第21話

 馬車というのは、それ自体が一つの閉鎖された世界である。石畳の無遠慮な凹凸を拾っては、不規則な揺れとして乗客に還元するこの鉄と木の狭い箱は、乗り合わせた人間たちの関係性を否応なく規定してしまう。そして今、私の向かいの席に鎮座ましましているこの男、アベル司祭の存在は、この閉鎖空間の神学的密度を危険なレベルにまで高めていた。


 ヤバイ。実にヤバイ。


 私は、か弱き七歳の少女という社会的なペルソナを何とか維持しつつも、内心では警鐘を乱打していた(思えばこの警鐘、実に休まることが無い)。膝がぶつかる距離に座る司祭は神聖なる告解室において「私と死んでください」などと、ヤンデレもかくやという提案をしてきた頭のオカシイ人である。その彼が、今は聖書の一節でも口ずさむかのように穏やかに微笑んでいるのだから始末に負えない。彼の瞳は、窓の外を流れるありふれた風景にではなく、その向こう側にあるであろう「終焉」や「救済」といった、およそ正気の人間が日ごろ視界に含めぬ概念に向けられている。隣に座る最終兵器。いつ起爆するか分からない核地雷。それが、私のアベル司祭に対する偽らざる評価であった。


「マリアさん」

 不意に彼が口を開き、私は内臓がひっくり返るかと思うほどの衝撃を押し殺した。

「この旅路の終わりが、我々の魂の始まりなのですね」

「ええ、そうですね。そういう考え方も、あるかもしれませんね」

 私は百点満点の聖女スマイルで応じながら、内心では舌打ちした。やかましい。お前の魂の始まりは、私の人生の終わりとニアリーイコールなのだ。くそう。早くアグネスと会いたい。


 道中の宿屋で取った昼食休憩は、私のその懸念けねん杞憂きゆうなどではなく、むしろ過小評価であったことを証明する場となった。


 運ばれてきたのは、パンと野菜スープという、旅の食事としては実にオーソドックスなメニュー。しかし、なぜかアベルの前のわんに満たされたスープだけが、地獄の釜の煮汁もかくやという、禍々まがまがしいまでの深紅に染まっている。


 好奇心というものは、時に理性を麻痺させる悪魔のささやきである。私は、その赤い液体が決してパプリカやトマトといった牧歌的な食材に由来するものではないと本能で理解していながら、尋ねずにはいられなかった。


「アベル様、そのスープは一体、何でしょう?」


 すると彼は、恍惚こうこつとした表情でこう答えた。


「おお、マリアさん。これは、我々が生を実感できるものですよ。さあ、あなたも」


 そう言って、彼は自分のさじでその赤いスープをすくい、私の椀に分け与えてくれた。断るという選択肢は、彼の純真な狂気の前では存在し得なかった。


 私は意を決し、ひと匙、口に含んだ。

 次の瞬間、私の口腔内において、終末のラッパが高らかに鳴り響いた。からい。否、辛いという言葉では生ぬるい。これは味覚ではない、純然たる暴力だ。舌の上で、無数の悪魔が灼熱のフォークダンスを踊っている。この場合フォークダンスというのは、悪魔が手に持ったフォークをザクザクと舌に突き刺す死の舞踏のことである。私は淑女しゅくじょの作法も何もかも忘れ、あまりの苦痛に椅子から転げ落ち、床をのたうち回った。


「おや、すみません。子供の身体には、少々祝福が強すぎたかもしれません」


 アベルが慌てて差し出してくれたお茶を、私は救いを求めるようにあおった。死ぬほど熱かった。舌は完全に灼け野原と化した。


 そんな筆舌に尽くしがたい道中を経て、夜。

 我々はついに聖都ルクスに到着した。しかし、私の知る聖都の姿はどこにもなかった。もう陽が落ちているというのに厳格な門番による検問はなく、門は解放され、人の波が際限なく流れ込んでいる。色とりどりのランプが上に下にと乱雑にに並べられ、そして街の至る所に掲げられているのは、「祝・聖女フェス開催!」などと書かれた、信仰心の安売りセール会場のごときのぼりであった。


「なんですかこれは……ハロウィーン?」

 呆然と呟く私に、アベルが冷静に解説を加える。

「ご存知ないのですか? 教会内に有力な候補者が現れなかったため、民衆から広く才能を募る一大イベントが開かれているのです。登録さえ済ませれば、誰もが聖女となる資格を得られる。素晴らしいことです」

「教会に聖女候補がいない……?」


 ではいったい、アグネスはどこで何をしているのか?

