第18話

 鶏という鳥は、一説によれば縄張りを主張するために夜明けに鳴くのだという。だが、現在の私に言わせれば、あのけたたましい鳴き声は縄張り宣言などという高尚なものではない。単なる労働開始の号砲だ。そしてその労働とは、予測不能な痴愚ちぐかたまりを追い回すという、罰ゲームじみた苦行なのである。ねむい。


「Movete! 愚鈍なる被造物どもよ! 汝らの進むべきは、神の定めたもうた小屋の中である!」


 私がラテン語混じりの叱咤しったを飛ばそうが、鶏どもはまるで異端審問会の答弁のように、てんでんばらばらの方向へと逃げ惑うばかり。一羽を捕まえようとすれば、もう一羽が足元をすり抜け、泥を跳ね上げる。動きはランダム、思考はカオス。かつて私が論破した高名な異端者たちですら、彼らの右往左往よりは、はるかに論理的な思考回路を持っていたはずだ。


 ああ、聖アウグスティヌスよ。あなたはかつて人間の原罪について深く説かれたが、その本質とは、まさしくこの鶏糞けいふんの如きものであったか。いかに高尚な精神性を保とうとも足元にまとわりつき、思考を汚染し、尊厳を奪い去っていく。由々しき事態だ。私の脳内における知識体系の棚からトマス・アクィナスの『神学大全』が駆逐され、代わりに『実践・養鶏学』などという唾棄だきすべき書物が主役の座を奪いかねない。このままではいけない。私はこんな場所で、鶏の世話のために、何度目かの生を受けたわけではないはずだ。


 そんな私を嘲笑あざわらうかのように、一際ひときわ元気のいい一羽が、貧相な柵を軽々と飛び越え外へと逃亡した。まったくもって、柵の中で安穏と過ごすという鳥類としての至上の幸福を理解しない蒙昧もうまいなる反抗である。私は嘆息一つ、スカートの裾をたくし上げその後を追った。


 逃亡犯の追跡は、存外あっけなく終わりを迎える。村の小道、その先にある一本の大きな木の下で、私は実に非科学的な光景を目の当たりにした。


 我が家の鶏が、ぐったりと命の色を失くした姿で、宙に浮いていたのである。

 馬鹿な。重力という普遍の法則に、鶏ごときが逆らえるはずもない。私は眉をひそめて目を凝らした。ああ、なるほど。浮いているのではない。よく見れば、木陰の最も深い闇の中から伸びる何者かの手が、その足を掴んでいたのだ。


 次の瞬間、その闇が人の形をとったかのように、ぬっと道端へとにじみ出してきた。黒いフードを目深に被った男だった。


「これを探していたのかい? 勢いよく飛び出してきたものだから、運悪く私にぶつかってね。死んでしまったよ」


 不穏な内容であるのに、人好きのする穏やかな声だった。男は、首が不自然な角度に折れた鶏を差し出してくる。


 思考が検閲を入れる。ぶつかった? 馬鹿を言え。この鶏の首の折れ口は、まるで熟練の料理人が手際よく絞めたかのように、的確かつ最小限の外傷で絶命させられている。衝突死にしては、あまりに綺麗すぎる。


 ――この男、嘘をついているな。それも悪意を隠しているという風でもない。まるで呼吸をするかのように、ごく自然に、事実と異なる事象を口にしている。これはただの無法者ではなさそうだが……。


 枢機卿としての長年の経験が、私の脳内で警鐘けいしょうを乱打していた。深入りは禁物。だが、この得体の知れない存在を前に、ただ怯えて黙っているだけでは、かえって相手の興味を引く恐れがある。ならば、やるべきことは一つ。最も無害で、最も同情を誘う「役割」を演じきり、最小限の接触で最大限の利益――すなわち、情報と安全――を引き出すのだ。


