそんなあきに向かってこまめに話しかける。

 話しかける、というよりは訊ねる、と言った方がいいだろう。

「出身はどこなの」とか、「好きなものは」とか。

 まるで初年度の自己紹介で話すようなことを延々と問う。

 その度にあきは、ゆっくりとノートを広げて書き、答える。

 しほは自前のデジカメで湖の景色を撮る。写真が趣味なのだ。

 そして、満足がいくのが撮れると、撮影をやめ、おれらの不毛な会話に混じる。

 しほが入ってくれるといつも、まるで錆びついた歯車が潤滑油によって動き出したかのように、会話が円滑に、そして盛り上がって進んでいく。

 おれが問い、あきが答え、それに対ししほが良い反応をし、次の話へと繋げてくれる。

 その中で、おれはあきについて深く知ることができる。

 少しずつ、距離が縮まっているような気がする。

 おれはこの三人でいる時間が割に好きだった。


 初雪の降った日のことだ。おれはあきの秘密を知る。

(少しお手洗いに行ってくる)

 いつもどおり湖畔の公園で過ごしていると、あきがそうノートに書いて見せて、すたすたとトイレの方へと歩いていった。

「はいよ」

 なんでもなく返事をして、おれはいつものあきみたく湖をずっと眺めてみた。

 しほが相変わらずに写真を撮っている。

「いいの撮れそう?」

 少しも経たずに我慢ならなくなってしまい、おれはしほにそう訊ねる。

「うーん、今日はちょっとだめっぽいかなー」

 悪戦苦闘しているようだ。

 次に、何か食べたいと思い、バッグを漁ってみるも、何もなかった。

 さきいかくらい入っていれば良かったんだが。

 まあいい。

 煙草とライターは入っていたので、一服してくることにした。

「ちょっとおれもトイレ行ってくるわ」

「はーい」

 その頃になって、雪がぱらぱらと降り始めた。

 今冬初めての雪だ。

 雨粒にも似たそれは、やがて辺り一面を真白く染め上げてしまうことだろう。

 しほの撮影はより難航するだろうと勝手に考えた。

 そうこうしているうちに、おれはトイレに辿り着いた。

「ああ……」

 すると、中から声がした。

 聞いたことのない声だった。

「ああ!」

 声の語調は強まり、おれはその時若干戦いた。

 しかし、あきのことを思い出し、その狂気じみた謎の声から彼自身が危ない目にあっているのではないかと心配し、おれは決意してトイレの中に入った。

 すると、そこにいたのはあき、ただ一人だった。

 あきはただ突っ立っていた。

 そして、おれは驚くべきものをみた。

 あきの手から、物理的な「文字」が生まれていたのだった。


「あき、なんだこれは」

 おれはあきにそう訊ねた。

「違うんだ」

 あきはそう、おれにとっては初めて聞く肉声で答えた。

 そして、彼がそう言うと、全く信じられないようなことなのだが、彼の手から(違うんだ)と文字が生まれた。

 プラスチックのようにも見える白色の、文字と解釈できるその個体は、あきが話すと彼の手のひらに一瞬として生まれるようだった。

 そして、先ほど俺がみた(あ)の文字たちは、気付かぬうちに消えた。

「説明してくれないか」

 おれはあきにそう求めた。

 あきはただいつものように頷いた。


 しほのところまで戻り、おれはあきに再度説明を求めた。

「話したいことって?」

 しほはデジカメをバッグの中にしまい、あきに向かって言った。

「これでおおよそ分かると思う」

 あきはそう言った。

 そして、それと同時、あきの手のひらから(これでおおよそ分かるだろう)と、一文字あたり五センチ平方メートル程度の文字が生まれた。よく見るとさっきとサイズが違う。

「え、え!?」

 一方で、しほはひどく驚いているようだった。

「僕は話すと、物理的な言葉を手のひらから生んでしまうんだ」

 そして、そう、なんだか申し訳なさそうな顔であきは言った。

 おれは聞きたいことでいっぱいだった。

「周りの人間には言ってないのか」

「言ってない」あきは答える。

「なんでだ」

「面倒ごとになりそうだったから」

「そうか」

 またしても詫びるような顔で言うから、おれはなんだか彼を責めているような気になって言葉が続かなかった。

「すごいね」

 すると、純粋に感心しているような声で、しほがそう言った。

「ありがとう」

 しほに対し、あきは気恥ずかしそうに笑う。

 おれは当時、しほのそんな一面を尊敬していた。

「いつから、それができるようになったの?」

(ありがとう)の文字が消えたところで、しほはそう訊ねた。

 彼女はもうすでに、あきのその特質を受け入れているようだった。

(これ以上は紙に書くよ。小学生の時に初めて転校した頃から)