 私の当然の疑問は、しかし、すぐに予想だにしない形で解決されることとなる。


 喧騒の中でもひときわ通る、清廉で真面目な声が、私の耳に届いたのだ。


「さあ、皆様! この『祝福の脂串』をどうぞ! 一本食せば、一日の労いが天に届き、二本食せば、明日の活力が主より与えられん! さあ、悔い改め、そしてお買い求めなさい!」


 声のする方へ向かうと、そこには油まみれのエプロンをつけ、頭に手ぬぐいを巻き、串焼き肉を聖槍のごとく掲げる、元聖女候補アグネスの姿があった。店の看板には「聖都名物アグネスの脂串!」と、本人の直筆であろう、実に達筆な文字が躍っている。


 私が「アグネス」と声をかけるのとほぼ同時に、私という存在を視界に捉えた彼女が、その翡翠ひすい色の瞳をカッと見開いた。そして次の瞬間、屋台の看板娘にあるまじき黄色い声で叫んだのだ。


「か、か、か、可愛いーーーーっ!!」


 串焼き肉が宙を舞った。脂が飛び散った。アグネスはそんなことにはお構いなしに、カウンターから身を乗り出す勢いで私を指さしている。

「な、なんて愛らしい! まるで迷い込んだ天使のよう! その金色の髪、憂いを帯びた藍色の瞳! 完璧ですわ!」

 私と聖女の座を争うほどだった娘が、その矜持きょうじはどこへやら。先ほどまでの威勢の良い客引きから一転、この熱狂ぶりである。彼女の思考回路は、おそらく一点の曇りもない純粋さゆえに、常人には理解しがたい速度で短絡を繰り返すのだ。


 ひとしきり興奮を吐き出した後、アグネスの視線は不意に彷徨い、私の隣――今しがた放たれた串焼き肉が頭へと着地したアベルの、その司祭服へとたどり着いた。

「あ! 司祭様もご一緒でしたか! 大変失礼いたしました! して、こちらの天使のようなお方は……?」

「こちらは聖女候補のマリアさんです」

 アベルはあからさまに面倒くさそうな声色をつくり、実に無責任な形で説明を端折はしょった。愚直なアグネスがその様子に気付くわけもなく「やっぱり!」と膝を打つ。

「この気品、ただ者ではないと思いました! たとえお召し物が質素でも、内から滲み出る魂の輝きは隠せませんもの! ……しかし、なぜ私の名前を……?」

「ごきげんよう、アグネス様。マリアです。聖都で最も敬虔で、次期聖女に最も近いと、かねてより噂は伺っておりました。このような場所で貴女にお会いできるとは、光栄ですわ」


 私が形式ばった社交辞令を述べると、アグネスの顔からさっと血の気が引いた。

「おやめください! 今の私に、そのようなお言葉をいただく資格はありません!」


 アグネスは半ば自暴自棄になったかのように語り始めた。いたいけな少女の前で、自身の失態全てを。いわく『初代聖女プリマの涙の石』という謳い文句の聖遺物詐欺に遭い、多額の借金を負ったこと。そして、その羞恥から候補を辞退したこと。


「あなたのような方が、これからのルクスを導いてください! 私のような、俗世の詐欺にすら気づけぬ愚か者が出ないように……!」


 涙ながらに訴える彼女の胸元には、いかにも安っぽいガラス玉がぶら下がっている。私は天を仰いだ。お前の純粋さは美徳ではなく、もはや生存戦略上の欠陥と断定せざるを得まい。


 隣に立つアベルが、それまで浮かべていた穏やかな微笑みをすっと消し、能面のような無表情になる。彼はアグネスに聞こえぬよう、私の耳元に唇を寄せ、明確な軽蔑を込めて囁いた。

「マリアさん、ご覧なさい。あれが偽りの聖女の末路です。ガラス玉を聖遺物と見誤り、俗世の借金に魂を縛られている。真理からも、救済からも、最も遠い場所にいる哀れな存在です。……あなたのような清浄な魂が、あのような濁りに関わるべきではありません」


 面倒なことの煮凝りのような男が、面倒事の化身のような女に牙を剥き始めた。地獄の始まりである。


 私が背筋を凍り付かせていると、屋台の奥から強面の店主が現れ、アグネスを一喝した。

「おいアグネス! 油売ってねえで、手ぇ動かせ! 借金返すまで休みはねえぞ!」

「は、はいぃ!」

 怯えたアグネスが、潤んだ瞳で私を見つめる。それは、初対面の相手に寄せるにはあまりに純粋な、「助けて、私の天使様」という無言の懇願に他ならない。

 時を同じくして、アベルが私の袖をそっと引いた。

「さあ、行きましょう、マリアさん。こんな俗な場所は、我々の旅路にふさわしくありません。もっと静かで、神聖な場所へ」

 それは「こんな女は捨てて、私と逝きましょう」という無言の圧力であった。


 前には、私のことなど知りもしないくせに初対面で惚れ込み、救いを求めてくる未来の聖女。多額の借金。

 後ろには、その聖女を不純物と断じ、私を来世へといざなう頭のオカシイ人。だが現時点での金づる。

 どちらも必要。どちらも面倒。

 いっそ全て投げ出して、どこか遠くに逃げてやろうか。そんな考えが頭をよぎる。

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