 私は怯えきった哀れな少女の仮面を完璧に貼り付け、その瞳にみるみる涙を溜めてみせた。震える声で、目の前の男ではなく、腕の中の鶏に語りかけるように呟く。


「ああ、コッコちゃん……。病気のお母さんが、あなたが生む卵だけが楽しみだって、いつも言っていたのに……。これじゃあ、お母さん、もっと悪くなっちゃう……どうしよう」


 これはすなわち「損害を賠償しろ」という要求の、極めて消極的な言い換えに他ならない。だが、純粋な子供が紡ぐ悲劇は、時としてどんな真実よりも人の心を打つ。さあ、どう出る。不気味な男よ。私の作ったこの小さな悲劇に、あなたが付ける値はいかほどか。


 男はしばらく無言で私を見下ろしていたが、やがてフードの奥で、ふっと息を漏らした。それは嘲笑でも同情でもない、まるで遠い異国の出来事を聞いたかのような、奇妙に感情の乗らない音だった。


「……そうか。それは、すまないことをしたね。ならば薬代の足しにでもするといい」


 意外にも、男は私の芝居に乗り、あっさりと懐から銀貨を一枚取り出した。鶏一羽分と考えたら破格もいいところだが──その手つきに、罪悪感や出し渋るような色は一切ない。ただ、目の前で発生した「問題」を、最も手っ取り早い手段で処理しているだけ。その無機質な合理性が、かえって彼の異常性を際立たせていた。「それと」と男は付け加える。

「このことは、誰にも言わないでくれると助かる。私は今、ちょっとした内密の用事でね」

「……はい」


 つまり口止め料というわけか。私はこくりと頷き、銀貨を強く握りしめた。男は満足そうに頷くと、フードを揺らし、静かにその場を立ち去っていった。


 家に戻った私は母親に、鶏が一羽無残な姿で発見された顛末を報告した。もちろん、このふところで確かな重みを主張する銀貨の存在については、一片たりとも言及しない。かの男との間に交わされたのは、あくまで「このことは誰にも言わないでくれ」という守秘義務契約である。そして「このこと」というのは直近の行動に対する指示語の謂。要するに「口止め料を渡されたことは誰にも言わないでくれ」という契約が結ばれたと考えて然るべきである。鶏をくびり殺した不審な男と出会ったという「事象」については契約の範囲外であり、これを報告することは何ら契約違反にはあたらない。完璧な法解釈、見事なまでの詭弁である。私は内心で一人、自らの知性に祝杯をあげた。


「まあ、なんてこと! まさか、うちの子まで……」


 私の報告を聞いた母親は、血の気が引いた顔で口元を覆った。その反応は、単に家畜を一羽失ったという以上の、もっと根深い恐怖を示している。


「最近、どうも物騒よ。ミラーさんのところの山羊も、血も流さずに死んでるのが見つかったって言うし……。まるで、魂だけをすっぽり抜き取られたみたいに、奇妙な死体だったって」


 母親は眉をひそめ、声を潜める。その言葉は、私の脳裏にあの男の姿と、手際よすぎる鶏の死に様を鮮明に蘇らせた。


「鶏を殺したそいつも、よその村から流れ込んできた、ろくでもない連中の一人ね。神様を信じないならず者が増えて、本当にろくな世の中じゃないわ……」


 嘆き、神に祈り始める母親。その典型的な村人の反応を横目に、私は冷静に思考を巡らせる。ならず者の仕業? 違うな。ならず者の暴力は、もっと乱雑で無駄が多いものだ。だが、この村で起きている一連の事件と、私が目撃したあの男の手口には、共通した「静かな異常性」とでも言うべき、冷たい知性が感じられる。


 母親の長い愚痴が始まっていた。内心で辟易しながら聞き流していると、母親の語気が、ふと賞賛の響きを帯びた。


「……それに比べて、この村の司祭様は、本当に善い方でねえ。アベル様がいらっしゃるから、この村はまだ神様のご加護をいただけているのよ」


 ――司祭?