 あきはいつもの筆談用ノートを取り出してそう答えた。

 筆談の理由に対する誤解が、その時解けたのだった。

「そっか、そりゃ大変だったね……」

 しほはあきを慮るような口調でそう言って、静かに微笑した。

 雪が少しずつ積もりつつあった。


 あきの秘密を知ってからも、おれたちの関係は変わらなかった。

 毎日放課後に湖畔の公園に集まり、惰性ともとれるような姿勢で日々を過ごした。

 おれはあきによく質問をし、あきはおれの質問に答えながらぼうっと湖を眺め、しほは写真を撮った。

 何も変わらない、退屈だが心地の良い日々が続いた。

 しかし一つだけ、変わったことがある。

 あきが筆談以外で、ノートに文字を書くようになったのだ。

 会話の最中や街を歩いている時、屋外スピーカーから流れる町営放送を聞いた時など、ふとした瞬間に彼はノートを取り出して何かを書き付けていた。

 一度訊いてみたことがある。

「何書いてるの?」

 するとあきはおれにこう答えた。

(気になった言葉をメモしているんだ)


 冬本番の寒さが町を覆う時期だった。

 おれたちにとって、おれ自身の人生にとっても、非常に大きな出来事が起こった。

 その時おれは、放課後の公園から帰り、自宅のこたつでごろごろしていた。

 冷えた手足の末端を温めていたのだ。

 両親が帰ってくるのはかなり遅いので、一人だった。

 午後六時ごろのテレビ番組はどれも報道系ばっかりで面白くない。

 そんなつまらない画面を見ながらおれは割引されたみかんを、その時食っていた。

 すると、ピンポーン、と、呼び鈴が鳴った。

 一回。

 おれは立ち上がった。

 宅配便か? いや、何も言われていない。

 そんなことを考えていると、ピンポーン、と、また呼び鈴が鳴った。

 二回。

 そして、すかさずにまた鳴る。

 三回。

 おれは少し怖くなった。

 背筋をゆったりと撫でるような恐怖だった。

 がたがたと本当に震えながら玄関まで歩いた。

 あっという間に辿り着いて、ドアを開けた。

 強めに降っている雪と、一面の真っ暗な世界が見えた。

 次に、あきの姿が見えた。

「おお、どうした?」

 おれは心底安堵して、あきにそう訊ねた。

 呼び鈴が何度も鳴ったことについては触れなかった。

 それに対する疑念よりも先に友人だったことに対する安心感が来ていたのだ。

「あのさ」

 あきは口を開いた。今日は筆談ではないらしかった。

 さっき公園で会った時はノートを持っていたのだが。

「なに?」

 言いながら、あきの手のひらから現れた文字を見た。

 若干青っぽい色で、小さめだった。

 いつもと少し違う様子に戸惑っていると、あきは一呼吸おいて言った。

「東京へ行こう」

「……え?」

「だから、東京に行こう」

「……は? え、いつ?」

「今から」

「本気で言ってる?」

「本気だよ」

 あきの発言は、完全におれの理解力の外側にいた。

 なぜ、東京に行くのか。

 もう日も沈んだと言うのに、なぜ今から行くのか。

 行くにしてもどう行くのか。

 ここから二百キロはある東京まで、一体どうやって。

 訊きたいことは山ほどあった。

 しかし、彼の目があまりにも「本当」であり、おれは何も言えなかった。

 虚を突かれていて、しばらくは半ば放心しているかのような状態だった。

 すると、あきはこう言った。

「来なくてもいいよ。もし来てくれるなら、暖かい格好をして、あるなら財布を持ってほしい。あとは何もいらない」

 いつもとは違った、芯を感じさせる勇ましめの声だった。

「わかった、準備する」

 気づけば、おれはそう言って、自室へと駆け出していた。


 三千円しかない現金と、持っている中で一番厚手のコートを着て、おれは外に出た。

「それで、これからどうする」

 言いながら、おれは今まであき、こいつに何かを期待してきていたんじゃないかと、そう思った。だから、この無鉄砲な行動に乗ることにしたのではないかと。

「しほを呼ぶ」

 おれの問いに対し、あきはそう答えた。

 彼女が来るかどうか、正直来ない可能性の方が高いが、おれは何も言わずに黙って道を案内した。


 しほの家まで辿り着いた。雪はおさまってきていたが、夜はより深みを増していた。

 インターホンを鳴らす。大丈夫。まだこの時間には、しほの両親は帰ってきていない。

「はーい」

 そう言いながら、しほは出てきた。