 その単語が、私の頭脳に、まるで天啓のごとく突き刺さった。そうだ、なぜこの至極単純な最適解に気づかなかったのか。


 私の脳内で停滞していた全ての歯車が噛み合い、壮麗な音を立てて回り始める。聖都へ行くための、最も効率的で最も労力の少ないルート。それは、地元の聖職者の権威を「利用」することに他ならない。


 このような辺境の村で、信徒から聖人と崇められるような聖職者など、その正体は手に取るようにわかる。十中八九、人の善さだけが取り柄の、世間知らずで単純な男だ。私が少しばかり敬虔さを演じ、不幸な境遇を涙ながらに語れば、たちまち「哀れで、しかし信仰深き神の子羊」とでも思い込むだろう。憐憫れんびんと使命感に駆られたそのアベルという男は、私のために喜んで推薦状を書くはずだ。


 その推薦状ひとつで、私はこの泥と鶏糞けいふんにまみれた生活から完全に脱出し、再び文明世界の快適な生活へと返り咲けるのだ。おお、なんという完璧な計画か。この結論に至るまでの思考の道筋。我ながら惚れ惚れするほどの明晰さである。哀れな田舎司祭よ、我が壮大なる計画の最初の礎となる栄誉を与えてやろう。お前の人の善さこそが、私をこの泥濘から天上の世界へと引き上げる、最も愚かで、最も確かな階段となるのだ!


「お母さま! わたくし、今すぐにでも神様にお祈りがしたいわ。午後に教会へ行ってもよろしいかしら!?」


 私は完璧な「マリア」を演じきり、潤んだ瞳で母親を見上げた。母親は一瞬言葉を失い、やがて感涙にむせびながら私の小さな体を抱きしめた。


「まあ、マリア! なんて感心な子なのでしょう! ええ、ええ、もちろん行ってらっしゃい!」


 かくして、天才的な閃きにより、我が「平穏生活奪還計画」は、再び高らかにその産声を上げたのである。


 *


 午後の教会は、静謐せいひつな空気に満ちていた。ステンドグラスから差し込む光が、床に神聖な模様を描き出している。


 私は祭壇へ向かってひざまずき、誰が見ても模範的で、敬虔な少女にしか見えないよう祈りのポーズをとった。さて、どのように演じてやろうか。涙の一つでも見せてやるのが効果的か。これから始まる「作業」の段取りを、冷静に組み立てる。


 ふと、祭壇の脇の暗がりから、人の気配がした。


「あの、司祭様でいらっしゃいますか?」

 私はゆっくりと首を巡らせながら、できる限り無垢な声で尋ねた。


「ああ、どうしたんだい? 小さな子羊よ」

 ――その声を聞いた瞬間、私の全身に、凍てつくような悪寒が走った。


 聞き覚えがある。人好きのする、あの穏やかな声。

 ゆっくりと、司祭服を着た男が、光の中へ姿を現す。


 穏やかな聖職者らしい笑みを浮かべたその顔は、紛れもなく、今朝、鶏の首をへし折り銀貨を渡してきた、あの不審者その人だった。


 私の思考が、完全に凍り付いた。

 ──人の善い、世間知らずな、田舎司祭だと?

 自信満々で立てたはずの完璧な計画が、前提の全てを失って霧散する。いや。もはや計画の失敗などという生易しいものではない。私はいま、自ら進んで捕食者の巣穴に足を踏み入れてしまったのだ。


 司祭アベルは、そんな私の凍り付いた表情を意にも介さず、ゆっくりと私に歩み寄った。目の前で跪き視線を合わせ、こう囁いたのだ。


「どうかしたのかな、小さな子羊よ。まるで、見るべきではないものを見てしまったかのような顔をしている」


 その瞳は、ステンドグラスの光を受けているはずなのに、何の光も反射していなかった。ただ、全てを吸い込むような、静かなうつろが広がっている。

 長年、権力者の腹の探り合いを生きてきた。どんな悪意にも、その裏には欲望や恐怖といった人間的な動機があった。だが、この男からは何も読み取れない。空っぽの器が、ただそこに在る。


 彼は私の震える手を、そっとその両手で包み込んだ。その手は、聖職者のものとは思えないほど、氷のように冷たかった。

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