 オレンジのパーカーにねずみ色のゆったりとしたズボンを履いていた。

「みずほとあきじゃん、急にどうしたの」

 おれたちの姿を見て、しほは少しだけびっくりしていた。

 おれが何かを言う前に、問答無用であきが言った。

「今から、東京に行こう」

 おれの時と同じ、らしくなく迷いのないはっきりとした声だ。

「え?」

 数秒、沈黙が流れた後、やはりしほはおれと同じ反応をした。

 おれは何も言わないでいた。

 あきも何も言わなかった。

 すると、しほはこう訊ねた。

「あ、えとー、何のために行くの?」

 顔はいつもの笑顔だったが、その声にはいつもにはない真剣さがあった。

 あきはすぐに答えた。

「大事な人に会いに行くためだ」

 それは先ほどの語調よりもより切実で、真摯なものだった。

「そっか」

 しほはそう言って、少しばかり俯いた。

 そして数秒の後に、彼女は今度おれに訊ねた。

「みずほも行くんだよね」

「うん」

 おれは素直に答えた。

「わかった、行こう」

 それからはすぐだった。

 しほはそう返答すると、一度荷物を準備すると言って部屋に戻って行った。

 おれは訳がわからなかった。

 彼女がこの行動に乗るはずがないと思っていたからだ。

 確かに周りの空気を読む、人当たりのいいやつではあるが、こんなにも大胆というかはっきり言って頭のおかしなことをするやつではないはずだった。

 しかも、これはおれにも言えることだが、今は中学三年の秋。

 人のことを言えないが、まもなく受験という段だ。

 こんなにも大事な時に、そんな狂ったことをやるだろうか。

 やはり、おれには訳がわからなかった。


 十分ほどだろうか、そうこう考えているうちに、しほがやってきた。

 おれと似たような厚手のコートを着て、リュックサックを背負って現れた。

「じゃあ、行こう」

 あきはそう言って、歩き出した。

 その後ろを、おれとしほはついて行った。

 真っ黒で明らかにオーバーサイズのダッフルコートが夜道の中ではっきりと見えた。

 とりあえずおれは、全部考えないことにした。

 きっとしほもそうしたのだろう。


 二十分ほど歩いて、おれらの町は後となった。

 時刻はおそらく午後七時半前後だった。

 九時くらいになるとあきはともかく、おれもしほも両親が帰ってくるだろう。

 そうなると、いよいよおれらは一つの終わりを迎えることとなる。

 きっと、警察が出るに違いない。

 そうなると、宿に泊まる、ということもおおよそ不可能になる。

 もっとも、それは金銭的にも年齢的にも前提として無理なのだが。

 おれはあきにどれほどの算段があるのかよくわかっていなかった。

 しかし、こんな夜の始まりに外出を始める時点で、相当彼は今頭がすっ飛んでいるということは、何となく察していた。

「そこの駅から列車に乗ろう」

 すると、あきがそう言って駅の方を指差した。

 またしても、手から文字らしき固体が出来ているのが見えた。

「わかった」

 おれとしほは返事した。

 駅への道中、おれは全員に所持金を訊ねた。

 あきもしほも持っているのはおれと同じ三千円程度だった。

 列車で東京まで行くことはできないことが、その時確定した。


 おれたちが駅に到着すると、ちょうど列車がやってきた。

 事前にあきが時刻表を見ていたことはそれでわかった。

 とりあえずおれたちは、隣県の駅までの切符を買い、その列車に乗った。

 それで、だいたい五十キロは稼げた。

 つまり、残すところは約百五十キロ。

 そこを、金と相談しながら列車に乗ったり、歩いたりして向かわねばならない。

 この真冬に、正直絶望的な話だった。

 意味もわからない。

 おれはただ、あきの気勢におされ、そしてなんとなくの彼への期待から、この無謀な計画に載ってしまった。

 しほの理由はわからないが、きっとそんなとこだろう。

 しかし、選んでしまったからには自己責任だし、凍死しても文句は言えない。

 列車の中で、おれは今にも震え出してしまいそうだった。

 車窓の外には、雪に覆われているだろう鬱蒼とした田園風景、森林たちと、時折弱々しく光る車道脇の電灯が見える。

 車内には数人の乗客しかおらず、まるで何かのホラー映画みたいだ。

 横掛けのシートで、端からあき、しほ、おれの順に座っていた。

 途中であきがおれらに向かっていつものノートを見せた。

 そこにはこう買いてあった。

(駅を降りたら、道をしばらく歩く)

 覚悟の上だった。おれは頷いた。しほも分かっていたようで、頷いた。

 列車は着実に東京の方向へ足を進めていた。

 あと三十分もすれば、切符の到達駅に辿り着きそうだった。

 するとしほが手袋をとって、おれの手を握った。

 温かく柔らかな手が、おれの乾燥した手を覆うように触れた。

 まるでジェットコースターに乗っているカップルみたいだった。

 少し、気持ちが悪かった。


 隣県の駅に辿り着いた。

 おれたちが降りるころにはもう列車の中には人一人見えず、何だか寂しさとも恐ろしさとも似た情感が込み上げてきた。

 駅の中にあった時計によると、すでに九時は過ぎていた。

 おそらくは今頃、おれとしほの両親が程度の差こそあれ混乱しているに違いなかった。

 おれもしほも携帯電話の類を持っていないので、連絡、確認のしようもないのだが、間違いなく事態は少しずつ悪化し始めていた。

 見たことのない町、というよりも田畑の側の道を、あきの後ろをついていくような形で、おれたちは歩いて行った。

 体力的にも、この夜に歩ける距離なんてたかがしれていた。

 しかし、あきの様子を見るにやはり宿もないから、追っ手に捕まらないためにも少しでも距離を稼ぐ必要があった。

 黙々と、おれたちは歩き続けた。

 時折、高く積もった雪や、雪のせいで見えなくなっていた穴に注意をしながら。

 後に休むまでの道中、一度だけ、おれたちは会話した。

 その会話は、しほの発言から少し生まれたものだ。

 光が照っている街が遠くに見え始めてきたときだった。

「悪くなってみたかったんだ」

 しほが、そう言ったのだった。


「そろそろ休もう」

 少し大きめだった街の周辺を通り過ぎた後、あきが言った。

 おそらくは三時間ほど歩いていたので、十キロ強は進んだと思う。

 たったその程度の距離でも、足はだいぶ疲れ、雪と寒さによる霜焼けも心配だった。

 少し傷んでいる足先や指先には、もうすでにその前兆がみられていた。

「疲れたね」

 しほはそう言って、休む場所となる大きめの木の下でしゃがみ込んだ。

 車道からは少し外れているため多分バレないという、あきなりの算段だろう。

 幸いあった近くの自販機で、あきが三本温かいコーヒーを買ってきてくれた。

 それを飲み、おれたちは一息ついた。

 雪は多少降っていたが比較的落ち着いており、車もトラック以外ほとんど通らず、環境は落ち着いていた。

「体調は問題ない?」

 コーヒーを飲み終えると、あきがそう訊ねた。

 おれとしほは頷いた。

 やはりあきの手から生まれた文字は、白でなく青い色をしているようだった。

 それが少し引っかかったが、疲れがすぐに忘れさせた。

 おれたちは木の影に隠れて仮眠をとった。

 またしても、しほがおれの手を握った。


 薄明の中で起床した。

 硬い木と冷たい雪をベッドにして寝たせいで、だいぶ体が痛んだ。

 また、歯磨きをしないで寝たせいで、口の中が気持ち悪かった。

 おれが木の反対側に回ると、あきはもうすでに起きていて、地図を読んでいた。

「おはよう」

「おはよう」

 挨拶を交わし、彼の文字の色を確認し、やっぱり水色であることにおかしさを覚えた。

 おれは眠っているしほを揺すり起こした。

「っんー、あー、おはよー」

 彼女も無事に起床し、多少の痛みや気持ち悪さはあるものの体調がまだ問題ないことを確認した。

 自販機でそれぞれ水分を買い、おれたちはまた歩き出した。


 残すところ百四十キロだった。

 またしても、あきは列車に乗るようだった。

(近隣の駅から、東京方面への列車に乗る)

 彼は道中、そうノートに書いておれたちに見せた。

 車通も多くなってきており、逆に学生が怪しまれずに乗るなら今が最適だった。

 所持金は残すところ約千五百円強。

 かなりぎりぎりの戦いだった。

 頭の中で金勘定をしていると、駅に辿り着いていた。

 七十キロ分、切符を買うと千円ほどだった。

 これで財布の中身は小銭だけとなった。

 みな同じ程度を持ってきていたから、三人合わせると千五百円程度が残金だった。

 通勤時間帯の列車に、おれたちは乗った。

 一席しか座れそうになく、もちろんしほを座らせた。

 彼女はだいぶ申し訳なさそうにしていたが、三人の中で体力が一番ないのは明らかに彼女だったから、ここで少しでも温存してもらわなければならなかった。

 しかし、約三十分ほど列車に揺られると、段々と席も空いてきて、おれとあきも座った。

 座った瞬間に、全身に溜まった疲労と痛みから一時的に解放されたかのような爽快さがあり、少しばかり生き返るのを感じた。

 そうしてまた三十分ほど乗って、列車は切符の目的地まで辿り着いた。

 列車から降り、駅を出ると、雪はなく、しかし寂れた田舎町が、道沿いに田畑とともに点在するのが見えた。

 軽く飲み物を飲み、またおれたちは歩き始めた。残すところ、約七十キロだった。


 昨夜と同様に、三時間程度歩いた。日が高くなりはじめ、おそらくは昼時だった。

 十五キロくらいは歩いただろう。正直、疲労の積み重ねでだいぶしんどくなっていた。

 やはりしほもくたびれ始めており、一歩一歩が雑になりつつあった。

 そして、昨夜のみかんからおれはなにも食べていなかった。

 きっとしほやあきも同じような感じだったろう。

 空腹。それに加えて、全身の歩き疲れ、眠った場所と霜焼けによる痛み。

 それぞれが時間が経つにつれて少しずつ強まりつつあった。

 みな疲弊しており、ほぼ会話はなかった。

 しかし、このままではまずいと思った。何かを口にしなければならない。

「そろそろ、なにか食べないか」

 おれは二人にそう言った。

「うん、そうだね」

 いち早く反応したのはしほだった。彼女は絶対的に疲れていた。

「そこのコンビニに寄ろう」

 あきは周囲を見渡した後、そう言った。

 そうして、おれたちは食事をとることとなった。


 とはいえ、その時所持金もだいぶ苦しかった。

 残金は五百円。今後の水分等を考慮すると、ここで使い切るわけにはいかない。

 結局、購入できたのはおにぎり一個だけなのだった。

 それを、コンビニ前の駐車場で寂しくも食べた。

 あまりにも惨めな気分となり、おれたちの周りには陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 そんな中、しほが「おいしいね」と笑ってくれたおかげで、その空気感も多少は和らいだ。あの湖畔の公園を、おれはふと思い出した。

 そして、その連想の中で、今地元ではどうなっているのだろうと思った。

 今日は休日だから、学校はないが、そんな小規模なことではなく、きっと警察には伝わっている。そして、捜索願、というやつがだされているに違いない。

 両親はどんな顔で今いるのだろう。おれたちはこれから、仮に東京にたどり着いたとして、それから先はどうなるのだろう。

 考えると、急激に、自分たちのしでかしてしまったことの重大さを痛感した。

 だからといって、あの時おれがあきの提案を断り、否定することができただろうか。

 言葉を作り出せる転校生との出会い。思えばおれはその時から、とっくのとうにどうかしていて、久しぶりに感じた期待感や高揚感というものに振り回されていたのだ。

 今までの、くそったれみたいでつまらない、悲壮な人生からのギャップで。

 あの、両親がおれを見限ったあの瞬間からの、諦念的な人生からのギャップで。

「なあ、あき」

 おれは、おにぎりのプラ包装を適当に捨てて、言った。

「葬送だ。きっと、おれは葬送したかったんだ」

 あきは呆気に取られていたが、はっと戻ったかと思うと、ノートを取り出して何かを書きつけた。

 しほは訝しげな顔でおれを見ていたが、しばし顔を見合わせた後に、彼女はごみを捨てに行った。

 店内に彼女が入っている間、あきはおれにこう言った。

「言葉は、罪悪だよ。みずき」

 寂しそうに笑った彼の顔は、きっと死ぬまで忘れることはないだろう。

 彼は物理的になったその言葉たちを、おれに投げてきた。

 水色に美しく存在した硬い十二文字は、おれの手と腕の中に入り、やがてまた一瞬として消えた。

 しほが店内から出てきた。

 空が少し青く澄んでいた。今が、進み時だった。


 また三時間ほど歩いた頃だった。

 ようやっと、東京の都境まで辿り着いた。

「やったぁ」

 しほは東京都の標識を見て、そう吐息とも取れるような声を出した。

 昼食のおかげか多少疲れは穏やかだったが、それでもやはりかなりしんどい状態だった。

 その中で見えた標識は、達成感に満ちたものだった。

 ここから、あきの目指す東京の街までがどれくらいか、そこはさっぱりだが、とにかく、一つのゴールであることに変わりはなかった。

 おれはしほと拳をぶつけた。

 そこで、あきがずっと後ろを見つめていることに気づいた。

「おい、どうしたんだあき、都境だぞ」

 おれはそんなあきに話しかけた。

 するとあきはこう言った。

「逃げるぞ。警察が来ている」

「はっ、警察?」

「いいから走れ!」

 おれが戸惑っていると、あきは今までで一番大きな声量でおれたちにそう叫んだ。

 おれたちは走り出した。

 その間、後ろを振り返ると、二人の青い制服を来た警察官が、百メートルほど先からこちらに向かって走ってくるのが見えた。

 かなり厳しい状況だった。

 両側が斜面で、山道のような場所だった。

 逃げる場所はどこにもない。

 ただ進み続けることしか、おれたちにはできないのだった。

 しかし、満身創痍なおれたちと、力強い警察官だ。

 勝負は明らかに目に見えていた。

「あき、捕まってしまう!」

 おれは横を走るあきに向かって言った。

 しほは何も言わずにおれたちの前を走り続けている。

 しかし、これもいつまで持てるかわからない。

 三時間歩き続けた後で、もう気力だけで走っているのだ。

「くそ、これだからもう全部嫌なんだよ」

 あきは走りながら小さくそう言うと、急に走るのをやめた。

 そして後ろに向かって、

「ああああああああああ、全部、全部、嫌いだ!言葉なんて、文字なんて、消えちまえ!」

 と、大声で叫んだようだった。

 すると、おれの視界に、あきの手から順番に、今までからは考えられないほどに大きな沢山の文字が出来上がり、それをあきが警察官の方に投げつけている、そんな画が映った。

 途中からは投げるのをやめ、そこに放置したまま、走り始めた。

 なんとかおれたちに追い付き、「あの文字たちもいつまで存在してくれるかわからない、今のうちに少しでも遠くに逃げるんだ」と言った。

 おれたちは最後の気力を振り絞り走り続けた。


 それからどれだけ走ったのかわからない。

 途中で脇道らしき砂利道に入り、また走り、後ろを振り返り警察官が来ていないことを確認し、おれたちは走るのをやめた。

 止まると、あきは後ろを用心深く警戒し、おれはその場でへたりこみ、しほはふらふらとそのまま倒れ込んでしまった。

 危ないと思って、地面に激突する寸前でしほを抱えられたが、彼女は意識が朦朧となっていた。限界を超えていたのだった。

「しほ、水を飲め」

 そう言って、おれはしほの水を飲ませた。

 少しばかり飲んで、もう吐き出しそうになってしまったから、とりあえずそれでやめた。

 そして、道の端に横たえ、しばし休ませた。

「ありがとう……」

 そう言って、しほは目を閉じた。


 しほが目を開けたのは、すっかりあたりも暗くなってきた頃だった。

 幸い近くに電灯があったおかげで、照明に困ることはなかった。

 閑静な場所で、物音一つ聞こえなかった。

 そんな中で布ずれの音がし、しほの起床を悟った。

「おはよ」

「おはよう」

 おれはしほの方に向き直った。

 あきは疲れのせいかすっかり眠り込んでしまっていた。

「さっきはごめん、ありがと」

 しほは少し微笑しながら、そう言った。

「気にするな」

 暗がりの中で、電灯だけが確かに辺りを照らしてくれていた。

「……入りな」

 おれは着ている大ぶりなコートの右側を腕で持ち上げ、そこに入るように促した。

 ここが東京とはいえど、まだ西の山間であり、冬の真っ只中、気温はゆうに氷点を下回っているような気がしたのだった。

「うん」

 しほは素直におれのコートの中に入った。

「あのさ」

 二人同じコートで落ち着いていると、しほが言った。

「なに」

「私が言ったこと、覚えてる?」

「いつ」

「確か、雪道の中で」

「ああ、覚えてるよ」

 おれは言った。

「悪くなってみたかった、って」

「正解」

「よし」

「ねえ」

「なに」

「悪いこと、してみよっか」

 しほはそう言うと、自分のリュックを手で引き寄せ、中から瓶のようなものを取り出した。

「何これ」

「お酒」

「なるほどな」

 おれが頷くと、しほは小気味のいい音を立ててキャップを開けた。

「スノーボールって言うの」

「スノーボールか。聞いたことない」

「実家にあったやつで一番良さそうなのを取ってきた、多分バレてる」

「余罪ができたな」

「だね」

 北風が時折吹き、随分冷えてきていた。

「飲んで」

 しほが言った。

「おれが先に飲んでいいのか?」

「逆に、後に飲みたいの?」

「別にそうじゃないが」

「なら、先に飲んで」

「わかった」

 おれはしほから瓶を受け取り、思い切り飲んだ。

「おお」

 しほは少し驚いたような声を出した。

 冷たいぬるっとした液体が喉を穏やかに滑る。

 口の中をアルコールっぽいまとわりつくような匂いが満ちた。

 酒は初めてだったが、不思議な感覚だった。

 心拍が少しずつ上がっていくのを感じた。

 疲れというか、全体的な怠さが消えていくのを感じた。

 凄まじく衝撃的な感覚だったのだ。

「どう?」

 しほがそう訊いた。

「すげえ」

 おれはただそうとしか言うことができなかった。

「かして」

 おれはしほに瓶を返した。

 するとしほも飲み始めた。

 おれと同じように、思いっきりに彼女は瓶を傾けた。

 瓶から口を離すと、少しばかり咳こみ、そしてぼおっと俯いた。

「まだ、所詮子供なんだな」

 少し経って、彼女はそう呟いた。

 そして、寂しく笑うのだった。


 気づけば眠っていたようで、次に目を開けるともう空が薄く明かり始めていた。

 あきが起きていて、おはよう、と挨拶をした。

 しほはまだ眠っていたので、コートを完全に被せそのままにしておいた。

 立ちあがろうとすると、ぐわんと後ろから殴られたような感覚になった。

 そこで、完全に理解した。酒のせいで完璧に体調不良だ。

 頭が痛く、喉の奥が気持ち悪い。視界が妙に歪み、ふらふらとする。

「大丈夫?」

 と、そんなおれを見てあきは手を貸してくれた。

「大丈夫だ、なんてことない」

 おれは元気を作って、立ち上がった。

「お酒、飲んだんだな」

 あきが訊いてきた。

 その目には、怒りも悲しみも、何の感情もこもっていなかった。

「ああそうだ」

 おれは返事した。

「みずほ、煙草持っていたよな」

 すると、あきは意外なことを訊いてきた。

「ああ持ってる」

 今にも吐きそうな気持ち悪さを抑えながら、おれは答えた。

「一本、貸して」

「構わない」

 おれはポケットからケースを取り出し、あきに一本渡した。

 おれも吸うことにした。

 あきがたばこを咥え先端をこちらに向けてきたので、ライターでつけてやった。

 おれも火をつけて、吸い込んだ。

 冷え込んだ空気に、たばこの煙が立ち上っていく。

「あき、お前意外とやってんな」

 静かに吸っているあきの方を向き、おれはそう声をかけた。

「そんなもんだよ」

 あきはそう答えた。

 気持ち悪さがさらに加速していくのを感じた。


 しほが起きたところで、また歩き出した。

 彼女は、演技をしているのかもしれなかったが、意外に平気そうだった。

 しっかりとした足取りで、道を一歩一歩進んだ。

 おれは旅の疲労と、アルコール、一酸化炭素のせいであまり経験したことのない苦しさに襲われていた。

 ともすると今にも無いもの全部吐き出してぶっ倒れてしまいそうだった。

 しかし、何とか気を保って歩いた。

「あと十キロもしない」

 途中で、あきがそう言った。

 黙ったままおれとしほは頷いた。


 途中で水を買い飲んだり、休息を取りながら、おれたちは無事に目的地まで辿り着いた。

 西東京のある町。

 奥の方ではなかったために、当初の予想からは遥かに近く感じられた。

(ここだよ)

 あきは久しぶりの筆談ノートを通してそう伝えた。

「着いたのか……」

「よかったぁ」

 おれとしほは駅前と見えるその場所にある広場で、言ってへたり込んでしまった。

 何とか無事に辿り着けたことに、おれは得体の知れない達成感のようなものを感じていた。その後のことなんて、何にも考えていなかった。

(僕は少し人を探してくる、みずほとしほはそこで少し待ってて)

 するとあきがそう見せて、駅の方へ歩いて行った。

「わかった」

 おれはそう返事して、あきの方に少し手を振った。

 あきはこっちを向いて手を振り返した。

 そして、そのまま去って行った。

 隣を見ると、しほが目を瞑って眠っていた。

 気持ちよさそうに目を閉じて、差した日光を顔いっぱいに浴びて眠っていた。

 それを見ていると、おれも眠たくなってきてしまった。

 まぶたが自然と落ちたらしい。


「聞こえてますか」

 うるさい声に、目が覚めた。

 まぶたが開き、少しずつ周囲の状況が明瞭になってきた。

 騒がしい音がする。誰かの皮膚の感触がある。

 青い制服が見える。空は暗く沈んでいる。

「ちょっと、この子もしかして」

「なんだ」

 野太い男の声だ。

「あの失踪の」

「……ああ、ほんとだ」

「もしもし、あなたは__みずほさんでお間違えないですか」

 それで、完全に目が覚めた。

 目の前には警察官がいた。

 周囲を見渡すと、しほにも警察官がついていて、彼女はまだ目を閉じていた。

 あきの姿がなかった。彼は戻ってきていない。

「くそ!」

 おれは地面を叩いた。どうやら、彼が戻る前にバレてしまったようだった。

 すると、たくましい警察官の手によって押さえつけられてしまった。

「隣の女性と一緒に、署までご同行願えますか」

 抵抗する由もなく、おれは頷いた。


 警察署に辿り着き、おれとしほは別々の部屋に連れて行かれた。

 彼女はあの公園で揺すり起こされたのだが、目覚めから終始、まるで意識がないかのような表情でいた。

 だが警察署で別れる時に、少し涙ぐんでいるのが見えた。

 彼女がこの後おかしくならないことを祈った。

 警察官との話の中で、おれはすべてを語った。

 捕まってしまった時点で、完璧におれたちの敗北だった。

 目的地に辿り着くことはできたが、あきの目標が達成できたのか、彼と対面することが叶わなかった以上、満点ではない。

 列車と歩きを繰り返し、ここまで来たこと。

 あきという友人の願いで、二日前の夜に家を出たこと。

 常習的にたばこを吸っており、今回道中で酒を飲んだこと。

 すべて語った。

 警察官は険しい顔をしながら、時折質問を挟みながら、おれの話を聴いた。

 まるでドラマのワンシーンみたいで、少しおかしかった。

 もっとも、あまりに体調が悪いのでそんなこともその時はさして思わなかったが。

 一通りを話した後で、警察官が訝しげな顔で訊いてきた。

「経緯は一通り分かりましたし、これから__さんとあなたの友人は長野の方に送るのですが、一個だけ訊きたいことがあります」

「なんですか?」おれは素直に訊ねた。

「あき、という方について、こちらで色々確認しているのですが、何一つとして情報がないんです」

「……は?」

「捜索願はおろか、学校に確認したりもしたんですが、名前が見つからないんです。念の為、あきさんの本名を教えてください」

「はい、えーっと」

「……」

「……あれ」

 おれは、あきの本名を知らなかった。


 その後のことはよく覚えていない。

 どのように地元まで帰ったのか、親の前で何を話したのか。

 事後処理はどのように進んだのか、しほとはどう再会したのか。

 十年経った今でも、そのあたりのことがどうにも思い出せないのだ。

 確かにわかっていることは、ここに書いた、あきとの出会いからの旅中での出来事、そしてここ十年の大まかな成り行きだ。

 この話の最後に、それを書いておくことにする。

 まずあきについてだが、地元についてから色々と調べてみた。

 しかし、何一つとして彼に関する情報は出てこなかった。

 担任はあきについて何も知らなかったし、彼の座席もなくなっていた。

 名簿からは彼はいなくなっていたし、一番恐ろしかったのは、しほすらも彼のことを知らないと言ったのだ。

 彼女曰く、あの旅はおれの誘いで始まり、二人だけだったとのことだ。

 しかも、湖畔の公園でのことについても何も記憶していなかった。

 あきに関する言葉の能力といったもの全ても、まるでおれが作った作り話かのように、彼女は聞いていた。

 彼女のデジカメにも、あきはおろか湖の写真すら何も残されていなかった。

 あきに関する全てが、あれ以来おれの周りから姿を消したのだ。


 次にしほについてのことだ。

 彼女はあの一件以来、学校でも町でも敬遠されてしまい、ひどく根暗な人間になってしまった。

 東京まで逃避行したらしい、酒を飲んだらしい、といった事実から、おれと性的に接触しただとか、実は以前窃盗していたなど、根も葉もないことまで、ありとあらゆることが噂として人伝いに伝播していったのだ。

 そして最終的には、彼女は引きこもるようになってしまった。

 皮肉なことにも、彼女が引きこもるようになってから、そういった噂話は急激になくなっていったものだった。

 また、それ以来おれは彼女と会っていない。

 何となく、おれ自身が会いたくなかったのだ。

 そうして、彼女が何を考えていたのかも知らずに、おれは大人になり町をでた。


 そして、おれのことだ。

 今おれはあの旅の目的地だった西東京の町で暮らしている。

 ろくに大学へも行かず、就職もしなかったから、アルバイト掛け持ちのフリーター生活だ。

 あの一件以来、例えるなら透明な水みたいに、おれの心は悪い意味で空いてしまった。

 何にも性を出せず、死ぬまでの、暇潰しにもならない暇潰しのような感覚で生きていた。

 そしてこれからも、それは変わらないような気している。

 あの日、あきの超越的な言葉の能力を見てから。

 あの夜、しほと酒を飲んでから。

 おれの中で、何かが決定的に変わってしまったのだと思う。

 それが何かなんて、さっぱりわからない。

 ただ極めて重大で、残っていた輝きみたいなものが消えてしまったのだ。

 だからといって、今更、何かをしようだなんて思わない。

 明日もまた、工場に行って荷物を詰めるだけだ。


 今、おれはあの公園にいる。

 あの、おれがあきと別れ、しほと警官に捕まった公園だ。

 そしてそこで、ルーズリーフとボールペンを手に、これを書いている。

 何となく、この最後の思い出を書いておきたくなったから、やっているのだ。

 深夜の公園には人は少なく、酔っ払いや不良の馬鹿どもが群がっている。

 おれも似たようなものだ。

 あの日みたく慣れない酒を飲みながら、こんな話をしたためているのだから。

 さんざん、あきの文字を見たと言うのに、何一つうまい言葉をかけない。

 ほんとうにひどくつまらないもんだ。

 だが、できるだけかけること全部かいたつもりだ。

 これに関して反省もくそもないけれど、悔いはない。

 最後に一つだけ、残しておきたいことがある。

 あきのことだ。

 あいつが本当にいたのか、もうおれには知ったこっちゃない。

 ただ一つだけ、本当に一つ、気になっていることがあるのだ。

 それは、あの日のことだ。

 彼の秘密を知った初雪の日、彼はトイレの中で何をしていたのか。

 考えたってしょうがないからやめるが、それだけがただおれの胸の中に残っている。

 歪んだ視界の中で、言葉は美しくも物事を矮小化させる愚かさを持っていた。

 おれはおれでいるはずだ。本当のことは本当のことであるはずなのだ。

 スノーボールのアルコールの中で、おれは一つそう思った。

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言葉に葬送、スノーボール 三葉 @mituha-syousetsu_

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